三章 愛は時に厳しく

3-1

泣き女バンシー、だ……!」 

 不快な声に耳が慣れてきた――とはいっても、負担は変わらないが――ルカが、そう確信をもって呟いた。

 バンシー。人間の少女の姿をした妖精で、普段は臆病だが魔術師や人間を手伝ってくれることもある、妖精族の中では比較的友好的ないわゆる良き隣人シーリー・コートである。

 そしてバンシーはある特色を持っている――彼女らが人家に訪れ、泣きはじめるとその家の人間が死ぬ――というよりは、彼女たちがその家の人間の死を予知し、教えるのだ。似た性質を持つ妖精でデュラハンというものもいるが、それとは違う性質で、感受性が異常に強い彼女らはその人間が彼女らに無関係だとしても、危害を加えてきた者たちだとしても、それをひどく悲しむのだと言う。

(この家にいる、誰かが死ぬ――一体、誰が? 病で? いや―――それなら何故バンシーは泣いていなかった? もしかしたら――)

 ルカは思考を巡らせる。あらゆる可能性を、あらゆる原因を導き出すために――。

(誰かが、なんらかの理由で殺される――――! 貴族なんて恨まれることも多いだろう、一体、誰が――)

 ルカはうめきながら立ち上がり、部屋から飛び出す。デイモンの制止の声が聞こえた気がするが、バンシーの泣き声でかき消され、ルカの耳には届かなかった。

「――――!」

 妖精が部屋中を飛び回り、檻から出た亜人たちが逃げまどっている――中には、人間を襲っている幻種もいる。その場にいた客や使用人はパニックを引き起こし、静かだった密売の場は阿鼻叫喚の地獄と変貌していた。

「一体、誰がこんなことを……」

 口の中で呟きつつ、ルカは迷わずその中へ飛び込む。無意識だった。別に人を救おうとか、そういう高尚な意思があるわけではない。誰かが殺される、その恐怖心はルカを動かすには十分すぎるものだったのだ。

「た、助けてえええっ!」

 ひときわ大きい悲鳴が聞こえ、ルカはぱっとそちらの方へ向いた――金切り声を上げながら幻種の一種が中年の貴族の男をついばんでいるのがルカの視界に入る。鷲の頭に獅子の身体を持つ異形の幻種、グリフォンだった。鋭い鉤爪を持ち、人間の手の届かぬ高山に暮らすという幻種で、めったに人間たちの前には表れない――保護施設でも一、二匹ほどしかいない種類だ。

 人間を殺すことなどグリフォンにとってはたやすい事のはずだが、衰弱しているらしく、少々手こずっている――とはいっても、男は血まみれだが。

「――汝導くは黒の領域!」

 ルカが唱えると、グリフォンが男を襲うのをやめた――発生した重力場に引きずられ、動けなくなったのである――が、それでも男を襲おうとしているのか、微かにグリフォンの翼が動いている。

「なんつー力だ……めちゃくちゃ興奮しているみたいだが、あんた、何をした」

「そ、そんなこと言われても……化け物の考える事なんてわかるかよ!」

 そう吐き捨てる男は必死にその場から逃れようとしている――何か鳥籠のようなものを持っていることに、ルカは気づいた。

「おい、それは何だ――彼女グリフォンの雛じゃないだろうな」

「…………」

 ルカを無視し、男は足を引きずりながらももがき、その場から逃げようとしている。指摘されたものを大事そうに抱えて。

「待て!」

 容赦なくルカは男の左足を踏みぬいた――いざと言う時のために、靴だけはいつもの鉄板入りブーツだ。

 悲鳴を上げ、のたうち回る男から鳥籠を奪い取ると、ルカは中を視認する。中で白い羽毛に包まれた雛が震えている。獅子のような尾が、ただの小鳥でない事を示していた。

「やっぱりな、このバカが……」

 男を蔑みながらルカが鳥かごの扉を開けると、雛はまだ飛ぶのに慣れていないのか、よろめきながらも親であるグリフォンのもとへ向かっていた。

 縛っていた魔術を解除してやると、冷静さを取り戻したらしいグリフォンは、雛を咥え、ルカを一瞥した――鋭い眼光に、つい身じろぐ。

「…………」

 しばらくルカを睨みつけていたグリフォンだったが、また金切り声のような鳴き声を上げ、天井の方へ飛び去って行った。やけに大きいシャンデリアに掴まると、グリフォンは周囲を警戒しつつ、羽を休ませはじめていた。

「き、希少なグリフォンの雛の肉が食べられると思ったのに……ふざけやがって……」

 グリフォンからの圧力から解放され、安堵しているルカの足元で貴族が悔し気にそう恨み節をうめいている。

 その一言で、一気にルカの内側から冷え切っていくような錯覚を覚えた――ルカはまあ、短気な男である――なので、迷わず貴族の右足にも足を振り下ろした。


 他にも客が襲われていたが、不幸中の幸いか、さほど危険性のある幻種や亜人はいないようにルカには見受けられた――グリフォンのように、ただ衰弱していたからかもしれないが。

 襲われていない数人が一塊になっているところが見えて、ルカはそちらに足を向けた。

「――どうしたんだ」

 ルカが尋ねると、その中の女がものすごい形相でルカにしがみつき、口を開いた。

「開かないのよ! ドアが! 何なのよ、本当に――!」

 ヒステリックじみた悲鳴を上げる女を軽く押しのけると、ルカはドアノブに手をかけた。不思議なことに、カギがかかっているような感覚はなかった――そのまま押すか引くなりすれば、開きそうなものだ。だが、それができない。

(魔術か……?)

 そう訝って、ルカは魔力を探った――が。

(だめだ、バンシーの声のせいか? ……周囲に魔力をばらまいているんだ、あれも魔術のひとつだ、当然と言えば、当然か……ジェラルドとかなら分かるんだろうが、俺には無理だ)

 舌打ちして、ルカは至極簡単な方法を取ることにした。

「俺の周りから離れて、なるべく伏せてろ!」

 そう叫ぶと、周りにいた客たちはほぼ反射的に、弾かれるようにルカから離れた。

「砕けろ!」

 その一言で、ルカの魔術によりドアが粉砕される――筈だった。

「なっ……」

 だがドアは壊れることもなく、元の状態のままだ。ルカは信じられないと言った様子で、ドアに再度触れる。

(違う……これは何の変哲もない、普通のドアだ……壊れた感覚もあったのに、何故……? バンシーの声には、そんな能力はない……だったら、何が……)

 振り返って、ルカは周囲を見渡す――羽をもぎ取られた手のひらくらいの大きさの少女――ピクシーと呼ばれる妖精の一種だ。鳥かごの中で呆然としているのがルカの視界に入る。

(ピクシーは、羽をもがれれば飛行を含めた魔術は使えない。違う……)

 レプラコーン、獣人の子供、グリフォン、幻惑蝶……この場にいる幻種や亜人を思い浮かべるが、その中でそういう魔術を使うものを、ルカは知らない。

(だったら、一体何がそうしている? そもそも、

 ルカは戦慄した――実体が見えないものほど、恐ろしいものは無い……。目に見える恐怖は、対処する方法が絶対にあることをルカは知っている。だが、見えなければ――方法を考えることもできない。

 焦燥の中、ルカはとにかく会場を見回した。混乱する妖精たち、恐怖に震える客、怒りで人間を追いかけまわす幻種、会場の隅で震える亜人、客の一人めがけて、襲い掛かる石像――。

(石像が、動くわけがないだろうが!)

 異常事態に、ルカは思考をすべて投げ捨てた。床を蹴ってその異常事態のさなかへ走る。

 醜悪な、蝙蝠に似た羽をはやしたいわゆる『悪魔』と呼ばれる架空の存在を模した石像だ。こういう『悪しきもの』を寄せ付けぬため、石化した同族だと思わせるためにと言う、魔よけの意味からこうした姿の石像は少なくない――だがそれが飛来して、人間を襲うとなれば話は別だ。

 悪魔は槍を携えているのがもっぱらで、あの石像もそうだった。ルカの視界に、恐怖で動けない客に槍を振りかざす悪魔の姿が見える。やけにルカには、そこへたどり着くまでが途方もなく遠く感じた。走っても、走っても、距離が縮まらない錯覚を覚えたのだ。

「やめろおおおおおっ!」

 悲鳴じみた叫びがルカの口から漏れ出る。それが詠唱になって、槍を振りかざす石像に、まっすぐ黒い光の弾丸が飛んで行く。

「ひぐっ」

 瞬きの後、小さく悲鳴を上げた客の胸には、槍が突き刺さっているのが見えた。心臓が貫かれたのだろう。すぐに、あっけなく――絶命したのだ。

 石像は槍が突き刺さったままの客を床に蹴り飛ばし、躊躇なく槍を引き抜いた――胸から鮮血が溢れる。

 ルカは物語の英雄ではない。奇跡を起こすすべなど持ち合わせていない。――だからルカはもうその人を救う事は、できない。

(また、俺は、何もできずに――)

 ルカの放った魔術は悪魔には届かず、炸裂する寸前で霧散。その光景を見つめるしかできなかった自分の無力さ加減にルカは気が狂いそうになった。

「ッ……」

 べつに、ルカには見慣れたものだった。人が死ぬ瞬間も、苦悶の表情をしている死体すらも。

 見慣れても、それを受け入れられるかは別だ。受け入れられたらどれだけ楽だろうとはルカも思うが。

(人でなくなるよりは、ましかもしれない)

 そんな、くだらない思考が一瞬浮かんで、ルカはそれをすぐに打ち消した。


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