第30話 千鶴に伝えてくれ俺が特攻隊要員だと
その夜、良太は布袋から2冊のノートをとりだした。千鶴と家族に遺すためのノートはいずれも2冊目だったが、忠之に書き遺すためのノートは、特攻要員に指名されてから用意したものだった。
忠之の表情と声が思い出された。忠之は俺が特攻要員と知ってろうばいし、不安をあらわにして実情を知ろうとした。家族や千鶴が俺の境遇を知ったら、どのような思いを抱き、どんな行動に出ることだろう。俺が特攻隊員として戦死したなら、遺された者たちは悲しみの淵でもがき続けるにちがいない。その悲しみを少しでも癒すための日記だが、訓練が終わると気がゆるみ、安易な言葉をつづることが多くなっている。特攻要員に指名されてから既に十日が過ぎた。来月中には2カ月の訓練期間が終わる。そうなればいつ出撃することになるか予断をゆるさない。うかうかしてはいられないのだ。良太は強い焦燥感におそわれた。
家族や千鶴が俺の境遇を知ったなら、死の恐怖におびえている俺を想像するにちがいない。俺はたしかに死を恐れているが、その恐怖心は想っていたほどには強くない。霊魂の実在を知っているからであろうか。それとも、俺は早々に諦めの境地に達したのだろうか。いずれにしても、このノートの中での俺は、苦悩することなく出撃しなければならない。このノートを読んだ者たちには、そのように受け取ってもらわねばならぬ。俺は日本の尊厳をかけて、そして自分の任務に誇りをもって、堂々と出撃しなければならない。このノートを通してそれが伝わるようにしなければならない。
日本の敗北で戦争が終わって、特攻隊員の戦死が無駄死だったとされたなら、残された家族たちには救いがないことになる。そのようなことにしてはならない。特攻隊員の戦死が無駄なものであろうはずがない。そのことをノートの中に明確に記して、遺された者たちの悲しみを和らげなくてはならない。
温習時間は間もなく終わろうとしていた。その夜は忠之に遺すノートに記すことにして、まだ新しいその紙面にペンをおろした。短い文章を記しただけで時間切れになったが、先ほど覚えた焦燥感は消えていた。いずれのノートにも、適切な言葉を遺すことができそうに思えた。
千鶴は日記をつけ終えると、書棚から芍薬と沈丁花の造花をとりだした。匂いをつけた造花を良太にわたす約束をしたので、空襲があろうと失ってはならない品物だった。千鶴は数本の造花をえらび、日記帳とともにリュックサックに入れた。
机のうえの水仙が、良太の振る舞いを思いおこさせた。良太は花瓶を引きよせると、手ざわりを確かめるかのように花瓶をなでていた。良太は会話の合間に書棚に近づいて、つぎつぎに書物を抜きだしては表紙をながめ、開くことなく棚にもどした。居間に移ろうとしたとき、良太はドアのところでふり返り、しばらく書斎を見まわしていた。
ふいに千鶴は不安になった。口付をしたあとの良太さんは、たしかにいつもと違っていた。あのとき、良太さんはやはり泣いていたような気がする。もういちど口付をしてもらい、どうにか安心できたけれども、きょうの良太さんには、どこかしらいつもと違うところがあった。良太さんたちが2階からおりてこられたとき、岡さんの様子が少しおかしかった。良太さんを駅で見送ったあと、岡さんはすっかり元気をなくされた。家に帰る途中で、岡さんは仕事のことで珍しくぐちをこぼされたが、元気をなくされたのは仕事のせいではなくて、良太さんのことが原因だったのではなかろうか。
千鶴は強い不安にせかされるまま、良太のノートをとりだした。このノートを見れば、きょうの良太さんがいつもと違っていた理由がわかるかもしれない。
千鶴は表紙に書かれた〈千鶴へ〉という文字を見つめた。千鶴はそのまましばらくノートを眺めていたが、開くことなくそれをリュックサックに戻した。良太との約束を破ることはできなかった。
千鶴は不安を胸にしたまま書斎をあとにした。
良太たちの訓練は続いて3月9日になった。その夜、良太が深い眠りに入っていると、東京の空が真っ赤に染まっているとの騒ぎ声があがった。
良太は仲間たちと士官舎を出て、すさまじい程に赤く染まった西の空をながめた。燃えさかっている東京の様が想われた。あの空の下には千鶴たちがいる。良太はひたすらに祈った。無事でいてくれ。生きのびてくれ。
B29が大挙して襲来したその夜、千鶴と母親は庭に作ってある防空壕に入った。ふたりがそれぞれ所持していたのは、リュックサックと風呂敷包がひとつづつだった。忠之には空襲に際しての役割があるため、トランクと鞄を防空壕に残して出かけていった。
やがて火の粉がしきりと舞うようになり、ついには近所まで火災がせまってくるに至った。ふたりが防空壕でおびえていると忠之が飛びこんできて、すぐにも避難すべき状況にあると伝えた。
3人は火勢に追われて逃げまどい、安全な場所を求めてひたすらに走った。どうやら助かったと思われたとき、風呂敷包はふたつとも消え、残ったのはふたつのリュックサックと忠之のトランク、そして忠之が大切にしていた鞄であった。
3人は夜が明けてから家の焼け跡に来て、煙をあげている残骸を茫然とながめた。
3人は焼け跡で食事をとった。良太から渡されていた菓子と水筒の水だけの朝食であったが、3人はどうにか元気を取りもどし、千鶴の祖父母がいる三軒茶屋を目指して焼け跡を離れた。
谷田部で訓練にはげんでいる良太たちのもとに、東京に加えられた無差別爆撃の様相が伝わってきた。千鶴たちの安否が気づかわれたが、良太にそれをたしかめる手段はなく、不安と焦慮のうちに過ごすしかなかった。
良太たちはアメリカに対する憎しみを語った。焼夷弾による無差別爆撃が、いかなる結果をもたらすかを承知のうえで、アメリカは庶民の居住地域に対して、残虐きわまりない爆撃を加えたのだ。アメリカのこの爆撃は、史上最大の残虐行為と言えるのではないか。そのようにアメリカの蛮行を憤った良太たちであったが、日本が中国の重慶に対して、無差別爆撃を繰り返していたことに、まったく想いが及ばなかった。
大空襲から一週間ほどたった日の午後、良太は面会人の来訪をつげられ、指定された建物に向かった。
面会室には忠之がいた。良太は胸がおどった。忠之は無事だったのだ。ということは、千鶴と母親も無事だったということではないか。
忠之が伝えた。浅井家は焼失したけれども、千鶴と母親は無事であり、三軒茶屋に移っていること。忠之自身は三鷹の農家のはなれを借りて、そこから工場に通っていること。
「よかったよ、みんなが無事で。東京が全滅したみたいな話が伝わってきたから、お前たちがどうなったのか心配で、気が気じゃなかったんだ」
「全滅したようなもんだな。あの焼け跡を見たら、誰だってそんな気分になるだろう。本郷の辺りも焼けたが、上野から東の方はほとんど焼きつくされてしまった」
東京の真っ赤な空が思いだされた。千鶴や忠之たちはよくぞ助かってくれたものだ。
「ありがとうな、忠之。わざわざ報せに来てくれて。皆が無事だとわかったから、俺も安心してがんばれるよ」
「千鶴さんの動員先も焼けたから、当分は、千恵ちゃんと一緒に農業奉仕をするそうだ」
「お前が働いている工場は大丈夫か。真っ先に狙われそうな気がするんだが」
「いずれはやられるだろうが、今はどこに居たって同じことだよ。それよりも、お前の方はどうなんだ」忠之が声をひそめて言った。「特攻の訓練をさせられていても、特攻隊で出てゆくとは限らないと言ったよな」
「このまま戦争が続けば、いずれは出撃することになると思う」
「千鶴さんにはいつ知らせるつもりだ」
「千鶴には知らせない。俺が特攻隊だと知ったら、今のうちから、出撃しないうちから悲しませることになる。そんなことにはしたくないよ」
「俺はな良太、お前が特攻隊だと知らせてくれて、むしろ良かったと思ってるんだ」と忠之が言った。「何も知らないでいるよりも、特攻隊員と承知してお前と向き合っていた方がいい。千鶴さんが俺と同じように受けとるかどうか、俺にも自信はないけど、思いきって知らせた方がいいような気がするんだ、特攻隊のことを」
受け入れ難い意見だったが、良太は忠之の声と表情にうながされ、忠之の言葉が意味するところを考えた。特攻要員であることを伝えたならば、今のうちから千鶴を悲しませることになる。悲しんでいる千鶴を想像しながら訓練をつづけることに、俺は耐えられそうにない。とはいえ、特攻隊員であることを隠していては、千鶴に思うところを伝えきれないかも知れない。もしかするとそのために、俺だけでなく、千鶴にも悔を残す結果となりはしないだろうか。そんなことにはしたくない。俺には間もなく出撃する可能性があるけれども、千鶴はそれからさらに数十年を生きてゆくのだ。これから数カ月の間を余分に悲しませることになろうと、特攻隊のことを知らせたうえで千鶴と向き合い、互いに思い残すことがないようにしておくべきではないか。
「俺が出撃することになっても、千鶴はまだ何十年も生きてゆくわけだから、お前が言うように、ほんとのことを知らせたうえで、千鶴を励ましておくべきかも知れないな、こうしてまだ生きているうちに」と良太は言った。
「お前が特攻隊員だとわかっていたら、千鶴さんはそのつもりでお前と向き合えるわけだが、何も知らないままお前に戦死されたら、千鶴さんには悔いが残るかも知れないよ」
忠之の言う通りだという気がする。ここは忠之にまかせよう、と良太は思った。忠之なら間違いのないやり方で、俺のことを千鶴に伝えてくれるだろう。
「ありがとうな、忠之。お前のやり方で千鶴に伝えてくれないか、特攻隊のことを」
「千鶴さんには明日のうちに会えると思う。どんなふうに伝えたら良いのか、これからしっかり考えて、ここでお前に面会したことや特攻隊のことを話すよ」
良太は机ごしに忠之の手をにぎり、「ありがとうな、忠之、たのむぞ」と言った。
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