5-3

 ルカは長い間眠り続けた――といっても、自分を呼ぶ声や何か物音が聞こえたのは分かった。けれども、どうにも動ける気がしなくて、眠り続けていた。

 正確には――自分が生きているのか、死んでいるのかすらよく分かっていない状態だった。起き上がることもできず、ただただ眠り続けるだけの状態だったから。

 魔術師にとって、魔力とは体力にも等しいものだ。多く消耗すれば、それだけ身体も疲弊する。体内に存在する魔力の量はほぼ才能依存で、努力で増加させるのは限界がある。その限られた魔力でどう魔術を使うか、どう展開していくか――魔力量を配慮しながら戦うのも魔術師に必要な能力だ。もっとも――リンドとの戦闘でそんなことを配慮するほどルカには余裕がなく、魔力を限界まで使い果たしてしまったのがルカの今の状態である。


「……ん……」

 肌寒さを感じて、ルカは薄く目を開く。体はまだ痛い――あの戦闘の時よりはずっとましだったが――なので、目だけで周囲を見渡した。

 きちんと整頓された部屋、柔らかいベッド、そばにあったコートラックには、皺を伸ばされたローブと、変装用に着ていたチェスターコートがかけてある。

 起きたとき、飛び起きなかったのはこの部屋の妙な安心感があったからだろう、とルカは思った――つまるところ、小鹿亭でルカが借りている部屋だったのだ、此処は。

(生きている)

 呆然とそう思いながら、ルカは試しに右手を天井に掲げてみた。誰が手当てしたのかは分からないが、ルカの怪我にはきちんとした処置をされていた。ひどい火傷をした両手には包帯が巻かれていたし、骨折した左腕はしっかり固定されている。ほかの怪我も未だ痛むが、手当していなかったときより無論痛みはずっとましだった。

(きっと目が覚めたらマフィアの歓待ごうもんを受けるものだろうと思ってた――そんな事より、何よりも――ちゃんと、生きてた……)

 ルカは胸のあたりからいきなり何かがこみ上げてくるような感じがした。針でつつかれる様な痛みだ――苦しみを伴ってはいたが、不思議と、不快なものではない。その痛みに顔を歪めて、耐えきれなくなったルカは静かに涙をこぼした。

(恐かった。本当に、死ぬかと思った――あんな思いは、もう、たくさんだ……)

  ぼろぼろとこぼれ出した涙とともに、ルカの感情の奔流も歯止めが利かなくなった。理性では辞めろと叫ぶのに、ルカの意志とは関係なく涙がこぼれてくる。

 両目を覆うように右腕を乗せ、やがてたまらずルカは嗚咽を漏らした。

(ほんとは、死にたくなかったんだ……俺。こんな、簡単なことを理解するのに、何年かかったんだ……)

 決壊でもしたかのように、涙があふれて止まらない。思い返せば、ある時から涙を流すことはルカにはなかった――その期間は、泣き止み方を忘れるほどの長さだったのだと、ルカは自覚した。


 窓から差し込んできた赤い日差しでルカは目を覚ました。暮れかかった日の光はさして眩しいものではなかったけれど、眠りの浅かったルカの目を覚ますには十分だった。

(泣き疲れて寝たってか……子供かよ)

 ルカはあまりにも子供じみた自分の行動に苦笑した。

 不思議と、気分は晴れやかだった――状況は変わっていないのだろうが、ルカはなんとなく気が楽になったような気がしたのだ。

 ふと人の気配を感じて、ルカはそちらに目を向ける。花瓶の花を取り換えていた見知らぬ女がそこには居た。

「おはようございます。よく眠っていたわね。あなた、三日間、ずっと眠っていたのよ」

 女はルカが起きたことに気づくと、そう言いながら近づいてきた。金髪を青いリボンで一つに束ねた二十代くらいの、ルカより年上そうな女だ。質素な青いワンピースに、清潔そうな白いエプロンを付けているが、家政婦だとかそういう風にはルカには見えなかった。顔立ちはそれなりに整っていて、こぎれいに薄化粧が施されている。つりぎみの碧眼のせいか、きつい印象を与える顔立ちだったが、服装に似つかわしくないような、どことなく気品を感じさせる女だった。

「三日……」

 カラカラの喉で、声を出すのも億劫だったが、ルカは現実を飲み込むように女が言った言葉を反復した。

「顔色はもう……だいぶ良くなったみたいね。本当に、運が良かったのよ、あなた。あとでちゃんと感謝しなさいね」

「……女神なんかには、しませんよ」

 ルカのその言葉に、女は顔をしかめた。心底不愉快そうな顔だった。

「いるかどうかも分からない存在に感謝する必要はありません。そもそもわたしがいつ、そんなことを言ったのよ。ありえないわ」

 厳しい口調で言われ、ルカはついたじろいだ。そんな様子を気にする風もなく、女は続ける。

「感謝するのは、マサチカ先生によ。瀕死で運ばれてきたあなたを治療してくれたんだから」

「マサチカが……」

「先生、今は忙しくしていらっしゃるけど、落ち着いたらあとで顔を見せに来るっておっしゃっていたから、ちゃんとお礼を言いなさい」

 口調こそ(こればかりは彼女の癖なのだろう)厳しいものだったが、先ほどより優しい声音で女は言った。女の言葉にうなずきつつ、ルカは首をかしげる。

「……ところで、あなたは? マサチカの……恋人?」

 そう尋ねてきたルカの言葉に、なんだか疲れたような――気落ちしたような表情に変わり、女はため息をついた。

「……あなた、先生と知り合いなんでしょう?」

「え? ああ、まあ……そう、ですね」

「……あの人に、恋人なんてものが入り込む隙間があると思って?」

 頭を抱えながら問う女に、ルカは答える代わりに苦笑いをひとつ。ルカの苦笑を肯定と取ったのか、女はひとつ息をついて改めて口を開く。

「わたしはシャーロット。マサチカ先生にご恩があってね、それを少しでも返そうと、先生の助手をしているの」

「ご恩?」

「ええ、わたし、幼い頃から病弱で……教会でのふざけ――治療と称したお祈りを受けていたんだけど、何の意味もなくて……それを見かねたマサチカ先生が、わたしの病気を治してくださったのよ。今ではすっかり健康体だわ」

 嬉しそうに顔をほころばせたシャーロットの表情は、少女じみたものだった。

(まあ、なんだろうな)

 もちろんその邪推を口にすることはなく、ルカはただシャーロットの話に耳を傾けることにした。

「でも、マサチカ先生の治療を受けたことで、リーズ教の教義に反しているとしてわたしの家は貴族としての家名、名誉、領地――すべて失ったわ」

「ご令嬢でしたか。王国上層部とリーズ教会は、それは親密な関係にありますからね……」

 同情するような声音のルカに、シャーロットは苦笑する。

「それが悪い話でもなくてね、お父様、商才があって、貴族だったころよりずっと豊かな生活をしているの。お母さまも貴族同士の見栄の張り合いが好きではなかったらしくて、今は気が楽だって言っていたわ。先生への支援もできるし、今の生活の方がずっといいのよ」

(この人、例のパトロンのお嬢さんか……たくましいな)

 笑みを浮かべ――いつもの皮肉気なものではない微笑をたたえつつ、胸の内でルカはつぶやく。それからすぐ、あ、とシャーロットは声を上げ、

「わたしの話ばかりしていたわね。ごめんなさい。……それにしても、運ばれてきたとき、あなた、それはひどい状態だったわ――もしかして、ギンズバーグファミリーが近ごろぴりぴりしているのと関係ある?」

「……恐らく。……というか、ここにもギンズバーグファミリーの連中が……?」

「ええ、此処のご主人が一喝して追い払ってくれていたようだけど……。それに診療所にも来てね、お忙しいマサチカ先生の邪魔をするものだから、わたし、腹が立って――ここにきて護身術のお稽古が役に立つとは思わなかったわ。その人たちにすこしお灸をすえてあげようと思って――手加減してあげたのよ、一応――一か月ベッドから動けなくするくらいで」

 困ったように――わいた害虫でも殺したみたいな感覚で言っていそうなシャーロットの言葉に、ルカはぞっとした。

「……護身術って、人を半殺しにするようなものだっけ……?」

「……元気になったら、試してみる?」

「えっ、いや、やめておきます……」

「冗談よ、冗談♥」

(恐ろしい女に目を付けられたもんだな、マサチカ……)

 そう胸の内でつぶやきつつ、ルカは苦笑した。ちらりとシャーロットの表情を盗み見る――笑顔を絶やしてはいない――目は笑っていないが。

 その笑顔の裏にある真意が見えた気がして、ルカは、マサチカだけには彼女の戦闘能力について漏らさないようにしようと固く誓った。

「とりあえず、マサチカ先生が来る前に包帯を取り換えちゃうわね」

「……お願いします」

 女に逆らうとロクなことがない、経験則からよく分かっていたルカは、きわめて従順にうなずいた。


 ルカが包帯を取り換えられている時、軽いノックの音が響いた。

「ロッテ、ルカの調子はどんな――おお、起きたのか!」

 特徴的な白い上着を翻し、マサチカは相変わらずの快活そうな声を上げながら部屋に入ってきた。しかし、どこかその顔には疲弊の色が浮かんでいるように、ルカには思えた。

「先生。お疲れ様です」

「悪いな、ロッテ。お前に任せちまって。ほんと助かってるぜ」

「い、いえ……」

 マサチカにそう言われ、頬を染めつつはにかむシャーロットに、ルカは目を半目にした。

(護身術で人を半殺しにできる女には、見えないよな……)

 そうルカが胸の内悪態をついていると、何故かシャーロットから殺気じみたものを感じた。口に出したわけでもないのに、心でも読まれたような気がして、ルカは冷汗が止まらない。

(お、女のカンってやつか……?)

「ん? 顔色悪くないか、ルカ。……まだ、やっぱり調子は戻らないか」

 そんなことは微塵も知らないマサチカは、そうルカに声をかけた。丁度包帯を巻く工程でシャーロットを背にする形になっているルカは、背筋が凍るような感覚を覚えた。

 ナイフでも突きつけられているような殺気を背にしつつ、ルカは「だいじょうぶ……」と必死で笑みを繕った。

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