7-4

 ルカが来た道を戻るようにエイヴリルに声をかけようとしたその時、空間が揺れるのを――空間のマナと何者かの魔力がまざったのを感じた。

「――盾よ!」

 魔術が飛んできたのを感じ取って、ルカは即座に詠唱する。不可視の魔術による障壁が、案の定飛んできた魔術の弾丸を防ぐ――方向から、ジェラルドを狙ったものだと理解した。

「やあ、アッシュフィールド君、それに、ダウズウェル君」

 ジェラルドに向けて魔術を放ったらしい魔術師が言いつつ、リンドの培養槽の陰から現れた――その人物は、その場にいる誰も見知った人物だった。だがルカもジェラルドも驚愕はしなかった――エイヴリルはひどく動揺していたが。

「下がってろ、エイヴリル……」

 ルカに言われて、エイヴリルは頷き、培養槽の後ろに隠れた。

「ハミルトン・サーストン……。やはりてめえも一枚噛んでいやがったか」

 ルカの苦々し気な声に、サーストンは以前に会った時のような、人好きそうな笑顔を浮かべた。

 場に似つかわしくない様な、相変わらず柔和な笑みを浮かべている優し気な風貌だ。だが、今のルカにとっては――事実、そうなのだろう、サーストンのその笑いは、今や嘲笑しているようにしか思えなかった。

「おや、お見通しだったかい? 流石だね」

 言葉とは裏腹に、そのサーストンの声には、賞賛の色は浮かんでいない。

「俺をこの街に差し向けたあんたを疑う事が、何かおかしい事か?」

「おかしくはないさ。それでも、本当に――面白いくらいに引っかかってくれたね。彼女の言う通りだ。少々失望したよ――灰の領域の魔術師たる君が、こうも単純だとは」

「……彼女?」

 訝し気にルカがそう聞き返すと、サーストンはこらえきれないように笑い声を漏らし、

「そう、彼女――彼女の導きさ。我らが英雄――導きの魔女――クロエ・ヘカテイアは再び舞い戻った! 世界を正しい在り方にするために――無力な愚者どもを粛正するためにね」

 そう、冷静そうだったさっきとは打って変わって、熱に浮かされたような調子で弁舌に語った。その女――クロエ・ヘカテイアの名を呼ぶ際には、サーストンは恋に焦がれるような、悦に入るような表情をしているように、ルカには思えた。

「クロエ・ヘカテイア。五年前、ヴァルプルギスの夜を引き起こした魔術師たちを鼓舞した、いわゆる魔術師至上主義者の象徴――いや、偶像たる存在」

 ルカはそう淡々と事実を述べた。サーストンはそれを聞いている時も、どこか満足げだった。

 サーストンと同じように彼女の名を呼んで、同じような表情をし、どれだけ素晴らしい人物なのかを語る人間を何度もルカは見た――それだけ、クロエという女は、カリスマ性に満ちた人間だったのだと、ルカは改めて思った。

「だが、あの女は、英雄なんてものじゃない。ただのテロリスト集団のリーダーだ。それ故に、処刑された――あの女の生にこそ意味はなかったが、死に意味はあった。今の魔術連盟の礎となったという意味ではな。で――そいつを、てめえは生きてやがると抜かすのか? 妄想も大概にしろっての」

 そう言い切ったルカに、サーストンはため息をつき、肩を落としたようなしぐさをした。

「……君はどうして、そんな風に変わってしまったんだ? 君も、我々と同じだったというのに……。灰の領域の魔術師――ルカ・ナイトレイ。君なら、私の気持ちを理解してくれると思ったんだがね」

「理解だと? お前を、俺が?」 

 いらだたし気に、ルカは確認する様に問う。

「同胞じゃないか。君も、リーズ教会による魔女狩りの被害者遺族だろう。私はこの街の出身でね、魔女狩りの際に妻と子供を殺されたんだよ……それなのに、君たちは何故憎むのをやめた? 何故、復讐をやめた――?」

 心底理解できないというような様子――どちらかと言うと、離れ行く友人との別れを惜しむような感じで、サーストンは尋ねてきた。

「憎んでないわけじゃない。でも、復讐はもうしない。復讐は……生きるための理由にしかならない。復讐を終えれば、それすらなくなる。だから復讐する相手の幅を広げる。個人ではなく、その相手の家族、組織、思想を持つ者までに及ぶ。つまりはいたちごっこだ」

「詭弁だ、それは……私は――私たちは同じ思いをする同胞を増やさないために――」

「全員が、てめえやかつての俺たちの様に、理由を付けて人殺しを正当化するような弱い人間じゃない。自分の足で立とうとしている人だっているのを、俺は知っている――てめえのそれは、崇高な思想なんかじゃない。ただの、余計なお節介だ」

 言い切ったルカに、サーストンは呆れかえったような表情をし、またため息をついた。

「君も彼女の旗のもとに集った同胞だったはずなのに――本当に残念だよ」

「ついでにお前の崇拝する彼女についてひとつ教えておいてやるよ。俺はお前と違って、本当のクロエ・ヘカテイアを知っているからな」

 サーストンは笑みを消し、瞳に憎悪のような――否、嫉妬のような色を浮かべたようにルカには見えた。崇拝する存在を、自分よりもよく知っているように言ってのけたのが気に入らなかったのだろうとルカは漠然と思った。

「俺が処刑を命じられてクロエを殺した。ナイフを彼女の胸を突き刺したら、あっけなく死んだよ。だから俺は、彼女がこの世にはいないことをよく知っているんだよ。導きの魔女がなんだ。だったよ。殺せば死ぬ、ただの、な」

 サーストンの肩が怒りで震えているのに気づいても、かまわずルカは続けた。

「アルカナ階位持ちの魔術師は必ず、魔法に近いとされる大魔術を一つは持っている。それは俺も例外ではない。俺の場合は――

 めったに使う事はないがな、と付け加え、ルカはさらに続ける。

「ヴァルプルギスの夜を引き起こしたにもかかわらず、クロエを含め、逃げおおせた連中が隠れ住んでいた村を、その大魔術で消滅させた――村には何も残らなかった。その功績で俺は今のアルカナ階位の地位と、くそったれな称号を手にしたわけだ。理解したか?」

 わざとらしく、そうルカが言って見せると、サーストンは一瞬だけ殺意に満ちた、鋭い視線をルカに向けた。そしてまた、笑みを浮かべて見せる。ぎこちないものではあったが。

「君を誘い込んだ甲斐があったよ、アッシュフィールド君――裏切り者の上、共存などという愚かな思想を語った君を利用ついでに始末しようと思ったんだが――いい土産ができそうだ」

「お前が俺を殺す、と――」

 半笑いで、くだらないな、と一蹴しようとしたルカだったが……

「コレには会ったんだろう?」

 サーストンの耳障りな声と、彼が知人でも紹介でもするかのように恭しく手で示した先の存在を見て、ルカは凍り付いた。

 目から光を失った――まるで人形のように微動だにしないロイが、サーストンに付き従うように控えているのだ。

「貴様――その人にっ、何をしたあっ!」

 ルカはいまにも殴り掛かりそうな勢いで――事実、言いながら駆け出していた。ルカはナイフを引き抜き、瞬間にサーストンの喉元を視認する――斬りつけようと振りかぶった刹那、ナイフを弾かれる衝撃がルカの腕に伝わった。

「兄さん!」

 悲痛に満ちた声でルカは自身に剣を向けてきたロイを呼んだ。先刻会った時とは違い、その表情には迷いの色はない――もはや、何も浮かんでいないようにルカには思えた。

「何をした、というのはあまり適切ではないが――まあ、君を殺すにはうってつけの武器じゃないか、選択するのは当然だと思わないかい?」

 薄く笑いつつ、サーストンは続ける。

「ドラゴンは倒せても、君は大事な兄だけは殺せない――そうだろう?」

 図星だった――焦燥にかられる、背筋が凍る、とにかくルカは、この場から今すぐに逃げ出してしまいたくなった。

 だが目の前の、立ち塞がるこの人がそれを許すはずはない。背を向けた途端、その刃が自分を貫くだろうとルカには断定できた。

「お前が、兄さんに何かしたんだな!――絶対に、殺してや――っ!」

 吠えるルカに、ロイは容赦なく刃を振るってくる。恐ろしいほど、完璧に――ロイはルカの急所を狙って剣を振るってきた。

 確実な殺意が、剣筋から伝わってきて、ルカは心が折れそうになった――兄からのそれは、耐え難いものだった。

 ただ、――ロイの攻撃を避け続けるしか、ルカにはできなかった。


「さて、彼は無力化できたところで、ようやく君と向き合えるわけだ、ダウズウェル君」

 言いつつ、サーストンはジェラルドの方へ歩み寄ってきた。忌々しげな顔をしつつ、ジェラルドは術式の書き換えを中断することにする。

「ダウズウェル君、どうしてこんなに素晴らしい術式を秘匿していたんだい? 君の最高傑作ともいうべきだろう、この術式は」

 サーストンは言いながら、この部屋にある培養槽をぐるりを見渡す。ルカに向けられた言葉とは違い、その言葉には確かな称賛が含まれていた。

「魔力の持ち主をコピーし、その魔力に溶け込む記憶や経験をたどることによって、まるで本物であるかのように振る舞う――なおかつ、術者には従うと言う。素晴らしい完成度じゃないか。さすが元アルカナ階位、隠遁の魔術師・ジェラルド・オルミナーヴァ」

 いちいちそう、過去の呼び名で呼びつけ、称賛を送るサーストンに、ジェラルドは耐えきれずにだんっ!と床を踏みつけ鳴らした。

「黙れ! 僕たちを襲った生徒たちは、これで作ったコピーだろう! 子供で実験するなんて、この――!」

 培養槽の中に浮かぶ水死体を指さして、ジェラルドは怒声を上げる。

 ジェラルドがそう断定できるのは、培養槽から仄かに感じられる――消えかかりつつある魔力が、先ほど対峙した学生たちと同じものだったからだ。

「はは、こんな非人道的な術式を作り出したのは、ほかでもない君じゃないか」

「失敗作なんだ! そんなものは本物じゃない! 僕が一番知ってる!」

「知っているとも。別に本物じゃなくてもいいんだよ、私は」

 悔し気に顔を歪めるジェラルドに、君は違うのかもしれないけどね、とサーストンは皮肉気に付け足し、続ける。

「君は優秀だ。それなのに、この術式を人間に対してだけしか利用しなかった。だけど、魔力がある生物なら理論上、可能という事に私は気づいたんだよ。だから利用させてもらった」

「そのためにルカを利用したのか……! あのドラゴンを無力化させるために、このセインシアにおびき寄せた……」

「そういう事だね。私たちのような力の弱い魔術師には手に余るから」

「……ドラゴンを造って、どうするつもりだ」

「この忌々しい街を、この世界から消し去るつもりだが?」

「僕はそんなことのために、この術式を作ったわけじゃない! 僕はただ、姉さんともう一度……」

「技術とはいつもそういうものだ。作った人間が、正しい使い方を知っているとは限らない」

 怒りに震えるジェラルドに、サーストンはそう吐き捨てた。不遜なサーストンに、ジェラルドは激情のままかみついていく。

「何故お前がこれを使っているんだ! この術式は、すでに処分されたのに!」

 ジェラルドに矢継ぎ早に問われて、サーストンはいいかげん疲れたとでも言いたげに、肩をすくめる。

「彼女なら出来るさ。我々の英雄に不可能などない」

「――もし生きていたとしても、クロエにできるわけがない。彼女はただの象徴に過ぎない。僕もルカも、彼女をよく知っている……」

「あの方を愚弄するのはやめろ! 知ったような口をきくな!」

 サーストンのその言葉が詠唱になったらしく、魔術で浮かび上がった瓦礫がジェラルドの頬をかすめた。

「私は確かに見たんだ――あの方の魔法を――!」

 今まできわめて冷静だったサーストンが、怒鳴る。

 ヒステリックを起こしたらしいサーストンは、髪を掻きむしり、ルカとロイの方へ鋭い視線を送る。

「早く殺せ! なにをしているんだ!」

 サーストンが怒声を上げる――すると、ルカを攻撃していたロイの動きがあきらかに俊敏になったようにジェラルドには思えた。

「お前……ロイさんまで――!」

 瞬時に理解したジェラルドは、絶望的な気持ちになって、悲鳴に近い声をを上げた。

「アッシュフィールド君は魔術師の中でも指折りの実力者……あのドラゴンと相打ちになってくれればと思っていたが、そう上手くはいかなかった。しかし放置するわけにもいかない。どうしようか困っていたところを、簡単な方法があると彼女が教えてくれてね。彼の、何よりも大事にしている存在と対峙させればいい、と」

 事実だ。サーストンの言っている何もかもが事実だとジェラルドは思った。

(教官も言っていた――まともに倒せない相手なら、弱点を探して、それを使えばいいのだと――どんな相手であれ、心と言うものが存在する人間である以上弱点は存在するのだと……)

 師の言葉を、ジェラルドは胸の内で反芻した。それを言った人間の弱点は正直あるようには思えなかったので、当時は本当にそうなのか分からなかったが、今ならそれが理解できる。

 確かにルカは強い。けれど、兄と言うひとつのほころびで、一気に崩れ落ちることも、ジェラルドにはよく分かっていた。

「ロイ・ナイトレイ――彼の魔力から、造らせてもらったよ。戦闘能力も、記憶も中途半端にしか再現できなかった失敗作だが、それでも十分だったね?」

 邪悪そうな口ぶりだったが、それでもサーストンは笑みをたたえて、そう言い放った。

 人生が崩壊した人間と言うものは、大抵こういうふうに狂うものだと、ジェラルドは再認識した。まともな思考を保っているよりも、狂った方がずっと楽なのだということを、サーストンはありありと見せつけてくる。

「ルカ――!」

 ジェラルドは顔を青ざめさせ、防戦一方のルカに目を向けた。ルカは疲弊しきって、すでに傷だらけだ。反撃と言う言葉は、今の彼のなかには存在しない。

(ルカは――偽物だと分かっても、ロイさんを殺せるだろうか……)

 そんな不安がよぎった――自分とルカはよく似ていることがジェラルドにはよく分かっていたからだ。きっと、同じ選択をするに違いないと思った。

 それでもジェラルドは事実を友人に伝えるべく、口を開いた。



「ルカ! それはロイさんじゃないんだよ! 術式で造られた、偽物なんだ!」

ジェラルドの声がようやく耳に届いたルカは、思考が一瞬停止した。

(にせもの……? この人が、俺の兄さんじゃないって言うのか……?)

 ルカの胸の内の疑問に答えるように、ジェラルドが続ける。

「偽物だ――! 生物ですらない! 術者の支配により、どうにでも動く人形でしかないんだ!」 

(偽物――そうか、それなら俺は、こいつを――殺せる)

 ジェラルドの言葉から、ルカはそう自分を無理矢理理解させた。

 ロイが――ロイの偽物が剣を振るってきたタイミングで、剣を持った偽物の右手首を引っ掴み、そのままルカは偽物の背に回る形になると、右肩を強く打つ――力が緩んだ偽物はぱっと剣を手放し、ルカから距離を取る。

(おかしいと、思っていたんだ――だって、兄さんが俺を忘れるわけがないんだ……)

 そう自分に言い聞かせつつ、奪った剣を放り投げてしまうと、ルカは兄の偽物を睨みつけ、口を開く。これで、殺せる――ルカは確信した――

「破壊の牙持つ――」

 つもりだった。

 炸裂する追尾性の魔術の弾丸を構築するイメージを思い浮かべたあたりで、兄と同じ顔が視界に入って、ルカは狼狽えた。集中の切れた魔術は崩壊し、気づいたときにはロイの偽物がルカのすぐ近くまで距離を詰めてきていた。

「鋼よ――!」

 その詠唱に慌てたルカは、ばっと身を翻した。それでももちろんそんな隙を見逃してくれる筈もなく、偽物は口早に詠唱すると、距離を一気に詰めてルカに蹴りを食らわせた。

「ぐぅっ!」

 ルカは悲鳴を上げた――たかが蹴りくらいで悲鳴を上げるようなルカではなかったが、魔術によって硬質化した脚はまさに刃物のそれで、かろうじて避けたものの、ルカの腿の肉は裂かれたように抉られ、大量に出血している。

「は――ぜろ、嵐よ……!」

 うめきつつ発したルカの詠唱により、暴風が巻き起こる。吹き付ける暴風によって足止めされているうちに、ルカはよろめきつつロイの偽物から距離を取った。

「――とまれ……」

 口早にルカはそう詠唱し、出血し続けている腿の傷を塞いだ。激痛に顔を歪める。だがこれ以上血を失うよりはましだと胸の内でルカは自分に言い聞かせる。それよりも――

(何で――何で躊躇った! 偽物だぞ! 兄さんじゃない! ジェラルドがこんな状況で嘘をつくもんか! 理解しているんだろう!)

 ルカは胸の内でそう自分を責め立てる。暴風が止んですぐ、ロイの偽物はルカに向かってきて、また防戦を強いられる。

(早く殺すための詠唱を紡げ! 出来なきゃ首を折れ、頭をかち割って――どれだけでも、方法はあるだろうが! 何をしていやがる!)

 自分にそう命じ続けるが、意志に反してルカの動きはじょじょに大雑把になっていった。雑な動きから大きな隙ができ、ルカは腹部に強烈な一撃を食らった――思考と行動が伴わず、疲弊しきって動きが粗雑になった者の行動を読むことなどたやすい事だったからだ。

 床に叩きつけられ、ルカは苦し気にうめいた――わずかに体力はあっても、もう立ち上がれる気力が残っていなかった。

(――できない――偽物だと分かっているのに、俺はこの人を殺すことができない……)

 兄の姿をしたそれが、予備に持っていたらしいナイフを引き抜いたのがルカの視界に入った。

 刃を向けてきている、死が近づいている――それなのに、不思議と、ルカは恐ろしくはなかった――あきらめに近かったのかもしれないが。

(……この人は、俺に戦うなと、平穏に暮らしてくれと願ってくれたんだ……嬉しかった……きっと、兄さんはそう言ってくれると思ったんだ)

 あの時かけられた言葉を、かみしめるようにしてルカは胸の内で呟き続ける。

(本当はあれが気の迷いだったのかもしれない。それでも俺は、嬉しかった……)

 それだけでよかった、そう言い聞かせて、ルカは他の感情を、警鐘を、隅に追いやる。死が直前まで来ている恐怖と現実から目を背け、体を脱力させる。

(……最後に見る顔が、兄さんでよかった……)

 それでも、自分にナイフを振るう兄の姿は見たくなくて、ルカは静かに目を閉じる。

 悲鳴に近い声を上げるジェラルドとエイヴリルの声が耳に届いた気がしたが、最早ルカに、抵抗する気力はとうに失せていた。

「…………」

 いくら待っても、ルカは痛みを感じなかった。恐る恐る、目を開く――

「――!」

 ひどく驚いたルカの視線の先には、自分自身の左手にナイフを突き刺していたロイの姿があった。

「…………ない……ころせ、ない……俺には、できない……っ!」

 ぼろぼろ涙をこぼしながら、ロイの偽物はナイフを引抜き、うめいた。先ほどの、情け容赦ない姿とは打って変わって、ルカの良く知る兄の様に――この偽物と会った時と同じように思えた。

(……兄さんの泣き顔を、俺ははじめて見た気がする)

 ルカの頭に浮かんだ言葉は、そんな、場にそぐわないような――どうでもいい事だった。――けれど、事実だった。

 泣きながら、ロイの姿をしたは、血が滴るナイフをルカに差し出した。心臓が跳ねる――続く言葉が何となくわかる気がして。

「俺を殺してくれ……」

 震える声で、兄とよく似た声でそれは言った。ルカは耳を塞ぎたくなるほどに、聞きたくない言葉だと思った。激しく動揺し、差し出されたナイフと、それの兄とまるで同じ顔を交互にルカは見やる。

「聞いただろう、俺は、偽物だって……きみのお兄さんじゃないんだ。どこに、ためらう理由がある。ただ、このナイフで、俺の心臓――いや、そんなものはない。俺は人間ではない。ただの、魔力を供給する機関か、首を掻き切ればいいんだ。きみの目の前にいる敵は、錯乱状態にある――殺すなら、今だ……」

 泣きながら事実を淡々と述べるそれに、ルカは首を横に振る。

「きみを傷つけたくないんだ……お願いだよ、俺を、殺して――!」

「俺だってできない……」

 そう小さく声を漏らすルカに、ナイフを滑り落し、すがるようにしてそれは悲痛に叫んだ。

(その姿で、その声で――そんなことを、言わないでくれ……)

 錯乱しているそれに両肩を揺さぶられるルカはひどくうつろな表情をして、胸の内でそううめいた。

「殺してくれ、お願いだよ、きみじゃなきゃできないんだ、殺して――」

 目を背けたかった――自分を殺してくれと懇願する兄の姿など、ルカは見たくはなかった。

「あなたは、残酷だ……」

 また俺に、失わせるつもりか――そう言いかけて、ルカは口をつぐんだ。

 

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