第35話 永遠の別れを告げて

 千鶴と一緒に上りの電車に乗ると、上野での別れの時が強く意識され、良太はせかされるような気持になった。良太は千鶴によりそい、一夜を共にできたことの幸せと、千鶴に対する感謝の気持を、声を低くおさえて伝えた。

 窓のむこうに広い焼け跡があらわれた。空襲によるそのような惨状は、各地の都市に見られるだけでなく、日を追うごとに増えてゆくはずだった。良太はあらためて強い疑念をいだいた。日本の敗北必至となったいま、政府や軍は何をしているのだろうか。戦争終結に努めなければ、この国はどこまでも荒廃してゆくばかりではないか。

 千鶴が言った。「できたら一緒にあの家の跡を見たいけど、時間はないかしら」

 たとえ焼け跡であろうと、あの書斎があった場所を見ておきたい。良太はあわただしく考えた。御茶ノ水で降りたなら、9時までにはあそこに着けるだろう。そこでしばらく過ごしても、上野駅の発車時刻に間にあうはずだ。

「いいことを考えてくれたな。時間があるから行ってみよう」と良太は言った。

 二人は御茶ノ水駅で電車をおりて、浅井家の屋敷跡に向かった。

 浅井家の大きな家は焼け落ちて、黒い柱だけが立っていた。書斎のあったあたりを見あげていると、書斎での千鶴とのことや、机の上のサザンカが思い出された。

 サザンカが葉を茂らせていた場所には、数本の焼けた幹がならんでいた。その姿に引きよせられるようにして、良太は庭をよこぎった。

 サザンカはすっかり焼けているように見えたが、根元のところに幾つかの芽がのびていた。

「なあ、千鶴。いつかまた、サザンカも芍薬もきれいに咲いてくれるんだ。戦争が終われば、家だって建てられるはずだよ」

 千鶴が良太の肩に頭をつけた。

「ここに家を建てて、良太さんと一緒に暮したいわね」

 良太は千鶴に腕をまわして、「生きて還ることができたなら、千鶴とここで暮らすことにするよ。あんな書斎のある家でな」と言った。

 良太はあらためて屋敷の跡を眺めた。不意に悔しさがこみあげてきた。とうに終えるべき戦争を終えていたなら、この場所で千鶴との家庭を築けたものを。その千鶴に永遠の別れを告げて、俺は特攻隊で出撃しようとしている。

急いで上野駅に向かわねばならなかった。良太は千鶴をうながして屋敷跡を離れた。

 道の曲がり角にさしかかったとき、良太は歩いてきた道をふり返ってみた。良太を見送りながら、千鶴が手をふっていた場所には、焼け焦げた木の幹だけが残っていた。上野駅へむかう道のあたりはすっかり焼けて、焼け野原がつづく景色は遠くまで見通せた。

 駅につくと、良太は自分の切符とともに、千鶴のための切符を買った。三軒茶屋へ帰るための切符であった。改札を通ったふたりは常磐線のプラットホームへ向かった。

 プラットホームで語り合ううちに、列車の発車時刻が近づいた。良太は千鶴の横によりそって、華奢な体に腕をまわした。

「千鶴、達者でな。お母さんたちに伝えてくれ、俺がこれまでのことに感謝して、お礼を言っていたとな」

 千鶴の表情が変わった。「わかったわ、良太さん………」

「ありがとうな、千鶴。千鶴が居てくれてよかった」

 千鶴が良太に向きなおり、眼をいっぱいに開いて言った。「私もよ、私は良太さんが居てくださるから幸せなの」

 良太は笑顔を作り、「俺は千鶴の笑っている顔が好きだけどな」と言った。

「ごめんなさい、うっかりしてて」千鶴が笑顔をこしらえた。「良太さんに何度も言われてるのに」

良太はこわばったその笑顔にむかって、「やっぱり、笑っている千鶴がいいよ。それじゃ、行くからな」と言った。

 千鶴が笑顔を消して、良太を見すえながら言った。「良太さん、また会えるわね」

「しばらく会えないようだったら、手紙を書くよ」と良太は言った。「必ず書くからな」

「私はだいじょうぶだから」千鶴の眼がただならぬ光をおびた。「良太さんも…がんばってね…私はだいじょうぶだから」

 良太は千鶴の眼差しに応えて言った。「それじゃ、千鶴。達者でな」

 良太は発車まぎわの列車にうしろ向きになって乗りこんだ。千鶴が手をあげた。良太は帽子をとった。

 良太は左手でデッキの握り棒をつかみ、右手に持った帽子をあげた。千鶴が良太を見つめたままに頭をさげた。良太は大きくうなづいて応えた。列車が動きはじめた。千鶴が列車を追ってかけてくる。良太は心のなかで千鶴に伝えた。「ありがとう、千鶴。これでお別れだ。どうか達者で暮らしてくれ。幸せな人生を送ってくれ」

 はなれてゆく千鶴がまだ手をあげている。良太はデッキから身を乗り出すようにして帽子を振った。遠ざかる千鶴の姿が人ごみの中にまぎれてゆく。

 千鶴の姿は見えなくなったが、千鶴からは振られる帽子が見えるはずだった。良太は腕をのばしてなおも帽子を振りつづけたが、駅が見えなくなったので列車のドアを閉めることにした。

 良太が振っている帽子が見えなくなっても、千鶴はプラットホームに立ちつくして、遠ざかってゆく列車を見送った。

 良太を乗せた列車が見えなくなった。千鶴は思った。もしかすると、良太さんとはもう会えないかも知れない。先ほどの別れの言葉も尋常ではなかった。使い切っていない日記帳をくださったし、良太さんが読んでくださった言葉は遺言としか思えなかった。特攻隊で出てゆかれるのではないかと不安になったけれども、それを問いただすことなど、恐ろしくてできなかった。

 千鶴は恐ろしい想像から逃げ出すようにして、プラットホームを後にした。気がつくと改札口の前だった。

 千鶴のモンペのポケットには、良太から渡された切符があった。その切符には、良太といっしょに改札口を通ったときにハサミが入れられていた。千鶴は思った。この切符は使わないでとっておきたい。忘れ物をしたことにして改札口を出させてもらい、そのまま本郷を通ってお茶の水駅まで歩こう。良太さんと歩いて来た道を後戻りすれば、良太さんが無事に還ってくださるような気がする。

 千鶴は良太と歩いた道を逆にたどった。焼け跡がひろがる光景を見ながら歩いていると、先ほどからの不安がさらに強まった。数日前に読んだ新聞記事が思い出された。近ごろは沖縄に向かってたくさんの特攻隊が出ている。もしかすると、良太さんは沖縄へ行かれるかも知れない。昨日も今日も良太さんの笑顔は明るかったが、ときおりとても寂しそうな表情を見せられた。プラットホームで良太さんが口にされたのは、やはり別れの言葉だったのではないか。そう思うことすら恐ろしくて、私のことは心配しないでと繰り返すことしかできなかった。

 千鶴が繰り返したその言葉は、それと意識しないまま口にした永訣の言葉だったが、千鶴はまだ、そのことに気づいていなかった。

つのる不安を胸に千鶴は坂道をのぼった。通いなれた道であったが、家々の多くが焼けおちており、あたりの眺めに以前の面影はなかった。

 生まれ育った家の焼け跡に立ち、焦げた柱をながめていると、不安と孤独感が胸にせまった。千鶴は声をころして泣いた。千鶴は泣きながら思った、あきらめてはいけない。あきらめないで良太さんのお帰りを待とう。私は良太さんのお帰りを待っていなければならない。

 畑の跡にしゃがんでみると、焼けた麦の根元に芽がのびていた。千鶴は土に両手をついて、小さなその芽に顔を近づけた。焼かれたはずの麦ですら、このようにして生きぬこうとしている。今になって芽を出したところで、麦として実ることはないだろう。たとえそうであろうと、この麦はせいいっぱいに生きようとしている。

 千鶴はサザンカに近づき、良太が見つけた緑色の芽を見つめた。このサザンカが花をつけるのはいつのことだろう。そのころ私はどのようにして生きているのだろうか。もしも良太さんが戦死されるようなことになったら、私は二度と幸せになどなれないはず。幸せになれと書いてくださったのだから、どのようにしてでも還ってきて。

 千鶴は家の焼け跡をでて御茶ノ水駅に向かった。電車を乗り継いで三軒茶屋に着いたとき、時刻はすでに正午をまわっていた。どこで一夜を過ごしたのかと母親に聞かれて、良太といっしょに過ごしていたことを隠さずに話した。

 母親は驚きながらも、千鶴を責めることはなかった。千鶴は思った。もしも良太さんが特攻隊員とわかっても、お母さんは許してくださるに違いない。そうは思いながらも、良太が特攻隊員であることは口に出せなかった。そのことを口にしようものなら、良太がほんとうに特攻隊で出撃してしまいそうな気がした。

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