第34話 共に過ごす最後の一夜
良太は予定よりも早く吉祥寺駅に着いたが、改札口には千鶴と忠之の姿があった。
「士官になって何ヵ月も経っているのに、外泊許可は今日が初めてだな」
「おかげで今日はゆっくりできるんだが、お前は工場を休めるのか」
「今日は休める。今月に入って一度も休んでいないからな」
「それはよかった。お前とも久しぶりにゆっくり話せるな」
「残念だけど、俺は夕方から工場に行かなければならないんだよ。そういう仕事もあるんでな」と忠之が言った。「今夜は夜勤で帰れないけど、遠慮しないで泊まってくれないかな、うまいものを食わせてもらえるはずだから」
良太は期待した。今夜は千鶴と過ごせそうだ。千鶴に顔をむけると、千鶴は無言のままにほほ笑みを返した。
「それで、お前はいつ帰るんだ、下宿には」
「明日の朝だ。7時頃には帰れると思う」と忠之が言った。
忠之の下宿につくと、まもなくお茶が運ばれた。
「楽しみにしてろよ」と忠之が言った。「うまい昼飯がでるからな」
忠之が予告していたように、早めに出された昼食は時勢を思えば豪華であった。
午後のひとときを、3人は畑道での散策に過ごした。畑のかなたに雑木林が見え、遠くには大きな樹木の森が見られた。家々の庭では木々が葉をひろげて、季節の色に輝いていた。談笑しながら歩いていると、鎌倉を訪ねた日が思い出された。ともすれば感傷的になりがちな気持を、良太は意識して抑えた。
4時を過ぎた頃、忠之は夜勤のために出かけて行った。
忠之にすすめられるまま、良太は忠之の下宿に泊まることにした。千鶴と一夜を共にするからには、そのことを千鶴の家族に知らせなければならない。そのための電報をうつために、良太は千鶴とつれだって郵便局に向かった。
郵便局からの帰りは大きく回り道をして、せまい畑道をそぞろ歩いた。春の日が暮れようとしており、数羽の鳥がかなたの森をめざしていた。
「あした帰る心配するな、という電報を見て、お母さんはずいぶん心配するだろうな。千鶴がどこで何をしているのか判らないんだからな」と良太は言った。
「大丈夫、お母さんにはじょうずに話すから」
良太は千鶴の横顔を見た。夕日に照らされた横顔を見ていると、千鶴が良太に笑顔をむけた。くったくのないその笑顔を見て、一瞬、良太は悲しくなった。明日になれば俺たちは別れる。それから先の俺たちは二度と会うことがないのに、千鶴はそのことを知らずにほほ笑んでいる。千鶴は今夜のことを、母親にはどのように報告するつもりだろうか。俺が特攻隊員だということを、あの母親はまだ知らないらしい。出撃を前にして俺は千鶴と一夜を共にしようとしている。千鶴が特攻隊員である俺と結ばれたことを知って、あの母親はどんな気持ちになることだろう。千鶴のために祝福してくれるだろうか。
「ほんとに大丈夫よ。お母さん、きっとわかってくださるから」と千鶴が言った。
良太は千鶴の言葉を耳にして、あの母親は千鶴の気持ちを理解してくれるに違いない、と思った。そうであってほしいと強く願った。
「そうだな、千鶴のお母さんだからな」と良太は言った。
忠之の下宿に帰ってみると、部屋にはすでに二人分の夕食が運ばれていた。
昼食よりもさらに豪華な夕食を終えてから、良太と千鶴はすすめられるままに風呂に入った。予想外の成り行きで泊まることになったばかりか、入浴することができた。良太は忠之の取り計らいに深く感謝した。
良太はその一夜を、千鶴とともにその離れ部屋で過ごした。千鶴が限りなく愛おしかった。愛おしい千鶴は良太の腕の中だった。
鶏の声が聞こえる。
誰かが顔に触れている。眼の前に千鶴の顔がある。前夜のことが思いだされた。千鶴が笑顔になった。良太は千鶴の体に腕をまわした。千鶴は裸だ。ふたりとも裸のままで眠っていたのだ。
良太は千鶴にキスをした。良太は千鶴の舌をもとめた。千鶴が応える。良太はキスをしながら千鶴に身をかさねた。
千鶴が眼をあけた。良太を見つめて千鶴が穏やかにほほ笑む。良太はやさしく千鶴にキスをした。千鶴は口を少しあけたまま、唇をなぞられるままにしている。
良太は千鶴の乳首を口に含んだ。乳首がもりあがる。千鶴の腕が巻きついてくる。良太は母に甘える子供のように、乳首に舌をからめた。千鶴の腕に力がはいり、良太をしっかり抱きしめた。抱きしめられたまま、良太は千鶴の匂いを胸いっぱいに吸いこんだ。
窓の外が明るくなっている。良太が起き上がると、千鶴もふとんの上に身をおこした。裸の千鶴を抱きよせると、いとおしさと共に感謝の気持がわいてきた。
「ありがとうな、千鶴」と良太は言った。
「ありがとう、良太さん」と千鶴が応えた。
千鶴は一夜をともにした俺に感謝してくれている。笑顔の千鶴はとても幸せそうだ。俺がまもなく出撃すると知ったら、千鶴はどうするだろう。千鶴がふびんに思われたとたんに涙がにじんだ。良太はひそかに涙をぬぐい、服を着るために立ちあがった。
忠之から借りたふとんをかたづけてから、窓を開けて空気をいれかえた。夜はすっかり明けていた。
洗面などをおえてから、良太は風呂敷を開いてノートを出した。
「千鶴、これを持っていてくれ」
ノートを受けとった千鶴が怪訝な表情を浮かべた。「この日記帳はまだ新しいわね」
「千鶴への手紙みたいなものだけど、最近は忙しいし、その日記帳に書くべきことは書いたから、これからは、ほんとの手紙だけにするよ」
「もしかしたら、ここにも遺書が書いてあるのかしら」
「もしも俺が戦死するようなことになったら、そこに書いたことはみんな遺書ということになるだろうな」
千鶴が良太を見つめて言った。「今ここで読んでもいいかしら」
良太は一瞬ためらってから答えた。「いいよ……読むんなら、最後に書いたところがいいな。俺に万一のことがあった場合を思って、昨日の夜に書いたものだ」
ノートに眼をおとしていた千鶴が、いくらも読まないうちに顔をあげた。
「お願い、良太さん、これを読んでちょうだい」千鶴の声がふるえた。「万一のことがあったときに読むくらいなら、いまの内に良太さんの声で聞いておきたいの」
良太は千鶴からノートを受けとった。千鶴のためにこれを読まなければならない。千鶴がそれを願っているのだ。
前日の夜に記したその文章を、良太は声にして読んだ。
「運命の糸に手繰られるまま浅井家に至り、爾来二年余にわたって厚情を受けたこと、深甚なる感謝あるのみ。………」
声のふるえを抑えるために、良太は声を強めた。「………千鶴はいかなる道を歩むことであろうか。良太を伴ったままに新しき道を歩むことは困難であろう。千鶴は身軽にならなければならない。千鶴は身軽になって新しき道を歩まねばならない。千鶴よ幸せな人生を歩めよ」
良太は大きな声で読みおえた。ノートを手にしたまま顔をあげると、良太を見つめている千鶴の頬には涙があった。良太は不安におそわれた。千鶴に覚られたのではないか、ノートに記したこの言葉が、出撃を目前にしている俺からの決別の言葉だと。
良太は腕をのばして千鶴を抱きよせた。千鶴を抱いていると涙が滲みでた。千鶴を抱いたまま、良太は片手で涙をふいた。
部屋の外から声がして、朝食の用意ができたことを伝えた。
良太は千鶴とともに母屋へ行って、三つの膳とお茶を受け取り、忠之の部屋へ運んだ。
千鶴から笑顔が消えていた。千鶴の不安を抑えるために、良太は意識して明るくふるまい、快活な口調で語りかけるよう努めた。
千鶴の表情がどうにか和らいだころ、夜勤あけの忠之が帰ってきた。
3人は慌ただしく食事をとり、7時半には部屋を出て、朝の畑道を吉祥寺駅に向かった。
良太はいつしか早口となり、言葉の数も増えていた。良太は千鶴のなにげない言葉に愛おしさを覚え、千鶴を抱きしめたくなった。忠之の言葉が貴重なものに思えて、抱きついて感謝の言葉を伝えたくなった。駅が見えてきたとき、良太はその思いを声にした。
「ありがとうな」
「どうした、良太」
「なんとなく、お礼を言いたくなったんだよ、お前たちに」と良太は言った。
忠之とは改札口で別れることにしていた。千鶴を先に改札を通らせてから、良太は忠之の手をにぎった。
「お前のおかげで、いい外出日になった。ありがとうな、忠之。できれば岡先生にも会ってお礼を言いたいんだが」
忠之が眼におびえを見せた。「親父に伝えるよ、お前が言ったこと」
「おれに万一のことがあったら、千鶴の相談に乗ってやってくれないか。洋子や修次のことも頼むな」
「わかった。わかったよ、良太」と応えた忠之の眼に涙がにじんだ。
良太は忠之の肩に手をおいた。「出雲に帰ったら皆に伝えてくれ、俺がいつも楽しそうにしていたことを」
「わかった、ちゃんと伝える。お前が千鶴さんと一緒にここに来てくれたこともな」忠之の声がふるえた。「お前がここで嬉しそうにしていたこともな」
「それじゃ、忠之。あとは頼むぞ」と言いおいて、良太は改札口を通った。
これで二度と忠之とは会えなくなった。そう思ったとたんに、忠之の前では抑えていた涙がにじみ出てきた。忠之には俺の分まで生きてもらいたい。千鶴のためにも洋子や修次のためにも、忠之には長生きをしてもらいたい。
階段のところでふり返ると、忠之が手をあげながら「りょうたー」と叫んだ。良太は忠之に向きなおり、帽子をかかげて永遠の別れをつげた。
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