六章 正義を貫くために

6-1

「えっ、ハーメルンお兄ちゃんを知っているの――」

 二人とは対照的に、ぱあっと顔を輝かせた少女が言いかけると、いきなり少年が立ち上がって、

「黙ってろ!」

 そう怒声を上げる。びくっと肩を震わせ、ひどく驚いたらしい少女はボロボロと涙をこぼし始めた。

「ぼくが毒を盛った! 二人は何も知らない――ハーメルンって人も関係ない!」

 少年はルカを睨みつけ、そう怒鳴り散らした。ルカには明らかに嘘だと分かった。子供と言うものは、何かを隠したいとき、不自然なほどに必死になるものだ。

「……ハーメルンは、お前に俺たちを殺せと命じたのか」

「うるさい――黙れっ!」

 少年はわめいてから、机に置いてあったパンナイフを近くにいたリンドに向けた。「わー、こわいこわい、それでオレさまもスライスしてやるーってかあ?」

 からかうように言うリンドを制止して、ルカは口を開く。

「……彼の命令に従う理由は? 助けられたからか?」

「……うるさい……! ぼくはただ、あの人の力に……」

 半泣きになりながら、少年はぼそぼそと呟いた。続く言葉をルカが待っているが、リンドは刃物を――殺意を向けられて、我慢できる男でもなかった。

「なるほー、あのガキの手駒かあ」

 言いながらリンドは食卓をいきなり蹴り飛ばし、料理や家具を散乱させた。少女は泣き叫び、女は少女を庇いながら悲鳴を上げる。

 震えてもなおナイフを向ける少年の細い首を、リンドは容赦なく引っ掴んだ。

「あのガキのこと知ってんのか? どこにいるか、言え。そこの女」

「あ――ぐ……」

 リンドに首を締め上げられ、苦しんでいる少年を見て、女は泣きながら声にならない叫びを上げた。

「ちなみに言ったからってこいつのことを見逃してやる気はないが、お前とその子供は見逃してやってもいい。オレさまってばやさしー」

「っやめろっ! 何を、考えて――」

 そう声を上げるルカに腕を掴まれるが、リンドはそれを易々と振り払う。

「何、殺されかけたのにまたお人好し発動かよ。お荷物は御免だ――てめえの行動ひとつで、無駄な犠牲が増えるかもよ?」

 言われて、ルカはたじろいだ。そのままリンドは凶行を続ける。恐怖で腰が抜け、言葉を失っている女は放心状態で声も出せず、意味もなく口を動かすだけで、少女はただただ泣き叫んでいた。

(どうして、こんな…………)

 苦しみもがいている少年はしきりにリンドの身体を蹴っていた。子供は無力だ。いくら鍛えたところで、幼さと言うのは仇になるのだとルカは身をもって知っていた。

 だがリンドと言う男は、その幼さを許すほど寛容でもなかった。

「聞き分けのねーガキはダメだわ」

「げほ……っ」

 リンドが締め上げていた右手をいきなり離すと、少年は苦しそうに咳込みながら床に崩れ落ちた。

「やめろ」

 もう一度、ルカがどうしようもなくつぶやく。リンドは倒れ、苦しんでいる少年の身体を踏みつけようとする。ルカは更に絶望的な気持ちになった。

 ルカが駆け出すより先に、女がまた踏みつけられそうになる少年を庇うように抱きしめた。足が悪いらしい彼女からは考えられない動きだった。火事場の馬鹿力というやつかもしれない。

 家族を守りたいという、愛情からくるものだろうとルカには思えた。

「邪魔! そういうのうぜー!」

 女の行動を鬱陶しく感じたらしいリンドが怒声を上げ、足を振り下ろす。蹴られた女は悲鳴を上げ、痛みに耐えている。

(いやだ……また、俺のせいで……俺が弱いせいで……)

 顔を引きつらせながら、ルカは心の中でうめいた。

 踏みつけられた女が悲鳴を上げる――少女の泣き声が部屋中に響く、庇われる少年は何も言わずに、ただ身体を震わせている――。

(もういやだ、見たくない、俺は、もう、あんな思いはしたくない――)

 ルカは胸の内で悲鳴を上げ続ける。ずっと奥底に押し込めていた感情がこみ上げてきて、ルカはどうしようもなく叫びたくなる。

 同時に、目の前の光景から目をそむけたくなった。目を閉じて、耳を塞いで――。

(そうして、俺は……どうなった? そういうことから、俺は目を背けて、逃げて――どうなった?)

 自問する。逃げ出そうとする衝動をとりあえず抑え込んで、ルカは思い返した。絶望と言うものから逃げ続けてきたときのことを。

(一瞬だけ―—楽になって、それで――そのあと、どうしようもなく、苦い思いを味わった――後悔、だ。それは、俺を、今も、ずっと、縛り続けている……)

 後悔というものが、ルカには恐ろしくて仕方がなかった。大抵のことはどうにかできるのに、後悔と言うものだけは、手に負えない――もう過ぎたことは、何をどうしたところで、変える事はできないからだ。

(今だって、がんじがらめにされて、動けないっていうのに)

 ルカは知っていた――それでも、彼には困難な事だった。後悔と言うものを、退けることができるたった一つの方法をとることが。

 その方法は、ただ一歩を踏み出すだけ。ただ、ルカにはその一歩がどうしようもなく重く感じて――勇気が出せずにいたのだ。

(もうこれ以上は――耐えられないんだ……もう俺は、いやなんだ――!)

 重りでも付けられたような錯覚を覚えていた――恐怖を、警鐘を、悲観を、すべて振り切って、ルカは衝動に身を任せ――。

「やめろって――言ってるんだあああっ!」

 その場の絶望に耐えきれず、叫んだ。叫んだと同時に、無意識下で発動した魔術により床が爆裂し、ちらかっていた料理や椅子があたりに吹き飛んだ――危険を感じたリンドが咄嗟に踏みつけていた女から足を離す。

「――邪魔すんな! てめえごと殺されたいんか!」

 癇癪を起したリンドが床を踏み鳴らしながら、そう叫ぶ。ルカは身を翻し、震っている女と少年を庇い、口を開く。

「……殺したきゃ殺せよ! ――俺がいなきゃてめえはヴィーヴルに会えないがな!」

 ルカがそう言い切ると、リンドは一瞬呆気にとられたがまた眉間にしわを寄せ、表情に怒りを宿した。

「はあっ!? 殺せ、だあ!? 頭イカレてんのか! ふざけんのも大概にしろやっ!」

「俺は本気だ! てめえが、俺の前で人を殺すなら! 俺は、てめえに協力なんてしない!」

 ルカはあくまで毅然として、言い切った。ばっと手を横に振り、

「――約束しろ! 人の命を奪わないと!」

 ルカはリンドに、唐突に告げた。リンドに対して、命令ではなく、なかば脅迫じみてはいたが、ルカはあえて子供じみた約束と言う方法を取った――ルカには何故か、それが一番適切だと思えたのだ。

「ふざけやがって――またいい子ちゃんかよ! 何度も言ったよな、俺はてめえのお守りなんかじゃねえって! 足引っ張んのはやめろって!」

 リンドの怒りは最早少年には向いておらず、ルカの胸倉を引っ掴んで、そう咆哮じみた罵声を浴びせた。

「うるせえ! 約束すんのか、しねえのか聞いてんだっ!」

 目の前の竜などに臆さず、ルカはきっぱりと言い切った。その一言に我慢が効かなくなったリンドはルカの服を掴んでいない方の拳で思い切りルカの顔を殴りつける。

 痛烈な一撃を食らい、ルカは目の前が一瞬真っ暗になった――手放しかけた意識をぐっと引き寄せて、ルカは口の端から血を流しながらまた口を開く。

「……殴りてえならそうしろよ! 俺が死ぬまで殴ればいい! そうすればてめえは俺の思うつぼだ!」

「ンの――!」

 ルカに言われてより怒りを募らせたらしいリンドは望みのままにとばかりにルカを殴りつけた。痣がどれだけ増えても、鼻血を噴いても、吐血しても――ルカはその場を一歩も動かなかった。

「……てめえのわがままで世界壊れるかもしれねーんだぞ、いいんか、それで!?」

 焦燥ぎみに、リンドがそう尋ねた。に対してルカは、よろよろしながらも、うなずく。

「世界、だと……? 俺が、世界の救世主かなんかにでも見えんのか、てめえは……?」

 苦し気に肩で息をしつつ、ルカは小さく笑って、続ける。

「俺はな……ただ、自分の目の前で誰かが死ぬのが嫌なんだ……俺の無力のせいで、誰かが死ぬのが、耐えられないんだ! 俺は、俺の自己満足で、誰かが死ぬのを見たくないんだ!」

 今にも倒れそうだったが、ルカは己を奮い立たせ、リンドに掴まれた手を振り払い、逆に掴みかかる。

「てめえのせいで世界が壊れるなんて、知ったことか! どうせ、俺は――俺の守れる範囲でしか、人を守れないんだ!」

 身勝手かつ情けない言葉だとルカは胸の内で自分自身にあきれ返った。それでも、ルカにできるのはそれだけだとも、自覚していた。

「だから約束しろ! ! お前はこれから先、ずっと――――人の命を奪わないと!」

 ルカがそう叫ぶと、リンドは絶句し、まるで縛られたか何かのように動かなくなった。ルカの言葉に何か力でもあるかのように、魔術にでもかかったかのように――実際は、なにもない、ただの声でしかないのだが。

 それでもリンドはただ息を呑むしかできなかったのだ。

「……で……そうなんだ……せに……」

 顔を俯かせて、リンドはぶつぶつうめいた。よく聞こえなかったルカは、

「聞こえねーぞ!」

 痛みを堪えつつ、そう怒声を上げた。言われたリンドはばっと顔を上げ、眉を吊り上げた。

「っ約束してやるって言ってんだ!」

「殺さねえと言え――絶対に殺さないと!」

 ルカがまた必死にそう言って来るので、リンドはついたじろいだ。恐怖したわけでもなく、ただわけが分からないといった調子で。

「……俺は……」

 リンドは少し言いよどんでから、目を瞑って、迷いを晴らした人間のように目をゆっくり開き、

「……俺は……人間を、もう、殺したりしない――これで満足かよ!」

 半ばやけくそのようにそう言い放ち、掴みかかってきたルカの手を振りほどく。そのまま拗ねたように――どちらかと言うと、表情を見られないようにも思えたが――ルカからさっと顔をそむけた。

「……それでいい」

 リンドの言葉を聞いたルカは満足そうに笑って――その場に崩れ落ちた。同時に、その場の緊張感がほどける。不思議な事に、その場にいた誰もが、その感覚を味わった。

「なんで、殺そうとしたのに僕らを助けたの……」

 庇われていた――とは言っても、未だに女の傍から離れようとはしていなかったが――少年が、ルカに恐る恐る尋ねてきた。

 言われて、ルカは少々考えるように頬をかいた。切れた口の端の痛みに顔を歪めつつ、ルカは話し始める。

「何で……か。そうだな、殺されるのは誰だっていやだろ。それは、俺も、お前も、そうだ。違うか?」

 きわめて柔らかい声音で、ルカは少年に尋ねた。少年は目をぱちぱちさせてから、

「……うん……」

 そう、静かに言って、うなずく。ルカには何となく、少年が「理解した」というような声ではなさそうな、判然としない様な、そんな答えのように思えた。幼さと言うものは、そういうものだ。理解できるほどの長さを、経験を、彼は積んでいない。

 漠然と「そういうものだ」と思っているだけだろうと、ルカには思えた。

「だからさ。だからあのバカを止めた――自分がされていやな事は、他の人にしちゃいけないってハーメルンは教えてくれなかったのか?」

 ルカが尋ねると、少年ははっとして、首をゆるゆると振り、顔を俯かせた。

「……教えてくれた……教えてくれたけど、ぼくは……っ」

「……そうだと思った。あいつが考えるにしては、ずさんすぎるしな」

 ルカはどこか安堵したように、言った。同時に、安堵している自分にルカは苦笑いした。敵対しているにもかかわらず、自分がハーメルンと言う男に、好印象を抱いていることに。

「俺はけして、ハーメルンを殺しに来たわけじゃない。ただ、返して欲しいものがあるだけなんだ――」

「そんなこと、わかってる!」

 ルカの言葉にかぶせるように、少年が唐突に叫ぶ。そばにいた女が制止しようとしていたが、それを振り切って、俯かせていた顔をばっと上げると、

「死んじゃうんだ! ハーメルンが、カーバンクルを探して来ないと……みんなが死んじゃうんだ!」

 そう泣きわめいた。ルカには少年の言った言葉の意味がよく分からなかったが、彼が追い詰められている事――先ほどの行動からもだが、彼が切羽詰まっている事だけは、ルカにも理解できた。

「みんな……?」

 ルカが返すと、少年は目をこすりながら続ける。

「みんな、連れていかれた……みんなを助けるために、カーバンクルが要るんだって……だから――ハーメルンの邪魔をしないで! カーバンクルも返してよお!」

 少年は、そう、年相応に泣き叫んだ。それに対してルカは頷いて、カーバンクルを渡し、このまま帰ってやる選択ができない事を、心底申し訳なく思った。

「ごめんな」

 ただ、ルカはそう謝罪の言葉を口にする。少年にとっては意味がない言葉だった。だから、少年はルカに掴みかかって小さな拳を振り下ろした。繰り返されるその攻撃にも意味がなかった。ルカの心を刺すには十分すぎたが。

「……ごめん、本当に、ごめん」

 ルカはそううめくしかできなかった。少年はわんわん泣いて、意味のない行為を繰り返した。彼の気が済むまで、ルカは待ってやろうと思った。

「やめなさい!」

 だが、女のその声によって、少年の攻撃は制止された。未だ泣きじゃくっていたが、女に窘められ、少女と共に別の部屋へ連れられる。

 その間にも、少年はわめきちらし、ルカへの罵倒を繰り返していた。

「…………」

 ルカはただ、少年を見ていた――それしか、できなかった。

 そんなルカにリンドは肩をすくめ、何か言いたそうにしたが、それでも首を横に振って黙殺を決め込んだ。ルカはそんなリンドに、気づかぬふりをしておく。

 リンドが呆れかえるほどに、自分があまりにも愚かしい事をし続けていたことに、ルカは自分で分かっていたからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る