蒸気絢爛ニ血桜舞フ 其ノ弐

 細々とした仕事を片付け、仮眠室に向かおうと本庁の廊下を歩いていると、あまり見たくない顔と出くわした。

「あら」

「む」

 出来れば見ないふりをしてやり過ごしたかったのだが、正面から顔を合わせてはそうもいかない。軽く会釈をしてそのまま通り過ぎようとしたが、それは相手の方が許してはくれなかった。

「調子は如何ですか、宮本特等巡査」

「……おかげさまで、ぼちぼちといったところですよ、水戸みずと巡査部長」

「あら、ご存知なかったかしら。わたくし、つい先日警部補に昇任致しましたの」

「……それはとんだ失礼を致しました。どうも、御目出とうございます」

 当てつけのように言う水戸理衣みずとりえに頭を下げる。ふん、というつまらなさそうな吐息が聞こえ、和彩はその顔を見上げた。皐月と話していた時には感じなかった威圧感に肌がひりつく。小柄な和彩よりも細身の水戸の方が上背がある、というのは確かだが、それよりもその瞳の方に原因を求めるべきだろう。

 嫌な眼だ、と和彩は顔に出さず思う。瞳孔が細い、蛇のような眼。そこに侮蔑と嫉妬がない交ぜになったような感情を乗せ、水戸理衣は和彩を物理的に見下す。数年前、機装課登用試験で敗れたことを未だに根に持っているのだろうか。それを発条ばねに警部補にまで上り詰めたのだから、今更気にするようなことでもないだろうに。

 あからさまな敵意に対し、大手軍需産業だかの令嬢の気持ちは田舎出の道場娘にはさっぱり分からん、と和彩は辟易した内心を噛み殺す。機装の扱いで負けたことくらい、姓の如く水に流せばいいのに、と。

「殺戮淑女」

 水戸の出した単語にぴく、と和彩の肩が震える。ようやく好ましい反応が得られたからか、水戸はねっとりと、舐るように言葉を継いだ。

「随分と、苦戦していらっしゃるみたいね──実際の対応は機装課に一任されていますし」

「……それに関しては、不甲斐ないばかりであります。ですが、必ずや奴の凶行は止めて見せます。機装刑事の誇りにかけて」

「もう何週間経つかしら。宮本さんお一人には、荷が重いのではなくて?」

「仲間も西で頑張っています。私が弱音を吐くわけにはいきません」

「ええそうね、機装課の面々は今大阪や博多で頻発する反政府破壊活動テロリズムへの対応で出張中だものね……お留守番なんて気の毒ですわねぇ?」

「……信頼されてのことだと考えています。だからこそ、精いっぱい帝都の治安確保に努めるつもりです」

 舌打ちが聞こえないのが不思議なほどに、水戸は顔を歪めた。せっかく弱みを突けたと思ったのに至極冷静に対応されたのが腹立たしいらしい。だが、和彩も武人である。そうそう弱点を見せないよう修練は積んでいる。

 先ほど反応したのは単に、殺戮淑女に対する怒りを抑えきれなかっただけだ。

 名前を聞いただけで体が震えるほどに、宮本和彩は彼の怪人にはらわたが煮えている。

「……そうですか、それでは頑張ってくださいね」

「ええ。これから夜間警邏のために仮眠をとりますので、これにて」

 歩き出しかけた和彩だったが、ふと気になることがあって足を止め、振り返った。

「先ほどの口ぶりだと水戸警部補は例の殺人鬼の捜査にはあまり関わっておられないのですか。今は大した事件もなし、多くの人員が奴の捜査に割かれているはずですが」

「そうね。でも西からの破壊活動の波及に備えて警戒している人員もいるわよ。地下組織はこちらにも居るはずという話だわ」

「その言い方だと貴女はそうではないということでしょう。警部補ともなると単独捜査も許されるといいますが、一体何を?」

「そうねぇ……まあ、殺戮淑女にも関わることではありますけど、あえて言うなら──」

 そこで水戸はくるりと振り返って、てらてらした唇で弧を描くと。


「──面白いこと、かしら」

 嫌な眼だと、和彩は再びそう思った。



                   ✛


 仮眠室に到着し、ベッドに横たわる。眠りに落ちるまでの僅かな時間で、少しでも手がかりがないかと仮面殺人鬼についての情報を脳内で整理する。

 目撃情報。殺し方。やつの目的は何か。不定期な事件周期に意味はあるのか。何故この時期に動き出したのか。機装課が西に派遣されたことに関係あるのか。警官をものともしない機甲装備の入手先は。そういえば型落ちの機装が民間に払い下げられたという話があった。もしかしたらそれが関係しているかもしれない。あれはどこが扱うことになったんだったか。

 ぐるぐるぐるぐると、未だ見ぬ殺人鬼に想いを馳せる。考えても考えても気になることが次々と浮かぶ。こんなにも誰かに対して長いこと考えたことは、これまでの人生の中であっただろうか。

 あるいは、それは恋する少女にも似ていたかもしれない。

 やがて睡眠へと誘われる思考は取り止めをなくし、脳内で様々なことが泡沫のように浮かんでは消える。西の破壊活動。水戸理衣。震撼する帝都。他に大して事件のない最近。全都監聴機構。桂皐月。蒸気工学研究所。機装。

 思索は少しずつ言葉の形をなくし、曖昧になって溶けていく。数刻もせず、和彩はまるで焦がれるかのように眠りに落ちた。


 それから数時間後。仮眠後の警邏中、悲鳴を聞いて駆けつけた宮本和彩特等巡査は、ついに件の仮面殺人鬼──殺戮淑女との邂逅を果たす。

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