5-2

「……もう逃がしてはやらない、というわけか――」

 ルカは眼前にゆらめく炎の熱に、現実に引き戻された。そう自嘲気味につぶやき、目の前の光景から目をそらすように視線を足元に落とした。

 ルカにとって、もう手の熱さはどうでもよかった――どうせ、どうにもならないなら持続している魔術を止めてしまおうかという考えが、脳裏によぎった。

 その絶望に呼応するように、障壁は硝子がひび割れるような音を立てて、亀裂が走った。

(兄さんがいないと、本当に何もできないのか。あの人がいないだけで、こうも立ち上がるのが苦しいのか。今すぐ――逃げ出してしまいたい。向き合いたくない。目の前のことを放り出して、いっそこの炎を受け入れて、違う意味で逃げてしまいたい。どうせ、僕ごときに街ひとつ守れるわけがない)

 また音を立てて障壁が割れる。魔術師の精神と魔術は密接な関係にある。ルカの精神――心が壊れれば、同時に魔術も崩壊すると教わったのを、ぼんやり思い出した。

(そもそも何で、僕は今ものうのうと生きているんだ――兄さんを殺したも同然なのに――?)

 自問とともに、追憶する。兄の声と顔がともに歩んできた記憶が再び浮かぶ。十年間――たった十年間しかともにいられなかった兄との思い出は、とてつもなく少ないようにルカには感じられた。

(兄さんがもし生きていたとしても、合わせる顔がない……兄さんの人生を、僕は奪ったんだ――僕と、あの男が)

 忌々しい男の、あの冷徹な目をよくルカは覚えている。あの忌々しい声が、脳裏にこびりついて、消えない。――大切な思い出を塗りつぶすように。

 また障壁がひび割れる。割れた障壁の破片は光の粉となって、本来あるべき大気中に還って行った。

『その程度で、魔術師を名乗るな』

『お前には確かに才能がある。――だが、あるだけだ。強力な武器を持っていても、使いこなせなければ意味がない』

 ルカの脳内を支配しようとするような――何も変わっていないと言い聞かせられるような、忌々しい声をかき消すように、ルカはかぶりを振った。

(黙れ! 今は――兄さんにただ守られていた昔のとは違う! 今の俺なら、きっと――!)

 苦し気に息を吐いて、ルカはゆるゆると前を向いた。

「…………」

 あの時の兄が見続けていただろう光景と、よく似た炎が今度はルカの眼前にある――あの日も、今も目をそらしていた光景だ。煌々とゆらめく、すべてを飲みつくさんとする炎、喉が焼かれるような熱。

 ルカは過去の再現のような目の前の光景に身がすくんだ。呼吸が早くなるのに、熱い空気が入ってきて上手くできない。全身の血が凍りつくような錯覚を覚える。魔術のコントロールがまたブレて、障壁に大きな亀裂が入った。

(――恐い? 俺が? 何を恐がる必要があるんだ! ――俺は今まで、何をしてきたんだ! 俺の前から兄さんがいなくなって、ずっと魔術師として戦い、あの男に勝てるかはまだわからないが、確実に強くなった――魔術連盟の幹部、アルカナ十六階位、塔の魔術師、魔術師でも指折りの才能、実力――その名声は、本当にめっきだって言うのか。そうだとして、必死に守ってくれた兄さんのしたことを、傲慢にも俺が否定するのか――!)

 何度も自分を守ってくれた兄の姿がルカの瞼の裏に浮かぶ――同時に、自分の愚かさにやっと気づいて、胸の内で自責し、ルカは唇をかみしめた。

(――兄さんは命がけで俺を守ってくれたんだ。それなのに、俺が俺を殺してどうする。そんなふざけた話が、あっていいはずはない――そもそも、世界で一二を争う位嫌いなヤツに、兄さんが必死に守ったものを、渡してなるもんか)

 ルカは胸の内でそう奮い立たせ、今にも崩れそうだった魔術に集中した。障壁が輝き、亀裂は修復していく。その変化にリンドは目ざとく気づいたらしく、舌打ちを一つ。

「俺は、兄さんに守ってもらった命を簡単に手放すわけにはいかない。それだけが、俺なんかが生きてもいいと思える――いや、死ぬわけにはいかない唯一の理由だ」

 ぼそりと、リンドには聞こえない声でルカは言った。自分に言い聞かせるようにして。

「なんだよ、てっきりもうあきらめたのかと思ったわ」

 つまらなさげにリンドが言うと、ルカはそれに鼻で笑うだけだ。それからルカは上空の円環を見据えるように睨みつける。

(これは賭けだ――もしこれがダメだったら、それこそ俺がってことだ――)

 決意した今でもすぐに逃げ出してしまいそうな足で地面を強く踏み込んだ。


「おい――お前、ドラゴンのくせに、なんで人間みたいな姿をしてんだ? 下等生物とか呼んでるくせに、ずいぶん酔狂な奴だな」

 疲弊しきっている身体に鞭をうち、ルカは皮肉気にそうリンドに尋ねた。

「てめえに答えてやる義理はねえよ。まあ、強いて言うなら――ただのハンデかね」

 嘲笑気味に言ったルカの言葉に珍しくリンドは眉をひそめ、口早に答える。一瞬だけ、苛立ちのようなものがリンドの声に滲んでいるようにルカには思えた。

「――おかしいと、少し思っていたんだ。俺の見当違いだったんだろう――だってこれは、

「……何だと?」

「もし本当に魔法なら、お前はこの障壁すらもぶち破ることすらできるはずだ。確かにてめえの使っているこれは、ドラゴンの魔法と同じ方法で扱っているものかもしれない。けれど、威力がかなり落ちてるんじゃねえのか? だからこれは、奇跡なんかじゃない。奇跡を模倣する魔術だ。ただお前が魔術師だとしたら、規格外だがな」

 黙りこくるリンドに、ルカはかまわず続ける。

「どういう理由かはわからないが、お前は何らかの理由でドラゴンとして本来の力を出すことができない。異様なほどの身体能力や竜の息吹もどきを見れば、ドラゴンだと信じざるを得ないが、その姿と魔術を見れば――完全にドラゴンだとは言えない」

「――で?それが分かったところで、何だってんだ? ドラゴンじゃなきゃ勝てるって?」

「は――てめえが、ドラゴンなんかじゃなく、今は火吹き芸を躾けられたってだけの、ただの蜥蜴ってことが分かっただけでも、大きな収穫だと思うね」

「――死ね」

(分かりやすい奴だ。図星ってことだな)

 そう胸の内でリンドに毒づいてから、ルカは目の前を見据え、口を開く。

「奇跡謡う虚構よ――崩壊せよ!」

 障壁が崩れた瞬間、勢いよくルカを包もうとした魔術の炎が徐々に勢いをなくしていく。

「へえ――変に頭が回る野郎だ――だが、そいつぁ無駄なこった! 自覚はあるんだろう、魔術師よぉ!」

 リンドの言っていることに、ほぼ間違いはないとルカは思った。事実――勢いが弱まっているとはいっても、上空に張り巡らされている円環は炎を生み出しし続けている。

(魔術であると理解した今なら、魔術自体を根本から崩壊させて威力を弱めることはできる――と言っても、完全に消し去るのは無理だ――蜥蜴だなんだと言ってもドラゴンはドラゴン――規格外の魔力量から発動されているあの魔術の炎はとめどなく、あそこから出てくるし――逆に俺が魔力切れを起こしちまう)

 リンドが炎を纏いながらも躍りかかってくるのがルカの視界に入った。同時に勢いを殺されて先ほどより小さくなった炎を視認し、ルカは口を開く。

「涙雨流るる宝瓶よ!」

 ルカが詠唱すると、大気中の水蒸気を凝縮させられたことによってできた水の弾丸が上空に向かって――炎を生み出し続ける円環に一斉に飛んでいく。

「そんなもんを使ったところで、オレ様の炎が消せるとでも――!」

「思って、ねえよ!」

 ルカがそう吠えてすぐ、水の弾丸が炎にぶつかると、耳をつんざくような轟音を上げて、爆発を引き起こした。水蒸気爆発の衝撃波によってルカもリンドも吹き飛ばされ、激しく空間が鳴動する。周りのもろい建物は崩壊し、建て直した店からは人々が悲鳴を上げながら飛び出してきた。

(集中が途切れれば魔術は簡単に崩れる――攻撃するなら、今だ!)

 ルカの思惑通り、上空に存在していたリンドの魔術の円環は忽然と姿を消していた。

 ルカが仕掛ける前に、爆風で立ち上った砂煙からリンドが飛び出してきた。そのまま飛び蹴りを食らわしてくるが、冷静さを欠いているらしいリンドの攻撃をかわすことは、ルカにとって容易なことだった。

「まあまあやるようだな――だがやっぱり、人間ごときに出し抜かれるのはメッチャムカつく!」

「はっ、火吹き蜥蜴が! 蜥蜴は蜥蜴らしく、地を這ってりゃいいんだ!」

 そう罵声を浴びせつつ、ルカは苦し気に息を吐いた。冷静さを欠いているとはいえ、リンドの攻撃のペースはやはり落ちない。対して、ルカの身体は消耗しきっていた。ほぼ気力で戦っているようなものだ。

(――しんどいけど――俺は飽きるほど逃げたんだ、もうしばらく――逃げるのはやめると決めた)

 リンドが鋭く拳を放ってくる。ルカはそれを今度は避けることはせず――左腕で防いだ。激痛が走る――先ほどのように、骨折した感覚があった。それでもひるまず、ルカはリンドの懐に潜り込んで、右の掌底を腹に打ち込んだ。

「んなカスみてえな攻撃で――!」

「我が手に純然たる破壊を――我写すは世界の終焉――!」

 ルカが詠唱した途端、あたりに黒い光が駆け巡った。リンドの顔が、ようやく驚愕の色を帯びたのに、ルカは痛みをこらえながら笑った。

「どんだけてめえが頑丈だろうが――近距離でこの魔術を食らえば、無事ではいられねえはずだ――!」

「――んな――!」

 リンドの声をかき消し、夜のとばりが落ちたように黒く、それでもまばゆい光が二人を包む。爆裂した音とともに、衝撃波が崩れた瓦礫を吹き飛ばしていく。

 破壊の限りを尽くした黒い光が収まると、通りはほぼ半壊状態になってしまっていた。

「……は……」

 ルカは肩で息をしながら、少し離れた場所で膝をついているリンドを見やった。忌々し気に未だルカを睨みつけ、今にも飛びかかってきそうだ。

(なんでこの魔術を受けて、体の形を保っていやがるんだ……)

 ルカは絶望的な気持ちになった――さっきのが今のルカにできる、最大火力の魔術だったからだ。

「ぐ……」

 しばらく膠着状態が続いてから、小さく呻いて、リンドがやっと倒れた。それに安堵したルカも倒れてしまいたがったが、周りがかなり騒がしくなってきたのに気づく。

(ギンズバーグファミリーの、それもオーエンの庭だ……こんなとこで、寝るわけには、いかねえ……)

 ルカはほぼ這いずるような形で、先ほど通ってきた路地裏にとっさに身を隠す。罵声や悲鳴が聞こえる――見つかる可能性が、ゼロとは言い切れないが、ルカは身をちぢこませた。

(……大がかりな魔術を三度使っただけで、ここまで消耗するなんて……俺の腕も、やっぱり落ちたもんだ……)

 疲弊しきったルカは、喧騒の中でそのまま泥のように眠りについた。

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