第31話 妻が面会にきた?

 忠之が面会に訪れてから二日目に、良太は妻が面会に来ているとの報せを受けた。良太はその知らせを聞いて、誰かとの人違いだろうと思った。妻が面会に来たというのであれば、その相手が自分であろうはずがない。けれども次の瞬間、その面会者は千鶴かも知れないと思った。俺が特攻隊員だと知らされて、千鶴はどんな気持でいることだろう。千鶴は居ても立っても居られなくなり、妻と偽って面会に訪れたのではなかろうか。

 面会所に近づくにつれ、待っているのは千鶴に違いないという気がしてきた。良太の胸に不安がわいた。心の準備をまったくしていなかった。

 やはり千鶴だった。面会室のドアをあけると、椅子から立ちあがろうとしている千鶴の姿が見えた。

 千鶴は立ち上がるなり駆け寄ってきて、そのまま良太にしがみついてきた。良太は一瞬ためらってから千鶴を抱きしめた。たとえこのような行為をとがめられようと、それを甘んじて受けよう。今は千鶴の気持に応えなければならない。

「千鶴……よく来てくれたな」

「結婚して、良太さん」と千鶴が言った。

 千鶴の低い声には胸をつく響があった。良太は千鶴を抱く腕に力をこめた。

「お願い、良太さん。結婚して」

 千鶴は俺と結婚したがっている。俺が生還の望みを捨てた特攻隊員と知っていながら、それどころか、むしろそのことを知ったからこそ、千鶴は結婚したがっているのだ。

「わかったよ、千鶴……千鶴の気持ちはわかるけど、結婚は戦争が終わってからだ。俺は特攻要員に選ばれているけど、出撃するとはかぎらないんだ」

 千鶴が良太の胸から顔をはなすと、大きく見ひらいた眼をむけてきた。

「そうなんだ、必ずしも出撃するとはかぎらない。無事に生還できたら結婚しよう」

「友達は結婚したのよ。どうして、いますぐ結婚できないのかしら、私たち」

 口にすべき言葉が見つからないまま、良太はふたたび強く千鶴を抱きしめた。どうしたものだろう。千鶴に何を語るべきだろう。

 良太は途方にくれたまま、千鶴を椅子に腰かけさせた。良太は千鶴と向き合って腰をおろすと、伝えるべき言葉をさがした。

 千鶴にわたしておいた日記を読んでもらおう、と良太は思った。特攻要員だと知られたからには、あの日記を読まれてもかまわない。俺の気持ちをわかってもらうためには、むしろ読んでもらった方が良さそうだ。

「千鶴に渡したあの日記を読んでくれないか。とくに2月の末から後のところを読んでくれたら、俺の気持がわかるはずだ。日記帳の終わりのほうだ」と良太は言った。

 千鶴がいぶかしげな表情を見せ、「わかったわ、読ませてもらうわね、あの日記。帰ったらすぐに」と言った。

 良太には午後の課業があるため、それから間もなくふたりは面会室をでた。

「つぎの外出はいつかしら。これからも会えるわよね、私たち」

「忠之が三軒茶屋と三鷹の宛先を教えてくれたから、どちらにも電報で報せるよ。いつ頃になるかまだわからないけど」と良太は言った。

 面会所を出ると、衛兵が良太に敬礼をした。良太の返礼に合わせるかのように、千鶴が衛兵に向かって「ありがとうございました」と言った。

 衛兵が応えた。「お待ちになったかいがありましたね」

 衛兵が口にすべき言葉とは思えなかったが、その声が良太にはとても暖かいものに聴こえた。面会室のあの椅子で零戦の爆音を耳にしながら、千鶴はひたすらに俺を待っていたのだ。千鶴はあの爆音に何を思ったことだろう、特攻隊員の命がけの訓練を象徴しているようなあの爆音に。

「千鶴、ずいぶん苦労をかけたな」

「だいじょうぶ、良太さんに会えたんだもの」

 面会室での千鶴は思いつめたような表情を見せたが、ならんで歩いている今は、どうにか落ち着きを取りもどしていた。とはいえ、千鶴の横顔はいかにも悲しげに見えた。それどころか、千鶴は全身に悲しみをまとっているようにさえ見えた。かぎられた時間のなかで、良太は精いっぱいに努力して、千鶴の不安と悲しみを和らげようと努めたのだが、心の準備をしないままに会ったので、意をつくせないままに終わった。

 別れるべき場所が近づいた。妻と偽ってまで面会しようとした千鶴がいとおしく、そのまま何もしないで帰すにしのびなかったが、抱きよせることもできない場所だった。良太は体をよせて千鶴の手をにぎり、にぎりかえすその手の感触をたしかめた。

 千鶴と別れなければならない場所に着いた。良太はいたわりと別れの言葉をかけると背を向けて、千鶴の後ろ姿を見送ることなく士官舎にもどった。

 その夜、良太は日記をつけた。

〈午前の訓練終了後、妻が面会に来ているとの知らせあり。千鶴は俺が特攻要員と知り、妻と偽って面会に来た。それにしても、千鶴を俺の妻として面会を許可してくれたのは誰だろう。その人物に感謝したい。

 重い気持ちを抱えて千鶴と向き合っているとき、特攻隊のことを知らせたことを後悔する気持ちになったが、真実を知らせたことで、これからは特攻要員として千鶴と向きあえることになった。千鶴のためにも俺自身にとってもこれで良かったと思う。忠之のお陰と深く感謝す。〉

 良太は思った。特攻要員としての訓練を受けてはいても、かならずしも出撃するわけではないと告げたから、千鶴はその言葉にすがりついているはずだ。俺がほんとうに特攻隊で出撃することになるのか、俺自身にすらまだわからない。いまのところは、千鶴には一縷の希望を持たせておこう。そのような千鶴と向き合いながら、千鶴のために最善を尽くすよう努めなくてはならない。

 外出できる機会があれば、千鶴と忠之には吉祥寺駅で会うことになる。その近くにある忠之の下宿を、あの書斎の代わりに使うようにと忠之が勧めてくれたとのこと。その下宿は農家で、安全な地域にあるらしいが、千鶴や忠之とそこで会える日があるのだろうか。

 千鶴がこの日記を読むのは、俺が戦死してからになるはず。そのつもりで書きつづってきた日記だが、特攻隊のことを知られた以上、今のうちに読まれてもかまわないという気がする。むしろ、俺が生きているうちに読んでもらいたい文章もある。千鶴はいま頃、先に渡した日記を読んでいるのかも知れない。日記に記した言葉が将来においては千鶴を励ますことになるはずだが、今の時点ではむしろ千鶴を悲しませる可能性がある。もしかすると、あの日記はまだ読ませるべきではなかったのかも知れない。

 ペンを手にしたまま思案しているうちに、温習時間は終わろうとしていた。良太はノートを布袋に入れた。


 硫黄島がアメリカに占領されたことにより、空襲のさらなる激化が避けられない事態となった。米軍の沖縄への上陸も予想され、戦況は日本本土の防衛もおぼつかない状況に至った。

 良太には航空隊の雰囲気が変わったように感じられた。良太は予感した、俺たちが出撃する日は遠くないという気がする。

 良太は家族にあてた手紙を頻繁に出していたが、特攻要員であることは隠していた。両親がそのことを知ったなら、何をおいても面会にかけつけるに違いなかった。戦時下の苛酷な交通事情をおして面会にきてもらっても、限られたひとときを共にしたあとで、悲痛な別れを告げ合うことになる。そのような事態はさけたかったし、悲嘆にうち沈む家族の姿を想像しながら出撃の日を待つことは、想像するだにつらかった。

 突然の戦死の報が家族に与える衝撃の大きさを思えば、生還を半ば諦めさせておいた方が良さそうに思えた。良太は家族に手紙を書いて、自分たちの生還がもはや期しがたい戦況にあることを知らせた。その手紙は家族に強い不安を与えるに違いなかったけれども、絶望的な気持に追い込むことはないはずだった。

良太は家族にあてた遺書をしたためた。出撃命令を受けることになったなら、遺品となる品物と一緒に家族のもとに送るつもりだった。

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