蒸気絢爛ニ血桜舞フ 其ノ参

 冷たく、夜風が吹いていた。

 普段ならばどこか寂しげな空気を伴って頬を心地よく撫ぜるはずのそれは、しかし今宵、生ぬるく湿った死の匂いを運ぶ。

 その風上に女は立っていた。

 すらりと伸びた長身。真っ赤な深靴ブウツがそれをさらに際立たせている。しなやかな肢体の足下に緋色の液体が広がる様は、まるで赤絨毯の上に立つ名女優のようだ。小さくはためく外套の裾も優美さを感じさせる。見え隠れする鈍色の機甲も、その可憐さを邪魔することはない。むしろ各部から吹き出す蒸気が、不可思議な艶やかさを醸し出していた。

 それなのに。その女はこんな薄暗い夜道で死体に囲まれているのが自然に思えるような、異様な存在感を放っていた。手に持った大振りの匕首ナイフも、まるでそうあるのが当然のように血を滴らせている。

 まるで殺人のためだけに作られた装置のようだ。和彩は思う。日本刀や機関銃が自然と備えるような機能美がそこにはあった。

「お前が、仮面の殺人鬼だな」

 和彩が声を掛けると女はゆるりと顔を動かし、仮面の奥の瞳を向ける。

 その眼を見た時、和彩は幼き日に地元の森で迷子になった時のことを想起した。道も分からず奥へ奥へと入りこんでいってしまったその先。そこで見つけた、朽ちかけた大木にぽっかりと空いた、空虚な洞。

 殺人鬼の眼は、それとよく似ていた。暗がりの中、反射する明かりもないそれはどこまでも吸い込まれそうな黒そのもので、覗き込んだらそのまま落ちてこことは知れぬどこか恐ろしい場所へと連れていかれそうな、根源的な恐怖を刺激する瞳。

 その眼を認識した瞬間、という確信が和彩の胸を貫いた。それは、予感や直感などという生ぬるいものではなく、天啓と呼ぶべき類のものであった。

 逮捕や拿捕ではない。制圧でもない。

 

 武人が、生涯の宿敵と相まみえた時のように。宮本和彩の全身がそれを必定と理解した。

 女もそれを理解したのだろうか。どこか楽し気に唇を開く。

「あら、機装課の刑事さん。今晩は。今宵は良い月夜ですねぇ──」

「──すぐに最悪の夜にしてやる。いや、そんなことも考えられなくしてやるとも」

「あらあら、怖い怖い」

 くすくすと、女は笑う。何がそんなに楽しいのだろうか。

「それに、仮面の殺人鬼だなんて無粋な呼び方。貴女も殺戮淑女と呼んでくださいな。私、結構気に入っているの」

「お前に、聞きたいことがある」

 取り合わず、和彩は質問を投げかける。

 こいつは殺す。今宵殺す。一切の躊躇いも、慈悲もなく。どうせ相手は凶悪犯だ、戦闘の末に命を散らしても誰も文句は言うまい。

 だから、その前に一つだけ聞いておきたいことがあった。

「──お前は、何故人を殺す?」

 動機。

 こいつの正体などはどうでもいい。そんなのは殺したあとでいくらでも調べられる。

 ただ動機だけは今ここで質しておきたかった。

 殺人鬼はその問いを聞くと、少し小首をかしげ。


かしら」


 そう、答える。

「そう、じ?」

「ええ。せっかく綺麗な街なのに、小汚いものがあまりに多いわ。だから私が時たま掃除してあげてるの。結構大変なのよ」

「────」

 予想外の答えに、和彩はしばし絶句し。

 そして。

「なるほど──やはり、お前はここで殺す」

 地獄のように低い声と共に、軍刀サアベルを強く握りしめ、構えた。稼働を始めた機装が、ごうごうと背部から音を立てる。

 その眼に一切の光なく。鋭く研ぎ澄まされた殺意だけが射抜くかの如く。

 傍から見るものが居れば、その眼を正対する殺人鬼のそれと瓜二つだと断じたかもしれない。

「ああ、いいわ、いいわ、いいわ。もっと私を見て……」

 殺戮淑女もその視線を受け、緩やかに得物を構える。

 しばし、沈黙。背中の蒸気機関エンジンが駆動する音がどこか虚ろにこだまする。遠くの瓦斯燈が揺らめき、踊るように影を作った。陰影を反射する白刃のふちを、鮮血がつうっと滑り。

 ぽたり。

 それが滴り落ちた瞬間、殺し合いの火蓋が切って落とされた。


                ✛


 轟! と、街路を砕かん勢いで飛び出したのは和彩の方だ。破砕音が届くよりも速く、弾丸さえも追い抜きかねない速度で矢のように走り出す。

 特等巡査が身に纏う機装の最大の特徴が、この速度にある。

 民間用強化服の多くは主に作業用として筋力補助を目的としているが、機装はその名の通り機動力を主眼に置いている。小さく入り組んだ小路が未だ多く存在するこの蒸気都市において、違法改造した蒸気滑板スチヰムボオド自動二輪モウタアサイクルを利用して逃げ回る犯罪者に対し、それ以上の機動力を以て制圧すべく開発されたのが蒸気機動鎧装なのだ。

 故に、この距離での刺突は必殺の一撃となる。違法改造強化服ごときがこの速度に対応できる道理はどこにもない。ただの一撃で、この剣戟は幕切れ。そのはずであった。


 ──しかし、必殺のはずの一撃は、ひらりと可憐に躱される。


「なっ──」

 驚く和彩の思考の隙間を縫うように、鮮血を纏った刃が閃く。とっさに首をひねると、頬に薄い線が走り、頭髪がいくらか宙を舞った。

 左足を軸に半ば無理やり突進を止め、その力を回転に転化する。放たれた円弧の斬撃は殺戮淑女の胴体を捉えかけたが、しかしそれに合わせて殺人鬼は後ろへ飛び回避した。宙空でくるりと回転し、華麗に着地する。その隙に和彩も構え直す。両者、尋常ならざる動き。

 見くびっていた、と和彩は唇を噛む。この機装の速さに適応できるものはそうそういない。警察官でさえも扱うのは難しい。神速に耐えうる鋼のごとき肉体と、それを制御し、力を適切に流す柔軟さという矛盾する素質を求められる機装刑事になれるのはごく一部だ。故に、大抵の凶悪犯などものともしない自負があった。

 だが、こいつは別格だ。その体捌きは機装課の錚々たる面々に匹敵する。それだけでない。身に纏った機甲の性能も機装並みか、あるいはそれ以上だ。一体どこからこんなものを手に入れたのか。

 浮かびかけた疑問は、しかし振り払う。今はただ、目の前の敵を殺すことだけに集中しろ。さもなくば。

 金属音。滑るように近づいてきた鋭い一撃を、軍刀で振り弾く。間合いの差を全く有利と感じさせないほどの手練れ相手に、意識を逸らせば待っているのは死しかない。今はただ──思考は殺意の上を走るのみ。

 一閃、応刃、散る火花。刺突、弾く、迫る匕首、紙一重、噴き出る鮮血、反撃。

 神速の逆袈裟が闇を切る、手甲が受け銀閃が走る、跳ねた膝が腕を弾く、そのまま蹴撃、胴で受けるも空中で反転、壁を足場に再び飛ぶ、ぶつかり合う軍刀と匕首、交錯する視線。

 それはまるで踊るような剣戟。稲妻のごとき速度で奏でられる殺意の合奏。刃と刃がぶつかる音が帝都の暗闇を引き裂き、吹き出す血が互いを化粧する。尋常ならざる熱気を振りまく、陶酔に限りなく近い殺陣。

 上がる息と息が絡み合う。吹き出す蒸気が二人を覆う。今この瞬間、脳髄は互いのためだけに、相手を殺すためだけにある。あるいはそれは、情事よりも純粋な交流だった。

 女は笑う。楽しくてたまらないと言うように、嬌声をあげる。

 女は吠える。愛の告白のように勢いよく、獣じみた唸りをあげる。

 斬り、弾き、薙ぎ、払い、殴り、受け、蹴り、避ける。鉄と鉄が睦言を交わし、肉と肉がぶつかり合う。刃が肉を裂き、また刃が肉を裂き、鮮血は桜の如く舞い散って二人を隠す。純粋な殺意の化身となった二人は、もはや溶け合って境界が分からない。

 だが、明けぬ夜がないように。終わらぬ命がないように。この小さな夜の輪舞にもやがて終わりが訪れる。


 剣戟の中、袈裟懸けの大振りに圧され殺人鬼がたたらを踏むように後退した。その瞬間を好機だと和彩の全身が捉えた。

 腕を大きく引き、切っ先を前に出す。最初に見せた刺突の動き。この距離ならば、仮面の殺人鬼には避けられる。

 そう、それが尋常の突きならば。

 その瞬間、和彩の肘が火を噴いた。

 いや、正確に言えば噴いたのは火ではない──

 各部に張り巡らされた蒸気配管、肘のそれに取り付けられた弁が開き、高圧蒸気が噴き出す。特別に改造してもらった、和彩の機装だけの仕掛けだった。

 解放された蒸気は噴流ジェットとなり、和彩の腕を強く推進させる。韋駄天でさえ、目に追えなかっただろう。避けようのない一撃。そのはずだった。

 だが。

 蒸気が噴き出した直後、まるで予見したかのように殺戮淑女は既に回避体勢に入っていた。和彩の眼が見開かれる。しかし、その腕はもはや止まらない。

 時の流れが、急に溶けた飴になったかのように和彩は感じた。ゆっくりと、緩慢に突き出される腕は、眼前の殺人鬼をとらえることはない。ただその髪だけをいくらか散らす。殺人鬼の仮面に覆われた顔が近づいてくる。黒々とした洞穴の中、星明りを反射して煌めくその瞳を、和彩はどこかで見たような気がした。

 そして、殺戮淑女の腕が閃き──和彩の意識は、そこで途絶えた。

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