第33話 婚約者に遺す遺書

 その翌朝、千鶴は勤労奉仕に出かける前の時間をさいて、前日のできごとを日記に記すことにした。

 千鶴が母や千恵と寝泊りしている部屋には電気スタンドが無かった。灯火管制用の蔽いがついた電灯の下では、日記は箇条書きのように短いものとなった。良太と結ばれた前日も、母や千恵のかたわらで書いた文章は数行だけだった。

 千鶴は前夜に記した文章を読みかえした。

〈今日は私にとって一番嬉しい記念日になった。谷田部では良太さんの妻と偽って面会したのだけれど、今日は本当に良太さんの妻になることができた。良太さんもそう思ってくださるにちがいない。〉

 良太が特攻隊員だと知って以来、千鶴はひたすらに良太と結ばれたいと願った。忠之の下宿で良太とふたりきりになれた機会に、千鶴は必死になって呼びかけた。

 千鶴は思った。この私にも、あんなことができたのだ。日記を読んだのかと聞かれて、谷田部から帰った日に読んで、とても悲しかったことが思い出された。良太さんが戦死するようなことになったなら、私は良太さんから離れた人生を、心を新たにして歩むようにと書いてあった。私が結婚するのは良太さんしかいないのに、どうしてあんなことを書かれたのだろうか。泣きだした私を見て、良太さんは私の気持をわかってくださったみたいだ。わかってもらえてほんとうに嬉しい。私の願いを良太さんはわかってくださった。

 ふいに千鶴は悲しくなった。良太さんは特攻隊だ。特攻隊員でも出撃するとは限らないと聞かされたけど、本当のところはどうであろうか。良太さんには、何としてでも無事に還ってもらいたい。良太さんといっしょに人生を送りたい。

 千鶴はペンをとり、前夜に記した文章の続きを書いた。

〈岡さんの下宿を出たとき、明るい所で良太さんに見られることがはずかしかったけれど、嬉しそうな良太さんを見ると、幸せな気持だけになった。私たちのこの幸せが続くように、良太さんには生きて還ってもらいたい。良太さんが特攻隊に出なくてすむように、神様どうかお守りください。〉

 ノートを閉じて時計を見ると、勤労奉仕に出発すべき時刻を過ぎていた。千鶴は急いでノートをリュックサックにおさめ、あわただしく部屋をでた。


 谷田部航空隊の特攻隊要員十数名に対して、九州へ進発すべく命令がくだった。

 谷田部で編成された特攻隊の第一陣は、特別攻撃隊第一昭和隊と名づけられ、4月7日に谷田部を発って、海軍特攻隊の出撃基地のひとつである、鹿児島県の鹿屋基地に向った。その特攻隊第一昭和隊には、第十四期飛行科予備学生出身の少尉が8名加わっていた。良太が訓練をともにしてきた仲間たちだった。離陸してゆく仲間たちを見送りながら、良太は自分自身が進発するときの情景を想った。

 航空隊は緊迫の度を強めていたが、良太は4月に入って2度目の外出許可を得た。良太は千鶴と忠之に電報で報せた。

 その日、良太が吉祥寺駅に着くと、千鶴と忠之は改札口で待っていた。

 つれだって歩き出すなり忠之が言った。

「千鶴さんにはさっき話したけど、俺はこのまま工場へ行かなくちゃならん。そんなわけでわるいけど、下宿にはふたりで行ってくれないか。話しはつけてあるから、昼飯などもこの前と同じようにしてくれるはずだ」

「世話をかけるな、お前にもお前の下宿にも」

「遠慮なんかする必要はないぞ、下宿にも」と忠之が言った。「あの書斎の代わりだと思えばいいんだよ」

下宿への道をしばらく一緒に歩いてから、忠之は出勤するために別れて行った。

 良太と千鶴は畑の道を楽しみながら、遠くに見えている忠之の部屋を目指した。良太が千鶴に顔をむけると、千鶴は笑顔をもって応えた。その笑顔に千鶴の期待を読んで、良太は胸を躍らせながら足を速めた。千鶴の足取りも軽やかだった。

忠之の下宿では、前回と同じようにことが運んだ。良太は特攻隊のことをしばし忘れて、千鶴とともに喜びの時を過ごした。

 千鶴を伴って部屋を出たとき、時刻は3時に近かった。駅に向かう道すがら、千鶴から笑顔が消えることはなかったけれど、良太はすでに現実にとらわれていた。千鶴の笑顔は嬉しかったが、良太はうわべの笑顔でそれに応えた。


 良太が出した手紙に対して、家族や恩師からの返事がとどきはじめた。良太の身に迫ったただならぬ事態を察したらしく、父親からの手紙には強い懸念がにじみでていた。

 良太はその返事に対してさらなる返事を書いた。先の手紙に記したごとく、殉国の志に燃える自分達によってのみ、この日本を救うことが可能である。そのような自分たちは、自らの役割に誇りを抱き、それを大きな名誉と考えている。そのように記しながらも、自分が特攻要員であることを、家族にはまだ知らせたくなかった。

 時間があれば良太はノートを開き、思うところを文字につづった。千鶴のためのノートに向かっていると、忠之の下宿でのことが思いだされた。俺の腕のなかで、千鶴はしっかり抱きついてきた。あの千鶴は俺がいなくなったら、どのようにして生きてゆくことだろう。

 良太は夢想した、戦争が無ければあったはずの、千鶴と共にある幸せな未来を。千鶴と築けたであろう家庭を想った。千鶴を出雲につれてゆき、いっしょに斐伊川の堤防を歩いてみたい。今の時点で戦争が終われば、それも夢ではなくなるのだが。


 若葉の季節がおとずれてまもなく、鹿屋へ進発すべく良太に命令がくだった。すでに多くの仲間を見送っており、心の準備もおえていた良太は、来るべきものが来たという心境でそれを受けとめた。

 出撃直前に与えられる一泊だけの外泊許可は、千鶴や忠之と会うことができる最後の機会であった。良太は千鶴と忠之それぞれに電報をうち、吉祥寺駅に着く予想時刻と、外泊許可を得ていることを知らせた。

 良太は身のまわりの品を整理した。遺品の多くは出雲へ送ることにして、出雲から持参していたトランクにつめこんだ。千鶴と忠之には三鷹でノートを渡すつもりだったが、考えなおしてノートはすべて鹿屋まで持って行くことにした。鹿屋で幾日かを過ごすとなれば、その地でも言葉を記したくなるにちがいなかった。

 文庫本や島崎藤村の詩集が浅井家の書斎を思い出させた。それらは全て千鶴に残すことにした。

 良太は藤村詩集の47ページを開いて、余白に千鶴が記してくれた言葉を読んだ。

〈良太さんお誕生日おめでとうございます。私は書斎の机の上に花を飾ってお祝いをしています。飾ってあるお花は沈丁花です。………〉

 十日ほど前の誕生日にそれを読んだとき、良太は滲みでようとする涙をけんめいに抑えたのだが、出撃を目前にしたいま、読みなおしても涙はでなかった。

 良太は62ページをひらいた。

〈今日は千鶴の誕生日です。私は良太さんが与謝野晶子の歌集に書いてくださった言葉を読んでいます。机の上には芍薬があります。………〉

 千鶴の誕生日はひと月半ほど先だった。良太は千鶴の悲しみを想った。千鶴は今度の誕生日をどんな気持ちで迎えることだろう。

いきなり涙があふれ出てきた。良太はそばに置いてある布袋の上に身をかがめ、物を探しているふりをしながら涙をふいた。

 良太は家族と親戚に別れを告げる手紙を書いた。家族の悲しみを可能な限り癒したいがために書く手紙であったが、計り知れないほどの悲しみと衝撃を与えることになる手紙でもあった。それを読む家族の心情を想いつつ、良太は滞りがちなペンを進めた。

 良太は忠之の父親と浅井家の人々にも手紙を書いた。恩情を謝す礼状であり、別れを告げる手紙であった。

それぞれの手紙に書くことがらは、あらかじめ考えておいたのだったが、全てを書き終えるにはかなりの時間を要した。それらの手紙は翌日の外出時に投函することにした。

 良太は千鶴のためのノートを開き、しばらく考えてからペンをおろした。

〈運命の糸に手繰られるまま浅井家に至り、爾来二年余にわたって厚情を受けたこと、深甚なる感謝あるのみ。故郷を遠く離れた東京の地で得た幸運をつくづく思う。

 懐かしきかな書斎での思い出。千鶴と語りし言の葉の数々。千鶴と味わいしあのパイナップル。様々な佳きこと、様々な思い出、それらが千鶴と共にあることを嬉しく思う。千鶴と出会えたことこそ我が人生最大の喜びであった。

 これまで千鶴の人生二十年、その中に喜の時を共有し得たことを俺は嬉しく思う。しかしながら千鶴の人生は長きに渉るもの。我等が共有した時間は僅かなものに過ぎない。

 これから先の数十年、この国が変わって行く中で千鶴を様々な運命が待っているはず。新しき世の中で千鶴は新しき道を歩まねばならない。千鶴はいかなる道を歩むことであろうか。良太を伴ったままに新しき道を歩むことは困難であろう。千鶴は身軽にならなければならない。千鶴は身軽になって新しき道を歩まねばならない。千鶴よ幸せな人生を歩めよ。〉

 ペンを置くと、千鶴のために記す言葉は何も残っていないような気がした。

 明日は千鶴に会えるのだ。このノートは三鷹で千鶴にわたそう。郵送されたものを受けとるよりも、俺から受けとるほうが千鶴には嬉しいはずだ。俺もそうしたい。鹿屋で言葉を書き遺したければ、千鶴には手紙を書くことにしよう。

良太は千鶴に渡すノートを風呂敷に包んだ。

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