七章 兄と言うもの
7-1
「兄さん……兄さんだよね!?」
そう言ってから、はっとしてルカは慌ててロイの上から退き、助け起こすと、
「俺は――いや、僕は、あなたの弟の、ルカだよ。九年前、離れ離れになった……こんなところで会えるなんて、夢にも思わなかった……」
そう絞り出すような震える声で言った。歓喜で身が震えるのが、ルカは自分でも分かった。幼い日のように、飛びつきそうになるのをぐっとこらえて、久しぶりに対面する兄の顔をおずおずと見つめた。
ロイは眉を下げ、苦虫を噛み潰したような顔をしたまま、黙り込んでいる。
(俺の事を、忘れてしまったのだろうか。顔つきも、体つきも――それ以外も、すっかり変わってしまったから。それに、兄さん自身だって――)
姿はルカが知っている兄とさほど変わりはないように見える。だが――
(確かに兄さんは強いけれど、こんな――)
横目で、ちらりと周囲を見やる。惨状に変わりはない。先ほどロイに追い詰められていた男は、失禁して何かうわごとの様にぼそぼそ呟きながらルカたちを見ていた。
自分の兄は、こんな、残虐なことをできるような人間だっただろうか、と言う疑問が一瞬よぎった。
(こんな? こんなって、何だ? どうだっていいじゃないか、こんなもの)
湧き上がってきた疑問をかき消すように、ルカは胸の内で呟き始める。
(本当に、どうでもいい……それに兄さんの事だ、何か考えがあるに違いない――どうでもいいことだ、数人、それも、人を食い物にするクズどもが死ぬことくらい。殺されたってしょうがない。あとで、あいつは僕が始末しておこう。……兄さんの、ために)
きわめて冷徹に、正気をなくした男を見やりつつ、ルカは胸の内でそうぼやいた。
「――きみの事は、知らない……」
ようやく聞けた兄の声も、ルカの馴染みのある懐かしいものだった――けれどその言葉自体は、耳を疑うようなもので、ルカは絶句した。
「知らない、と言うのは語弊があるか。俺は、きみを殺せと命令を受けた。あのドラゴンと戦ってもなお、生きていた、きみを始末しろと……ただ、きみが何者かは知らない」
畳みかけるように言うロイの言葉には、一切の曇りはないようにルカには思えた。嘘はない――だからこそ、ルカは許せなかった。
「知らない、だと! ずっと、あなたの――兄さんのためだけに生きてきたのにっ!」
ロイの両腕を掴んで、ルカはそう怒鳴る。ロイは一瞬悲しげな顔をしてから、すぐに目をそらした。その行動がルカの怒りを冗長させる。
「僕があなたのために、どれだけの人間を殺したと思ってる! どれだけの人を苦しめて、痛めつけてっ! 踏み台にして、陥れて――! アルカナ階位になれば、名声を得れば、きっとあなたが僕を見つけてくれると思ったから――!」
憎悪に限りなく近い感情が湧き出て止まらなかった。ルカは確かに兄の事を心底尊敬しているし、家族として愛しているのだ――そのはずなのに、出てくる言葉は兄を罵るものばかりだった。
「僕を守ると約束したのに、あなたは僕の前からいなくなった! それなのに挙句知らない!? 一体どういうつもりなんだよ!」
そんなことを言いたいんじゃない、そんなことを言う資格は自分にはない――そう脳では理解しているのに、ルカの衝動が理性を押さえつけていた。
腹の底に眠っていた黒い何かが喉の奥からこみ上げてくるような濁流のようなそれをルカは吐き出したくてたまらなかった。
「僕がこんな風になったのは、あなたのせいだ! あなたがいなくなっ――」
言いかけて、ルカはやっと我に返った。ロイの顔を見ることがはばかられて、ルカはつい顔を俯かせる。
(何を言ってるんだ、俺は……兄さんのせい、だと?)
兄への怒りの正体が、自分を正当化するための、身勝手な責任の押し付けに過ぎないものだとルカはようやく理解した。
(自分が汚した手を、自分の意志で汚したのだと、俺は理解したくないだけなんだ。いつも兄さんのためだと言い聞かせることによって、自分を正当化しているだけに過ぎない)
自責しつつ、ルカはゆるゆると顔を上げた。自分の表情は、さぞひどいものだろうと思ったが。
「なら、知らないなら……何故、俺を殺さなかったんだ……何でわざと剣から手を放した、それにあなたなら、剣の柄で殴りつけるんじゃなく、あの瞬間に魔術で殺すことだってできただろう……」
掴んでいたロイの両腕から力がなくなったように手を放しながら、消え入りそうな声でルカはそう尋ねた。
ためらうように、何度か言いよどんでから、ロイは口を開いた。
「俺もよく分からない……命令されれば、俺はどれだけでも人を殺せる――なのに……」
うめくような声で、ロイはそう呟く。続く言葉を、ルカは静かに待った。
「……そう、きみだけは、できないんだ。きみを、殺そうと思っても、体が拒むんだ。俺を構成するものが、悲鳴を上げるんだ。きみだけは、殺したくないって……」
「それは――」
ルカが言いかけるのにかぶせる形でロイは、
「多分、そうなんだろう。きみが言うように、きみの兄だからなんだろう……」
そう答えて見せた。ルカの考えていることが読めるように――事実、なんとなく分かってしまったのだろう、ロイはルカが言わんとしていた疑問に答えたのだ。
幼い頃から同じだった、不思議と、ロイにはルカの考えていることが分かった。魔術なのかと尋ねたが、そんなことはないと首を横に振っていた。
今と同じようなことを、ロイはその時も言ったのだ。「お前の兄だから」と。
「……きみが悲しそうな顔をしていると、俺も悲しくなるのも、きっと……」
悲痛そうな声で言いながら、ロイの手がルカの頰に触れる。あの時と寸分も変わらない温かい手で、ロイがルカの涙をぬぐった。
「兄さん、俺っ」
「――西風よ」
ルカの声を遮るように、ロイは唐突に唱えた。途端、激しい風がルカとロイの間に巻き起こる。油断しきったルカは風によって部屋の隅へ吹き飛ばされた。
「兄さんっ! 待って!」
手の届かない距離まで離れたロイに、ルカは強風に逆らいつつ、必死に呼びかける。
「今のあなたには俺が分からないかもしれない――でも、あなたに人殺しをさせるような奴の命令を聞く必要なんてない! だから俺と一緒に逃げよう! 遠い所へ、二人で逃げようっ!」
ルカの声を無視し、ロイは背を向ける。声なき拒絶に、ルカは絶望的な気持ちになった。
「兄さん! 行かないでっ! もうひとりはいやだ……ぼくをひとりに、しないで――!」
悲痛そうな叫びをルカが上げた瞬間、強風が止んだ。途端、ルカも走り出す――
「……ルカ」
たしなめる様な声で、ロイはルカの名を呼んだ――否。
それを詠唱にして、魔術が発動したのだと、自分の身体が宙に浮いた感覚でルカは理解した。
「――汝招かれるは黒の領域」
「奇跡謡う――ぐっ!」
ほぼ同時に詠唱し始めたその時、ルカの身体はロイの魔術によって床に引き寄せられ、強く床にたたきつけられる。衝撃で苦し気にうめくルカは、うつぶせの状態で床に貼り付けられように動けなくなった。
(性質は、俺の重力魔術と変わらないはずなのに……!)
ルカは必死にもがくが、魔術によって発生した重力場を崩壊させるために詠唱しようとも、うつ伏せになったまま押さえつけられる――正確には、床に強く引き寄せられているせいで言葉を紡ぐことすら困難だ。
(当然か――だって、俺の魔術の殆どは兄さんの受け売りなんだ……あの人の方が、使い方をよく分かっているに決まってる)
ルカは悔し気に唇を噛み、そう胸の内で嘆いた。
「相手を篭絡するのは、暗殺の基本だ。それを利用することを、考えなかったのか? 自分を殺そうとしてきた相手に、そんな甘さを見せるな。きみが魔術師なら、それくらい知ってるだろう」
ロイは怒りをにじませたような低い声でそう言った。まるで説教をしているかのような口調で。
ロイの言った事は正しい。それは今も、それから昔も変わらないのだとルカは悔し気に顔を歪めつつ、思った。
「……もうこの件にはかかわるな。魔術が解けたら、すぐ、きみはセインシアを出るんだ……この街は、じき壊滅する。だから、逃げるんだ、ルカ」
(……壊滅する?)
ロイが放った言葉を、ルカは訝った。兄の言葉の殆どを鵜呑みにしてきたルカが、訝ったのだ――あまりにも唐突だったから。
(薬物が蔓延していたとしても、すぐに街が滅びるわけがない。構成員の殆どは、兄さんが殺した。あの学校の生徒や教師ごときで、この街ひとつ壊せるものか――なら、一体、何が原因で?)
浮かび上がる疑問に、ルカは思考を深めるが、再び足音が響き、その思考はすぐに霧散する。
「……叶うなら、もうきみは二度とこんな危険な真似をせずに、戦いなんてやめて、普通の生活を送ってほしい」
ロイは苦し気な声でそれだけ言って、口を閉ざした。
「待っ、て、兄さん……!」
兄を再び失う事に比べれば、街が崩壊することも、人々が死ぬことすらも、ルカにとっては些事でしかなかった。
「兄さん……にい、さん……!」
ルカの縋るような呼び声にロイは振り向くことはしない。
床に引き寄せられているせいでルカにはロイの姿こそ見えなかったが、足音が消え、ちゃり、という金属が擦れる音が聞こえた。
(だめだ、また、行ってしまう。兄さんが、またいなくなってしまう――!)
焦燥からルカはまた無理やり身体を動かそうと必死にもがいた。
男の悲鳴じみた声が響くが、ルカの耳には届かない。
(また会えなくなったら、一体俺は、何のために――!)
もがき続けるルカの耳に、突如どうんっ! という乾いた音が響く。経験からその音を銃声だと断定する――同時に、ルカは血が凍り付く錯覚を覚えた。
銃。レティ―リア王国では一般的な武器ではない。が、教会の高位の聖職者や異端審問官は所有している者もいるという。つまるところ、教会と繋がりのあるギンズバーグファミリーの構成員が持っているのに不思議はない。
ルカに痛みはない――ロイが発砲したわけではない――そもそも、そんな考えは、ルカの頭の隅にもなかったのだが。
(撃たれたのは、誰だ――さっきの男か――それとも)
すぐにがしゃああんっ、と硝子が割れるけたたましい音が響く。それと同時に、重力場が消滅したのがルカにはすぐわかった。
「――!」
同時に、理解する。撃たれたのがロイであることを。
「ルカさん!」
ルカが身を起こすのと同時に、アイヴァンが駆け寄ってくる。その手に拳銃が握られているのを見て、ルカは眉を吊り上げアイヴァンに掴みかかった。
「何で――あの人を撃ったんだっ! あの人が、何をしたって言うんだ!」
怒声を上げるルカは、錯乱しきっていた。全く理解ができないアイヴァンは、我を忘れたルカに揺さぶられながら、慌てて口を開く。
「へ――部屋が、こんな状態で、ルカさんが、倒れていて――そこにいるオーエンを斬り殺そうとしていた少年がいたので、咄嗟に――犯人だと思って」
「何も知らないくせに! あの人が、理由なく、あんなことをするもんか! 絶対に、何か理由があるんだ! ――あの人が、間違えるわけがないんだ!」
おどおどしているアイヴァンに、ルカはそう口早にまくしたてた。そのまま突き放すようにアイヴァンから手を放し、ばっと身を翻す。
「ル、ルカさん……? あの人物を知っているんですか……?」
「うるさい!」
アイヴァンの問いに対して、そう答えにもならない怒声で答えると、ルカは割れた窓から飛び出して行った。
「ルカさん!……一体、どうしたんだろう……」
そう困ったような声で、取り残されたアイヴァンはつぶやいた。
(魔力の残滓――たぶん、傷をふさぐために魔術を使ったんだろう――方向は――鐘楼の方。別口から入って、教会の方から通ったみたいだけど)
銃声が再び響く。アイヴァンが生き残った構成員(おそらく、オーエン)を拷問しているか、後処理しているのだとルカは断定した。娼館から出てきた連中や、やじ馬たちが娼館の入り口付近にたまっていた。そちらから侵入するのは得策ではない、と瞬間にルカは把握する。
(別に、いちいち戻る必要もない。鐘楼の床を破壊して、そっちから侵入すればいい)
踵を返し、視界の外にあった鐘楼の方に足を向けた。
(やっと、兄さんに会えたんだ――多少強引だとしても、もう手を離す気はない。だからこそ、冷静にならないと……)
そう自分に言い聞かせて、ルカはロイがいるであろう鐘楼へ急いだ。冷静にと自分に言い聞かせてはいたが、意志とは反対に、ルカは焦燥に支配されきっていた。
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