蒸気絢爛ニ血桜舞フ 其ノ肆

 目を開けるとあまりに可憐な顔があったので、すわここが彼の世かと勘違いした。

 よくよく見ればそれは同僚たる皐月の顔で、自分は寝台ベッドの上に寝ているのだと和彩は理解した。鼻腔を独特の薬品臭が突く。どうやらここは病院らしい。

「よかった、目が覚めたんですね」

 皐月はほう、と溜息を漏らす。ぼんやりとした思考が、ゆっくりと明瞭になっていく。

 嗚呼、そうか。自分は負けたのだ。あの忌まわしい殺人鬼に。

 しかしどうしてか生きているらしい。何故か尋ねるため体を起こそうとしたら、激痛が走って思わず苦悶の声が漏れた。

「無理しないでください、命に別状がないとは言え、全身傷だらけなんですから」

 見れば、あちらこちらに包帯が巻かれ、ところどころが赤く滲んでいた。むべなるかな、あれだけの殺人舞踏をしていたのだ。むしろよくこの程度で済んだものだと思う。

「……奴は?」

 簡潔に尋ねると、首を横に振られた。

「先輩を倒した後何処かへと去っていったようです。足取りは掴めていません。現場には倒れた先輩と、『See you againまた遊ぼうね』の血文字、あとは死体だけが残されていました」

 どうやら自分は見逃されたらしい。おめおめと生き残ってしまったようだ。その事実に歯噛みする。本当は拳を叩きつけたかったが、体が上手く動きそうになかった。

「本当に」

 皐月の声に目を向ける。皐月は心の底から喜ばしいという顔をしていた。

「先輩が生きていてくれて、良かったです」

「……私としては悔しいばかりだけどね」

「でもでも、生きていてこその物種ですから! また次戦えばいいじゃないですか!」

 勢いよく言う皐月に、全くもって元気のいいことだと和彩は思う。無尽蔵の元気は本当に子犬のようだ。……自分より背の高い相手に全く不適切な例えだとは思うが、感じてしまうものは仕方ない。

 和彩は苦笑してそうだね、と言った。そう、奴は『また会おう』と残したのだ。奴も再戦を望んでいる。互いの傷が癒えた頃、再び死合うことになるだろう。

 その時こそ、私は奴を殺さなければならない。

 そのために今必要なのは、適切な休息と。

「桂さん……悪いけど、今回の犠牲者について名前を教えてくれないかな。分かっている範囲でいいから」

 だ。

 身体を休ませている間、憎悪の癒えることのないよう──奴の所業を胸に刻まねばならない。

「はい。現在分かっている時点で、羽鳥直義、三上雪子、三枝権蔵──」

 皐月の声が朗々と失われた命の名を読み上げる。その声に、ふと何か引っかかるものを感じそうになったが、それは次の名前を聞いた途端に何処かへ去ってしまった。

「それと、水戸理衣──」

「──待って。水戸理衣?」

「……はい、水戸警部補が殺害されていました」

 信じられない、と思った。あの、殺しても死ななそうだった女が、死んだ?

 何かの冗談のようだ。

 呆気にとられる和彩に皐月が声を掛ける。

「知人がお亡くなりになって、お辛いでしょう。水戸警部補は宿敵ライバルだったと言われていますし……」

「いや……別にそういうわけでもない、けど」

 勝手に敵意を向けられていただけだ。

 だから、悲しみと言うよりは困惑と疑問の方が強い。何故彼女はあんなところで死んだのだろう。

 呑み込み切れない和彩の耳に、犠牲者の名が次々と届き、やがて止んだ。

「以上が、今回の犠牲者のお名前です」

「……そう、か」

 未だ困惑が抜けきらなかったが、気持ちを切り替える。多くの命が失われた悲しみと、守れなかった怒りと。

 許せない、という思いで体を満たす。憤怒の炎を、胸の奥で絶えず燃やしておく。一瞬たりとも闘志の鈍らぬように。

 そして次に邂逅した時こそ、この焔でもって奴を殺し尽くすのだ。

 肉の一片、骨の欠片も残らぬほどに。地獄の業火で灼くように殺してやるのだ。



「それじゃあ私はそろそろ戻りますね」

 しばらく和彩の世話をした後、皐月は立ち上がった。よくよく見れば白衣を羽織っている。

「ああ、研究所ラボラトリイに戻るのかい」

「はい、まだやることが残っていまして」

 にこりと笑う彼女の顔がいつもより少し青白いような気がして、和彩は眉根を寄せた。

「いつもいつも大変だね。疲れてるんじゃないかい? 機装課への出向なんてやめにしたらいいのに」

「いえ。実際に現場を見て機装設計に役立てたいと言ったのは私ですし」

 全くありがたいことだ。稀代の天才と呼ばれる蒸気工学の権威が手ずから警察の補佐をしてくれるのだから。

「それでは」

「ああ、そうだ。謝らなくちゃいけないことがあった」

 去りゆく背中に声を掛けると、皐月はゆっくりと振り返った。なんですか、と問う彼女に、悔しそうに伝える。

「頼んでおいた肘の噴流ジェット、上手く役立てられなかった。ごめんね」

 皐月は、ああ、なんだそんなことですかと言うと、微笑みかけ。

「大丈夫です。次はもっと凄い機装を作ります。ですから──また、戦いましょうね、先輩」

 満面の笑みで、言った。




 皐月が去り、和彩はゆっくりと目を閉じる。思った以上に体力を使ったようだ。今はとにかく体を休め、復帰を早めなくては。

 瞼の裏を見つめながら、考えるのはやはりあの殺人鬼のことだ。

 相手の動きを虚空に描く。奴にはどんな攻撃が有効だろうか。次はどうやって戦おう。機装の改造も考えなくてはいけない。鍛錬もやり直した方がいいな。

 嗚呼、早く君に会いたい。

 こんなにも、胸の奥が燃えている。

 焦がれるような思いは少しずつ侵食してくる闇に解け、和彩はただ彼女との死合いを夢に想う。

 あの血桜舞う絢爛の果てで、今度こそあの首を撥ねられますように。

 ぼんやりと溶ける頭の中で、和彩は洞穴のような目を讃えた首に口づけをした。

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