7-3

「存外広いな、此処……!」

 リンドがうんざりした顔で、長い廊下を走っている最中に声を上げた。

「蜥蜴君もうバテたの? ダサっ」

 すかさずハーメルンが罵倒した。しかし警戒を緩めているわけでもなく、周りを注視して、先導している。

「ばててねーよ! ガキお前の歩幅がちいせえからそれに合わせてトロトロ走るのが疲れるくらいだわ 逆に」

「どすどす足音たてて走んないでよ、アビゲイルがすっ飛んできても知らないよ」

 口論をやめない二人にルカは息をついてから、

「にしても……アビゲイルは、これだけドタバタ暴れてても、気づかねえもんだな」

 そう疑問を口に出した。「チビの癖に生意気だ」などと関係のない罵倒をしはじめたリンドを無視し、ハーメルンが答えようと口を開く。

「そりゃあ、彼女、基本的にアンジュのお世話で必死だからね……気づいてても、自分から行くことはないんじゃないかな」

 ハーメルンの答えは納得しきれるものではなかったが、とりあえずルカはへえ、と小さく声を上げた。なにせ、アンジュ・パートランドが今、どのような状態になっているのか——ヨハンはアンジュが化け物になり果てた、と言っていたが、ルカには皆目見当がつかない。

(ハーメルンのように、なっているのか……?)

 多様な生物を混ぜられ、無理やりその生物たちの能力をつぎはぎのように獲得させられ、精神を崩壊させかけている——そんな状態になっている人間がもう一人いるのかと思うと、ルカはぞっとした。

「バカヤロウ、どうせぶっ飛ばすんだ、どっちにしろ変わらねえよ」

(確かに……な)

 リンドの言った言葉の意味は違っただろうが、ルカは勝手に解釈して、燻る感傷に蓋をした。

「——!」

 唐突に、リンドは空中に拳を振るった——同時に——べちゃっ、という何かがつぶれるような音がして、床に何か落下した。

 つぶれて形が変形してしまっているが、羽のようなものが生えた半透明の異形の生物だ。少なくとも、ルカの経験ではこんな生物は見たことがなかった。血液らしい緑色の液体が流れ出ている。未だ死んではいないようで、ずるずると破片が這いずっている。

「うわ、キモッ!」

 異形の血液が拳に着いたらしいリンドが顔を歪めて、近くにいたルカのローブで血液を拭った。「塗りつけるな!」という悲鳴を上げるルカをよそに、ハーメルンは地面に落ちた異形を足でつつく。

「多分、脱走した失敗作の実験生物じゃないかな……アンジュのご飯の時間かもね」

「随分生きがいいな、こんなんが食卓から逃げ出すなんてよ」

 リンドがそう軽口を言うと、同じような種類の異形が唐突に物陰から飛び出してきた——鋭く蹴りを食らわし、空中で液体をまき散らし、異形はあっというまに弾ける。

「——失敗作を娘に食わすのか」

 ぼそりと呟いて、まとわりつこうとしたアメーバ状の生物を、ルカは容赦なく踏みつぶす。それはカエルみたいな鳴き声を上げて、カーペットにしみこんでいった。

「……………」

 他にも実験生物らしいものたちがうごめいているのがルカにはわかった。いちいち気配を探らずとも、だ。ルカが吸血鬼と対峙したときと同じような殺意を、複数向けられている。

(そりゃあ、そうだよな。いきなり捕まって、いきなり混ぜられるなんて、とてつもなく理不尽だ)

 思って、ハーメルンをちらりと見やると、視線に気づいたらしい彼がルカの方を怪訝そうに見てきた。何も言わず、ルカはまた目を逸らす

「適当に片付けながら研究室に向かおう。ここからまっすぐ突っ走れば、すぐだ」

 そう一息で言って、ハーメルンは床を蹴り疾駆する。ハーメルンが通りすぎた跡には、切り裂かれた実験生物の肉片が残されていた。

「雑魚の相手とか、ダル……」

 目を半目にしつつ、リンドは緩慢な動きで敵を伸して行った。この男が求める、所謂血沸き肉躍る強敵なんてものが、こんなところで気軽に出てきてくれても困る、とルカは胸の内でぼやいた。

 ずるり、と何かを引きずる音がして、ルカはぱっとそちらに目を向ける。壁や床を、先ほどリンドが相手取っていた異形に似たものが這いずっている——小さな個体から、それなりの大きさのものまで——とりあえず、数を数えたくなくなるほどの数で、ルカは息をついた。

「母なる大地の嘆きを聞け」

 ルカが唱えると、彼の足元から急速に白んでいく——魔術によって急速に周囲の温度が引き下げられ、床や壁もろとも実験生物たちは氷結した。

「破壊よ」

 白い息を吐いて、またルカは唱える。刹那、凍り付いた異形がパキパキ音を立て、そのまま炸裂した。

(水分量がかなり多いんで、ウーズをベースにしたキメラなんだろうな……)

 ウーズ。半透明なゼリー状をした雑食の生物だ。さして人間に害はないが、湿地を好むので、風呂などの水回りに突然発生する生物でもある。いわゆる不快害獣ではあるが、食性と、彼らが排泄するのは浄化された水だけ、ということで下水処理に利用できるではないかと有識者の中で日夜議論が交わされているらしい。

 そんな知識をルカが脳内から引っ張り出していると、「おい!」と明らかに非難じみたリンドの声が飛んで来る。

「そこら辺凍らすのやめろや……! 滑るだろ……!」

 凍った床で滑って転ぶのをなんとか耐え抜いたらしい、必死の形相のリンドがそう唸った。リンドの言ったことは珍しく至極真っ当だったが、なんとなくルカは反省する気持ちになれず、転びかけるリンドの背を後押しすべく、震えている足を引っかけて転ばしにかかった。

「だぁっ!?」

「潔く転んでおけ」

 無様に転んだリンドをルカは鼻で笑いつつ、ルカは凍った床を慎重に歩き始めた。――と、唐突にルカの頭に鋭い痛みが走る! 踏みつけられたような感覚がして、ルカはバランスを崩すと、そのまま倒れ込んでしまった。

「きみら、何遊んでるの? ばかじゃないのっ?」

 その怒声に、ルカは顔だけ起こした。ハーメルンが呆れかえったような顔をして立っている。先を行っていたハーメルンがわざわざ戻ってきてルカの頭を踏みつけに来たらしい。ハーメルンの怒りはもっともだったので、ルカは何も言えなくなって床にまた突っ伏した。

「この瞬間冷凍魔術師のせいだわ!」

「……俺のせいにすんな! お前が間抜けだからちょっと教育してやったんだよ!」

「少しは協調性ってものを持ちなよ、君たちさあ」

 立ち上がってののしり合うルカとリンドにハーメルンは嘆息し、早くしろとばかりに廊下の奥の方を顎でしゃくった。

 ハーメルンの言葉と行動にぐうの音も出ない二人は、ようやくハーメルンに習って、適当に実験生物たちをいなしつつ、奥に進んだ。

 奥に行くにつれて、徐々に異臭が漂ってきて——ルカは顔をしかめた。想像もしたくないし、今から見る羽目になるのだろうが——アンジュの「食事」のせいだろう。

「あの部屋だよ!」

 突き当たって、ハーメルンはそのまま目の前の扉に蹴りを食らわした——だあんっ!という大きな音を響かせて、三人は部屋に飛び込む。

 ルカが先ほどから感じていた異臭が強くなり、彼はさらに顔を歪めた。薄暗い部屋だ——それなりの広さもある。ぐちゃぐちゃと、何かを咀嚼するような気味の悪い音が部屋に響いている。

「——新しい素材?それにしては、やけに元気みたいだけど」

 不機嫌そうな声とともに、部屋の奥から女が現れた。状況から、ルカは彼女がアビゲイルだと断定した。ハーメルンに話しかけているらしい。

 茶色の髪をショートカットにした、片目を隠した女だ。痩せ気味ではあったが、それなりにスタイルもよく、よく見れば顔立ちも整っている——いわゆる美女だった。

 しかし、着ている服はみすぼらしいもので、顔には隈もある。彼女が自分の身なりに頓着していないように——そんな余裕がないように、ルカには感じられた。

(俺の母さんもそうだった。俺達を食わせるために、自分のことは全部後回しにして、服だって、いつもぼろぼろだった……)

 それが愛だったのだとルカは思う。幼い頃はわからなくて、なんだか母親と歩くのが、恥かしいとさえ思ったこともあった。

 いつも気づくのが遅すぎるのだと、ルカは自分自身がまた呪わしくなった。

 目の前の彼女も同じなのだと思った——娘のために、己のすべてを捧げているのだろうと、ルカには思えた。

「何? 違うの? 失敗作どもも逃げるし、子供はアナタが殆ど食べちゃうし……これじゃあアンジュが可哀想じゃない!」

 ヒステリックに、アビゲイル。声を投げかけられても、ハーメルンは何も答えなかった。

 ぐちゃぐちゃという咀嚼音が止む。代わりにずるずると、何かを引きずるような不気味な音が聞こえて、

「その奥にいるのは何だ……?」

 ルカはほぼ反射的にアビゲイルに尋ねた。

「わたしの娘、アンジュよ」

 何の戸惑いもなく、アビゲイルは答えた。さらに彼女は目を細めて、不気味な音の方向へ愛し気に視線を向ける。

 ルカもまた、そちらを覗き込む——鉄の格子がちらりと見えた――娘と呼ぶそれを、アビゲイルは檻に閉じ込めているらしい——さらに目を凝らす。

「————」

 ルカは絶句した。息を呑む——すぐにアンジュと呼ばれるそれから目をそらした。

 天井くらいまでの高さはある、それなりの大きさの細切れになった肉をむりやり固めたようなものから、人間の腕や何かの生物の顔がそこら中から飛び出ている。身体から無作為に生えた細い腸のような触手の先端に様々な色の目玉がついており、目玉をぎょろつかせ、周囲を見ているようだった。少女の面影は一切ない。強いて言うなら、ルカが目を逸らす前に視界に入った、助けを求めるように肉壁から飛び出した小さな手が、そうなのかもしれないとルカは思った。それすらも、感傷でしかないのかもしれないが。

 名状しがたい生き物だった。ルカには分からなかった。なぜ、アビゲイルはこれが自分の娘だと呼べるのか。

(愛、か?)

 考えかけて、ルカはくだらなくなってやめた。もしこれが彼女の愛だと呼ばれるものだとしても、自分には一生理解できる気がしなかったからだ。

「マ……マ………ママ……」

ぐちゃぐちゃと、いちいち肉が擦れる音を立てながら、それでも子供のような声が怪物から響いた。ルカは吐きそうになって、つい口を抑える。

 と——唐突に、ルカの背中に鈍い痛みが走る。茫然自失としていたルカだったが、痛みと共に襲ってきた衝撃で転びかけたのをなんとか耐えた。

「邪魔」

 鋭い声とともにリンドに肩を押され、ルカは先ほどの背中の痛みの原因がすぐに分かった——何故だかルカには分からないが、殴られたか蹴られたかしたのだろう。ルカはじとっと横を通り過ぎるリンドに非難の目を向けたが、リンドはそんなルカを無視して突き進む。

「おいそこの。頭イカれてんのか?」

 アビゲイルの前で止まると、リンドが唐突にそう声を上げた。言われた当人であるアビゲイルはぴくりともしない。

「何他人事みたいな顔してんだ。アンタだよ、アンタ」

 いちいちアビゲイルに指をさして、リンドは言った。それに対して、アビゲイルは目をぱちぱちさせて、それから眉を吊り上げる。

「何が? わたしの何がおかしいって言うの?」

 心底理解できないとでも言ったような調子で、アビゲイル。侮辱されたことだけは分かったらしく、目が怒りに燃えていた。

「ああ悪ィ、くだらんことを聞いた——そうだよな。頭イカれてなかったらこんなことしねえわな」

 臆面もなく、リンド。アビゲイルの奥にあるのかもしれない悲しみに、彼は寄り添う気はないらしい。

「わたしはなにもおかしくないわ!」

 アビゲイルの怒鳴り声が詠唱となり、周囲に散らばっていた薬瓶や、這っていた実験生物が膨張し、破裂した。リンドは特に動じる事もなく、さっと後ろに避けただけだ。

、何してるの? さっさと殺すなり無力化するなりしなさい。わたしの手を煩わせないで! わたしが忙しい事くらい、わかってるでしょう!」

 アビゲイルが髪を掻きむしりながら、今度はハーメルンを睨みつけ、そう怒声を上げた。

「アビゲイル、悪いけど……に協力する理由が、僕にはない。代わりに、殺す理由はある」

「……何? 逆恨み? 冗談言わないで、あなたが食い殺したのよ、あの子たちは。第一、わたしが——」

 アビゲイルは形のいい唇を歪めて、続ける。

「かわいいアンジュにあんな小汚い子供を食べさせるわけないでしょう?」

 そんな言葉を浴びせられても、ハーメルンは冷静だった——怒鳴り散らすわけでもなく、泣き崩れるわけでもない。ただ、憐憫の目を、アビゲイルに向けていた。

「アンジュ、お腹すいたよね……ごめんね、すぐ終わらせるからね」

 アビゲイルはそう後ろの怪物に優し気に声をかけると、ルカ達の方を一瞥し、再び口を開く。

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