吾輩はLv999の猫である、名前はまだない。

Lily

序幕 吾輩は転生したのである、名前はまだない。

 太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい――。そうこうして、吾輩わがはいは真に太平を手に入れたはずだった。人間はれを走馬灯そうまとうと呼んでいた様な気がするが、吾輩がかめの中で自然の力に任せて抵抗するのを止めた辺りから記憶が逆流していくのを感じたのを覚えている。

 ず、皮肉なことに甕に落ちる瞬間の事を思い出す。ふらふらと立ち上がり前足を出したら気が付けば水の中よ。その原因になったのは、三平などが飲んでいたビールというものを飲んだからである事は、吾輩にも明確に判る。どうせいつ死ぬか知れぬ命だ、そう思って口にしたビールであったが思ったその日の内に死ぬとは、流石さすがに思わなんだ。走馬灯は様々な記憶を逆流していき、飢えて死にそうに思った池に、非常に痛い思いをした笹原に書生の顔、そしてわらの上でニャーニャーと泣いていた事までさかのぼる。其れ以上はプツリ、と途絶えていて暗転、暗転、暗転……。

 はっと気が付いた時には吾輩は記憶の中でも一番遠い、それこそ人間がこぞって小猫と呼ぶ姿に成っている事に気が付く。はて、これまた奇怪な。一体何がどうなってこうなってしまったのやらと吾輩は、辺りを見渡した。どうやら其処そこは、暗くてジメジメとしている場所らしい。薄暗いという表現では足りぬ暗がりで、天には月すら浮かんでいない。ただゴツゴツとした岩と、そして水場があるだけだった。前足も後ろ足も尾も、最期のときより一回り小さくなってはいるが相も変わらず容姿は昔のままに思う。波斯ペルシャ産の猫の如く黄を含める淡灰色たんかいしょくうるしの如きまだら入り、吾輩が吾輩である事は何一つ違わない様子であった。

 さて、どうしたものかと水場にすわって考える。最初の時は別にこれという分別もなく、書生がまた迎えに来てくれるかと思いニャーニャーと泣いてみたが、結局は誰も来なかった。今回もまたそうであろう、きっと小猫が外でニャーニャーとか細い声で泣こうとも人間は、猫を好きでもない限りは助けやしないのだ。二の舞を踏む事もなかろう。しかしながらこのままこうしていても終いには腹が減り餓死がしするだけなので、吾輩は周囲を探るかどうかを考えあぐねていた。下手に動いて腹を空かせて餓死するのは、ご免蒙めんこうむる。だがいつまでも水場の前で坐っている訳にもいかず、とりあえずは水質調査とでも云う様に目の前の水場の水を口にしてみた。その瞬間、吾輩は驚いた。水は、水でもとても普通の水とは表現できない水であった。味は水であり、目の前の此れは水であるといった事実は、変わりもしない。水の匂いもするし味も水である。しかし一口、二口と舌を入れてぴちゃぴちゃとやってみればみる程、其れが只の水ではない事が判る。しかし、何がどういうものなのか吾輩には皆目見当も付かないし、説明しようにも吾輩の知識では事が足りぬらしい。兎にも角にも、すごいのだ。体のあちこちがみなぎって来る様な、そんな感覚を得る。此れは一体なんであろうか、そう考えていると耳がピクリと動いた。

 ゴゴゴゴといった地響きが奥の方から聞こえる。其れはとてつもなく強大で巨大な何かであった。逃げる間もなく対峙した其れを吾輩は見たことがない。吾輩の知る限り、其れの姿は実に異形と呼ぶに相応しい成りをしていた。蜥蜴トカゲの皮膚で覆われギロリとした眼の玉もその様だ、背には蝙蝠コウモリを思わせる巨大な羽を持ち畳んでいる。四足歩行で尾があり頭には羊も吃驚びっくりであろう立派な角がこれでもかと鎮座していた。物の怪だ、物の怪の類だ、と吾輩は思う。物の怪は、グルルと唸り声を上げて吾輩を見る。交差する視線を逸らし吾輩は地面を見た。敵意はないという表れの其の行動が果たして、この物の怪に通用するか判りはしないがなぶり殺されるのだけは勘弁である。痛い思いをしたくないのは、人間も猫も変わりない。小さく吾輩が縮こまっていると、物の怪はグワンと咆哮した。暗がりに響く声に吾輩は身の毛がよだつ。喧嘩を売る様な相手では決してない。本能が身体を支配する、逆らってはならない存在だと身をもって感じる。ひょいと、その強大で巨大な物の怪は、前足で吾輩の頸筋くびすじをつかんで己の掌に乗せる。人間の掌よりもずっと大きく、そして広々としている。吾輩と同じ様に爪を持っているが、その爪はむき出しのままだ。岩か何かにすら見える、その爪に触れぬ様に吾輩は小さくなってしまった身体を、さらに小さくした。尾がぐったりとしてしまうのは恐怖を感じているからであろう。物の怪の生暖かい息がかかる、眼がギラリと光る。これはもう、死ぬしかないだろう。と覚悟を決め目を眠らせるが待てども暮らせどもその刻は来ない……はて、と薄目を開けると物の怪と瞳が交差した。物の怪は何かを語りたかったのかグワンと泣いたがその意味を吾輩が理解できる筈もなく、困惑と沈黙がその場に走る。どうやら言葉が通じないらしいという事が、その物の怪にも理解はできた様で吾輩を掌に乗せたまま、物の怪はのっしのっしと暗がりの奥の方へと歩いて行った。どうやらこの物の怪は人間の様に二足歩行も出来るらしい。なんと、奇妙な物の怪である。

 さて、其れからどうなったのかというと物の怪は、どうやら吾輩を今すぐ食らうつもりはないらしい。今は未だ小さいからなのか、それとも物の怪の気まぐれなのかは想像も付かぬが当面の心配はなさそうであった。恐らくは……。移動の途中、眼を眠らせずに薄目だけを開けていた。どうやら暗がりには吾輩がかつて見たことがない動物が沢山存在している様だ。それだけではなく光る不思議な岩や、妻君がいくらか持っていた透き通った色のついた硝子等がそこかしこに散らばっている。猫の目にしてみても、それらは貴重な物ではないか主人に持っていったら気でも狂ってしまうのではないかと思う品々ばかりだ。のっしのっしと歩く物の怪を他の動物は避ける、中には吾輩の様に身を縮ませているものまでいる。それは至極当然な有様であった。しばらくして、物の怪は何を思ったのかぐわりと大きな口を開けて吾輩を口に含んだ。流石にこれはもう終いだと思ったが噛砕かれたり呑まれたりはせず、しばらくして口がぐわりと開く。そうして、物の怪はまたしても吾輩の頸筋をつまみ、地面へとそっと置いた。置かれた場所は、地面ではなく何やら動物の皮の上の様子である。兎かあるいは犬か、猫ではあるまいが兎に角初めて見る柄の動物の毛皮の上に置かれていた。ぶるりと体を震わせ水気を払う。口の中に含まれれば多少はよだれで汚れるのは当たり前の話である。その様子を物の怪は見ていたのか、前足で何やら植物をかき集め口を開き息を吐いた。否、息ではない炎を吐いたのだ。植物は当然その炎にさらされ燃やされ、パチパチと音を立てている。これは料理の準備なのではないか、と思ったのも束の間、またしても吾輩は頸筋をつままれ火の目の前へと置かれた。遠すぎず、かといって近すぎず、心地よいくらいの熱さであったしそのおかげで毛も乾く。物の怪はそれ以上何をする訳でもなく、吾輩が降ろされた毛皮の真横でぐるりと丸くなる。さてどうしたものか……だが吾輩はその物の怪からは一切、殺気を感じることはなくすることもないので、火で毛を乾かした後に結局はその毛皮の上に戻って丸まった。今日は色々あった、うつらうつらと眠気が訪れて吾輩は思い出す。小猫というのは、そういえばそれ程体力のある生き物ではなかったなあ、しばらく久しい経験であったので忘れていた。暗転、暗転、暗転――吾輩は眠りについた。

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