第6章 若葉の季節

第32話 わかったよ千鶴、結婚しよう

4月1日、米軍による沖縄上陸作戦が始まり、日本の一角が地上戦の場となった。その日、第十四期予備学生出身の特攻隊要員は、学生教程を修了することになった。良太は思った。どうやら、俺は特攻隊員として沖縄へ出撃することになりそうだ。出撃命令が下されるのも、そう遠くはないという気がする。

 それから間もなく良太は外出許可を得た。

 その日、良太は吉祥寺駅で電車をおりた。前日の電報で到着予想時刻を知らせておいたので、改札口には千鶴と忠之の姿があった。

 3人は駅から20分ほどの道のりを忠之の下宿に向かった。

「ここは三鷹というところだが、東京の一角とは思えない景色だろうが」

「いい所じゃないか、空襲を受ける心配もなさそうだし」

「俺の下宿は安全だが、工場はいずれやられるだろう。間に合わせの工場だけど」

「三軒茶屋という所にも畑があるそうだけど、こんな雰囲気のところか」

「家のすぐ近くにも畑があるの。私も千恵と一緒に農業奉仕をしてるのよ」と千鶴が言った。

 忠之の下宿は畑にかこまれていた。忠之に案内されて良太と千鶴は母屋をたずね、老夫婦とその息子の嫁に挨拶をした。その家では、小さな子供ふたりを含めた五人がくらしており、夫婦の息子は出征中とのことだった。

 庭のはずれに建てられた離れ座敷が、忠之がくらしている部屋だった。鶏が遊んでいる庭をよこぎり、3人は忠之の部屋へ向かった。

 隠居部屋だったというその部屋は、簡素ながらもよくできていた。部屋には小さな食卓があり、数冊の専門書と忠之自製の電気スタンドが置かれていた。

「会社の仲間がここを紹介してくれたんだ。ここには食い物があるし、歩いて工場に通えるから助かるよ。何しろ忙しくてな」

「今日は午前中しか休みがとれないというけど、ここには何時頃までいられるんだ」

「わるいけど、もうすぐ出かけなくちゃならん。俺がいなくても遠慮することはないぞ。お前らの食事はここに運んでもらうことになってるけど、手伝ってあげてくれないか」

「世話をかけることになったな。それで、お前がここに帰ってくるのは何時頃だ」

「今夜も遅くなると思うから、お前と話すのはこれで終わりだ」

「そうか………それは残念だけど、お前のお陰で今日はいい外出日になったよ」

「この部屋をあの書斎の代わりに使ってくれ。ここがお前と千鶴さんのために役立ってくれたら、俺も嬉しいよ」

まもなく忠之は出勤し、良太と千鶴のふたりだけになった。

「田舎道を歩けるせっかくの機会だから、そのあたりを歩いてみないか」と良太は言った。

「私は………ここで良太さんと話していたいけど」

「いいじゃないか、景色を見ながら話し合うのも」

「お願い、良太さん。書斎のときと同じにして」

 千鶴の口調はいつもと変わらず穏やかであったが、その声には力があった。

「わかった、ここで話そう」と良太は言った。

 壁を背にして千鶴の横に腰をおろすと、待ちかねていたように千鶴がもたれかかった。すぐにも千鶴の期待に応えたかった。良太は千鶴を抱きよせた。

キスがおわると、良太は千鶴の首筋に唇をうつした。千鶴の匂いは書斎のときと変わらなかったが、畳の上で抱く千鶴の上半身は軽かった。

「結婚して、良太さん」と千鶴が言った。

 それまでに幾度も聞かされていた千鶴の言葉だったが、良太はその時その声を、はじめて耳にしたかのような気持ちで聞いた。良太は千鶴の顔をのぞいた。眼を閉じている千鶴を見ながら、この千鶴と結婚できたらどんなにか良かっただろうにと思った。

「お願い、良太さん、結婚して」千鶴が眼を閉じたままくり返した。

「好きだよ、千鶴。千鶴がいてくれて良かった」

「良太さんお願い、結婚してちょうだい」

 良太は千鶴を抱きしめた。俺たちは結婚などできるわけがないのだ。俺が死んでも、お前はしっかりと生きてゆかなければならない。それを願って渡したあのノートだが、お前は読んでくれただろうか。谷田部に来てくれたとき、読むようにとすすめたのだが。

「千鶴、あの日記を読んでくれたか」と良太は言った。

 千鶴が眼をあけた。その眼にいきなり涙がもりあがり、あふれて頬に流れた。良太はうろたえた。俺はあのとき、特攻要員としての俺を理解してもらいたいと思って、不安を覚つつも日記を読むようすすめたのだが、やはり読ませるべきではなかった。

「ごめんな、千鶴、約束通りに幸せにしてやれなくて」と良太は言った。

「幸せにして………幸せにしてちょうだい」

 良太ははっとした。いまの俺にもできるのか、千鶴を幸せにしてやることが。千鶴は俺にそれを求めている。

「わかったよ、千鶴、結婚しよう」と良太は言った。

 その言葉を口にしたとき、良太を縛っていたものがほどけていった。良太は千鶴と結婚したいと思った。俺は千鶴のためを思って自分を抑えてきたが、特攻要員の俺に対して千鶴が心からそれを願っているのだ。千鶴のその願いに応えるべきだ。

 良太は千鶴をあおむけにした。千鶴は眼を閉じている。良太は千鶴にキスをした。

 ふん切りがつかないままに軽いキスを続けていると、建物の外からいきなり声が聞こえた。「海軍さん」

 千鶴から顔をはなすと、ふたたび外で声がした。

「お食事の用意ができましたが、どうされますか。すぐにお持ちしましょうかね」

 良太は大きな声で、「お世話になりますが、お願いします」と応えた。「千鶴、食事を運ぶのを手伝おう」

 千鶴といっしょに母屋へ行くと、布で覆われたふたつの膳が、縁側の板のうえに並んでいた。

 若いその家の嫁が鍋を持ってあらわれた。

「お世話になります。向こうへ運ぶのは我々でやりますから」

「そうですか。それでは、お願いしますね。すぐにお茶を持ってきますから」

 膳を忠之の部屋に運んでから、もういちど縁側までもどると、味噌汁の鍋にならべて薬缶や急須などが置かれていた。

 良太と千鶴は久しぶりに白米の飯を味わった。豊富な野菜や豆の料理が、良太に故郷の家の食卓を思いださせた。大きな卵焼きが千鶴を感激させた。忠之が特別に依頼したに違いないその料理を、良太と千鶴は感謝しつつ口にはこんだ。

 お茶をいれている千鶴の幸せそうな笑顔を見ると、特攻隊に志願したことを悔いる気持が、心の隅を一瞬ながらよぎった。

「もうすぐ良太さんの誕生日よね」と千鶴が言った。「良かったわ、造花と与謝野晶子の歌集をリュックに入れておいて。誕生日の沈丁花は造花になったけど」

 千鶴が布袋から厚紙でできた箱をとりだし、畳のうえでふたを開いた。箱の中には沈丁花と芍薬の造花があった。

 千鶴が抱いて寝たという造花には、匂らしいものが微かに残っているだけであったが、良太には嬉しい贈り物だった。

 良太の帽子を手にした千鶴が、「この沈丁花、いただけないかしら」と言った。

 良太は帽子の中から造花をはずし、千鶴にわたした。

「これもリュックに入れとくわ。書斎にあったもので残ったのは、リュックに入れといたものだけなの。良太さんからのはがきや帳面といっしょに、歌集と造花も入れておいたのよ。書斎にあったもので他に残ったのは雛人形だけ」

「焼けてしまったんだな、あの書斎も、あの机と椅子も」

「書斎とちがってここは畳の部屋だけど、こうしていると畳の上もいいわね」

 身をよせてきた千鶴に腕をまわすと、すぐにも千鶴を抱きたくなった。その想いが良太をけしかけたが、良太にはまだ迷いがあった。たしかに千鶴はそれを望んでいるが、ほんとうに千鶴にとって好ましいことであろうか。俺は千鶴の人生に対して責任を負うことができないのだ。

 まだ12時前だから時間は充分にある。気持ちを落ち着けるには散歩が良さそうだ。今なら千鶴も賛成するような気がする。

「膳を運ぶついでに、その辺を散歩してみないか。時間はたっぷりあるんだから」

「お腹がいっぱいになったから、少しだけ歩いてみましょうか」と千鶴が応えた。

 ふたりは膳などを縁側まではこび、感謝の気持ちを言葉にして伝えた。その家の家人に見送られるようにして、ふたりは庭を横ぎり、満開の桜の下を通って道に出た。

 ふたりは畑の中の道を歩いた。歩きながら見まわすと、満開の桜がそこかしこに見えた。良太は咲き誇る桜を見ながら、自分は桜の季節に生まれ、桜の花とともに散ることになったのだと思った。

 千鶴と並んでそぞろ歩いていると、良太のなかに留まっていた想いが徐々に強まり、千鶴の横顔にしばしば眼を向けさせた。千鶴がそれを望んでいるのだ。その願に応えてやるべきではないか。さもなければ千鶴に悔が残るかも知れない。

 散歩からもどったふたりは、ふたたび隣りあって腰をおろした。良太は千鶴を抱きよせた。迷はすでにぬけだしていた。良太には千鶴を抱きたいという気持しかなかった。

 キスを続けていると千鶴から力がぬけた。良太は畳の上に千鶴をよこたえ、シャツのボタンに手をかけた。千鶴にとっては無論のこと、良太にもそれは初めての経験だった。

 千鶴を気づかいながら進めるうちに、どうやら無事にことがおわった。

 感謝の気持ちを抱きつつ、良太は千鶴にキスをした。良太と千鶴は抱きあったまま、穏やかに唇を触れあっていた。

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