第一話 吾輩は物の怪の猫である、名前はまだない。

 甕の水の中から暗くてジメジメとした岩場に、はっと気が付けば居たと思いきや物の怪の棲み処へと連れてこられてから暫らく。ようやく様々な事柄が判ってきた。先ず、この物の怪はその成りこそ強大で巨大であるが人間に等しい習性を持った生き物らしい。うつらうつらと眠りについて、眼が覚めたら物の怪は、吾輩に生肉をよこしてきた。生肉は決して食さない訳ではなかったが、人間と共存していると舌が肥えてしまうのだ。肉は生よりも焼いてあった方が吾輩にとっては好ましかった。生肉は時として腹を壊す、火を通した食べ物はそういうことが少ないと吾輩は主人と共にいるうちに学んだのだ。吾輩が口をつけずにいると、物の怪はその肉塊を火にくべた。ほほう、動物であるにも関わらず人間の様に調理といった事が出来るのかと、吾輩は感心する。焼いた肉を物の怪は、掴んで数回ぶんぶんとふる。熱さましの為なのだろう、ふった肉を再度吾輩の前に差し出して吾輩が食べるかどうかを伺っていた。吾輩はその肉の香りを嗅ぎ、そしてはぐりと口にする。表面は冷えていたが中は熱く、吾輩はびくりとしてしまった。はふはふと口を開閉し、ぼたりと地面へ肉を落とす。猫は猫舌というやつで、熱すぎる食べ物は苦手なのだ。気にすることなく食事を続けていたら喉が渇いてきた、そこで吾輩はこの物の怪の棲み処について見回るだけの余裕が出来たのだ。どうやら眠っている間に腹を空かせていたらしい、そんなことも思いつかなかったと吾輩はふむうと鼻息を立てる。相も変わらず物の怪は毛皮の横に丸まって吾輩の様子をじっと見つめていた。

 吾輩は、目の前の肉から視線を外して周囲を注意深く観察する。光る岩が数個、その場を照らしており隅には植物が積み上げられている。なんの植物かは吾輩にもよくわからないが、主人の邸では見たこともない植物の様子だった。鼻をひくつかせてニオイを嗅いだが、いまいちよくわからぬ香りであった。なんだか、タカジヤスターゼの香りにも似ている様な似ていない様な。それから透き通った色付きの硝子玉があっちこっちに散らばっている。前足でつつけば、それはころころと軽快なリズムで転がっていった。それから池があった。三寸にも足りぬ足では到底、地に足つかなそうな深さであったから吾輩はできる限り際で水を飲む。この池もまた、最初の水場の様に不思議な水であった。体がみなぎってくる不思議な水、ビールの様な高揚感はなく微睡まどろみの中にいる様な安心感をもたらす水――。あとはこれといって無く、どうやらここら辺が物の怪の邸の様であった。入口や木の板で出来た扉はない、外へ続く道は丸裸になっている。そこから外へでも出てみようか、と思い前足を一歩前へ進めたらグルルルという音と共に吾輩の身体は宙に浮いた。そして肉の目の前に置かれる。それよりも外がどうなっているのか好奇心が勝って、なんでも同じ事を四五遍繰り返した。結局、物の怪はふうと息を吐いて吾輩を肉の前へと坐らすと入口を封じる形で丸くなり吾輩が通れる隙間など失くしてしまった。

 そんな生活が暫らく続き、そろそろ陽の光を浴びたいと思った頃だったか。物の怪と吾輩が隣同士で眠っていると、人間がやってきた。主人とは全然似ても似つかぬ成りをしているが人間であることは間違いないだろう。物の怪はその人間の姿をみても素知らぬ振りだ。人間が不可思議なものを見る様に吾輩を眺め、そして物の怪に話しかける。だがそれは人間から発せられる言葉等ではなかった、物の怪が発する音と同じで地響きを連想させる咆哮であった。人間がこのような音を出せるのは知らなかった、主人からも妻君からも小共からも聴いたことがない。その咆哮に応える様に物の怪も答える。どうやら其れは会話であったらしい。だが物の怪と人間が、何を会話していたのかは吾輩には解らない。だが物の怪と一緒に喋っていたであろう人間は吾輩を指さして大きく吠えた。其れは、何度かあの物の怪にもそうやって指さして吠えられた音と同じであった。それがどういう意味であるかは吾輩にも理解が追い付かないが、どうにも吾輩を指し示している事だけはこの数日の間で理解ができたのだ。吾輩はその音に反応し、その人間を見る。人間は、興味津々といった様子で吾輩のことを掴み上げようとした。ぱしりと、人間が飛ぶ――否、正確には吹き飛ばされた。どうやら物の怪が吾輩に触れようとした人間を自身の尾で叩き落としたらしい。だが人間はへらへらと間抜けな顔で何やら物の怪に話しかけている。物の怪はふん、と鼻息を吐いて大きな掌で人間を外に続く道へと追いやった。何回か人間は吠えて、結局諦めて帰ったらしい。人間がしっかりと帰ったのを確認して、物の怪は池の中へと入っていく。池の中にある水草を引っこ抜いて集め、それらを吾輩にしてくれた様に植物に火を灯して乾かしていた。暫らく時間が過ぎて、乾いた水草を物の怪は器用に編んでいく。妻君が棒の様なものを使ってやっていた編み物に似た動きで、てきぱきと、そんな姿を眺めているうちに吾輩はとろんと眼が重たくなってきた。暗転。

 ふわりと、持ち上げられた感覚があって吾輩は眼を覚ました。物の怪が吾輩の身体を持ち上げて草の鞄の中へと降ろす。これは、先ほど編んでいた水草だろうが、それを首にかけ物の怪はのっしのっしと邸の外へと出て行った。吾輩は草の鞄の中からひょっこりと頭だけ出してみる、どうやら外の道を歩いているらしく久々にほかの動物を見た。光る岩場を通り抜け、蛍の浮かんだ湖をまっすぐ、人の頭程ある蜘蛛クモや蝙蝠のいる場所を駆けて道の向こうに光が見えた。久々に見た光源に吾輩は眼から火が出る。思わず眼を眠らせて、吾輩は草の鞄の中へと引っ込んだ。どさり、と音がして草の鞄が地面に置かれたのを吾輩は感じて、眠らせた眼をゆっくりと開く。草の鞄から頭を恐る恐る出してみれば草原だった。一面が新録色の草原、ゆらゆらと揺れるエノコログサは、かつて吾輩が邸の庭や他の家や道すがら見かけたものと同一の植物らしい。小共らがもってきて吾輩を構うこともあったあの草は主人を除いてはねこじゃらし、と呼んでいた。くんくん、と風の匂いを嗅ぐ。久しく嗅いでいない大地、草、乾燥した空気の香りに吾輩は懐かしさを感じる、季節は春かあるいは夏に入りかけといった所だろう。朗らかな太陽が優しく大地を照らし、風が躍る様に吹いた。物の怪は、吾輩を草の鞄から掬い出し草原へと降ろす。草原は広く、どこまでも続いている様に見えたがそうではないらしい、物の怪の様子をみながら駆け抜けた先には街へと続く道がある。ずいぶんと下らなければならない様子ではあるが、そう遠くもない。今は難しそうだがいずれ行ってみるのもいいだろう。

 野を駆け回り、うーんと伸びをする。物の怪は最初に草の鞄を下した所で丸まってこちらの様子を伺うだけだったので吾輩は、好きに遊び好きに寝ころんだ。久々の外の空気に触れてご機嫌でいると、もにゅんと何かを踏む。ううむ、と地面を見れば初めて見た姿のネズミの様であった。これはちょうど良いと、吾輩はそのネズミをとらえる事にしたのだ。ネズミは、不思議な事に逃げる気配を見せない。それどころかこちらの出方を伺っている、吾輩はうずうずと身体を揺らしてネズミにとびかかった。するとひらり、ネズミは吾輩を小馬鹿にした態度で避ける。それどころか、ネズミは鋭くとがった爪で吾輩の足を思い切りシャッとひっかいた。痛みで飛びのく、だがネズミは退く訳でもなく吾輩の前足を再度狙ってくるではないか。今までにない経験にあたふたしているとネズミがとびかかってきて吾輩の顔に頭突きをしてきたではないか。これは一体どういうことか! 吾輩は確かにネズミを捕らぬ猫ではあったがそれでもこのようなネズミの話は一度として聞き及んだことがない。驚きのあまり吾輩は物の怪の方へ走っていった、するとネズミは物の怪の姿を見るや否や、吾輩を追いかけてきたのも忘れて姿を消してしまった。そこで終いだと思ったのは吾輩もネズミも同じだろう、だがそんな事で終いにはならなかった様子だ。一部始終を見ていた物の怪が、ドンッと地面を鳴らす。吾輩をひっかいたネズミとそしてそれ以外にも居たのであろう、他のネズミはその地ならしに気絶をしてしまったらしい。吾輩が呆気に取られていると、物の怪はネズミの数匹を前足で掴み……吾輩の前に置いた。

 困惑、沈黙、そして物の怪は何かを考えあぐねてネズミの一匹を前足で自身の前に手繰り寄せ――その大きな掌でつぶしてみせた。ネズミは見るも無残な姿になっており、吾輩は眼を白黒させたのであった。物の怪は同じようにやって見せろというのか、ネズミを吾輩の前に一匹押し付ける。吾輩の足は三寸しかない、そんな荒業が出来るはずもなかろうと思わざる得ず、思わず抗議する様にニャーニャーと泣いた。ならばと物の怪はもう一匹のネズミを掴み上げ、火を噴いた。吾輩はくらくらとする。吾輩がそんな事が出来るはずもない、態度から物の怪も理解したのか、今度は爪でひっかく真似をした。真似で済んだのはネズミがもう殆ど居ないからであろう。これならば出来ると吾輩が爪でネズミをひっかくと、ネズミの肉がえぐれてキュウッと泣いた。どうやら絶命したらしい。するとぽろぽろとなにやらネズミの身体から零れる。キラキラとした石であったがそれが何なのか吾輩には、良く解らなかった。この世界に生まれついてからというもの、吾輩の生きてきた常識とはあまりにもかけ離れた事が多いにある。キラキラとした石を物の怪は摘み上げ、吾輩の口へと入れようとする。いくら綺麗な光物だからといって、こんなもの食べれるわけが無いと拒もうとすると身体を掴まれ無理やり石を飲まされた。しかも他のネズミから零れたであろう石もだ。不思議と、その石は痛くも痒くもない。それどころかたちまちネズミに引っかかれた傷が治癒していくではないか、なるほどこれは薬と同じなのだなと吾輩は思う、それにしては良薬口に苦しというのは嘘だったのではないかと思う程キラキラした石は甘く不味いものではなかった。これならばもっと食べたいと思う。

 何を思ったのか知れないが、その日は物の怪と一緒にネズミ狩りに精を出すことになった。正直疲れたので日に十匹もに十匹もネズミを狩るのはご免蒙りたい。そしてキラキラの石も、一度に数十個食べるのは飽き飽きだ。こういったものは偶にでいいと吾輩は心底思った。

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吾輩はLv999の猫である、名前はまだない。 Lily @kakerunatubi

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