第29話 友よ俺は特攻隊要員だ
3月4日の日曜日、関東地方は雲におおわれ、3月にしては寒かったが、千鶴には素晴らしい日になろうとしていた。前日とどいた電報が良太の訪問を予告していた。千鶴は乏しい食料を工面して、良太を迎える準備にいそがしかった。
千鶴は頃あいをみて家をでた。上野駅の近くまで歩くと、こちらに向かっている軍服姿が見えた。
千鶴はかけだした。良太さんも私に気がついたみたいだ。良太さんが走っている。これまでは走ったことのない良太さんが、今日はあのようにして走っている。
千鶴は声をあげた。「お帰りなさい、良太さん」
「出迎えありがとう。下駄で走るのは危ないぞ。元気なのはいいけど」
「大丈夫よ。鼻緒が切れてもころんだりしないから」
「いつものみやげ」と言いながら良太が包をさしだした。
「ありがとう、良太さん。おかげで非常食もだいぶたまったわ」
「忠之はどうしてる?」
「岡さんは今日も会社だけど、良太さんに会いたいから昼すぎには帰ってくるって」
千鶴は話しかけるたびに良太の顔を見た。良太の声はいつも通りに明るかったが、顔には疲労の陰が表れていた。
「大変でしょうね、飛行機の訓練」
「最近はよく飛んでるんだ。やっと戦闘機乗りらしくなったよ」
「無理しないでね」と言ってから、千鶴は急いでつけ加えた。「おかしいわね、軍人の良太さんにこんなことを言っては」
「千鶴」と良太が言った。あらためて何かを言いだしそうな口ぶりだった。
「どうしたの?」
「千鶴の机に雛人形が置いてないか」
千鶴の足がとまった。
「どうしてわかったのかしら、雛人形のこと」
「ほんとか。ほんとに人形が飾ってあるのか」
「3年ぶりに飾ってみたんだけど、どういうことかしら、良太さんが知ってるなんて」
良太が興奮ぎみに語った夢の内容を、千鶴は驚愕しつつ聞き、書斎の情景が夢の通りであることを伝えた。
「どうしてこんなことがあるのかしら。私が卒業した小学校へ行ったときにも、良太さんは前もって夢で見たわね」
「やっぱり、俺は夢の中で書斎へ行ったみたいだな」良太が腕をさすりながら言った。
良太が風呂敷包からノートを出して、その裏表紙を上側にしてさしだした。
ノートに描かれた絵を、千鶴は息をとめて見つめた。
「この通りよ、花瓶も雛人形も。ほんとに不思議、いったいどういうことかしら」と千鶴は言った。「私の故郷を見てもらう前には学校の夢を見たでしょ。今度は私の家に来られる前に書斎の夢」
「神様か誰かが教えてくださったのかも知れないな、まだ人間の知らない世界があることを。その絵を描いているとき、なんとなく、誰かに感謝したい気持ちになったんだ」
その誰かが良太さんを護ってくださると嬉しいのだが、と思いながらノートを裏返してみると、表紙には 千鶴へ と記されていた。
「このノート、私にくださるの?」
「そのつもりで書いた日記だけど、約束してくれないかな、おれが生きて還るか、または戦死するまでその日記を見ないこと」
「戦死だなんて、縁起の悪いことを言わないで」
「心配するな、やすやすと戦死などしないから」
「良太さんの日記なのに、どうして私にくださるのかしら」
「日記にはちがいないけど、千鶴にあてた手紙のようなものだと思ってほしいんだ」
まだ読んではいけないと言いながら、良太さんはどうしてこれをくださるのだろう。ふに落ちないところはあったが、千鶴はノートを受けとることにした。
良太とつれだって家に帰ると、待っていた母親がお茶を用意していた。残り少ない貴重なお茶だった。
母親をまじえての歓談をきりあげて、千鶴は良太を書斎にさそった。
「見ろよ、千鶴。雪が降りだしたぞ」2階の廊下で良太が言った。
窓の外に眼をむけると、3月でありながら雪がちらついていた。良太さんがお帰りになる頃にはやんでいて欲しい、と千鶴は願った。
書斎に入るなり良太が言った。「夢で見た通りだよ。俺は夢の中でほんとにこの部屋に来たんだ。そうとしか思えないよ」
「ここに来たって……良太さんの心が来たのかしら」
「夢ではこの部屋は明るかったんだ。抜け出した心で見るときは、夜でも昼間のように見えるのかも知れないな」
それからしばらく夢について語り合ったが、結局のところは、不可思議なこととして受け入れるしかなかった。
千鶴は立ち話をしていたことに気づいて、良太に椅子をすすめた。
千鶴は良太が置いた帽子をとって顔に近づけた。
「この前と同じ匂いだわ。良太さんの匂い」
「なあ、千鶴」と良太が言った。「芍薬の造花に千鶴の匂いをしみ込ませてくれないか。このつぎに来たとき、その造花をもらいたいんだ」
「造花に私の匂い………千人針のときみたいにすればいいのかしら」
良太が千鶴に腕をまわして、抱きよせながら千鶴の首すじにキスをした。良太の唇がゆっくりと千鶴の口へ近づいてくる。千鶴は体をまわして良太の唇を求めた。
長い口付が終わった。良太の膝に乗せられたまま、千鶴はしばし余韻のなかにいた。
耳元で良太の声がした。「千鶴の匂いがする。襟元から湧きだしてくるこの匂いだよ、造花につけて欲しいのは」
「わかったわ……用意しとくわね、私の匂いをつけた造花を」と千鶴は言った。
良太の腕のなかで幸せな気分にひたっていた千鶴は、ふいに不安をおぼえた。良太さんはしばらく黙ったままだ。どうしたことだろう。
良太の顔を見ようとして首をまわすと、いきなり抱きなおされた。良太の顔は一瞬見えただけであったが、良太が涙ぐんでいたような気がした。口付の幸せな余韻が瞬時に消えた。良太さんの眼に涙が。まさか、そんなはずはない。お母さんをまじえて話したとき、良太さんの笑顔はとても明るかったし、良太さんの声はいつも以上に陽気に聞こえる。
もういちど良太の顔を見ようとしたとき、耳元で良太の声がした。
「千鶴、しばらくこのままにしていよう。こうしていたいんだ」
千鶴は不安から逃がれたかった。良太さんはいつもと変わりがないはずだ。さっきの口付はこれまでと同じだった。
千鶴は言った。「お願い……もういちどパイナップルをして」
良太の唇が優しく千鶴の唇をなぞった。
良太の唇がはなれた。眼を開けると、いつもと変わらない良太の笑顔があった。
「どうしたんだい、千鶴」と良太が言った。
その声に千鶴は笑顔をもって応えた。
その午後、ささやかに過ぎる昼食をおえ、良太たちが居間で語り合っているところに、日曜日の仕事をすませた忠之が帰ってきた。
「精一杯がんばったんだが、こんな時間になってしまった」
「時間にゆとりがあるから、まだゆっくり話せるよ」
工場で食事をすませてきたという忠之といっしょに、良太は階段をのぼった。
忠之の部屋に入るとすぐに、良太は風呂敷をひらいてノートを出した。
「土浦に移ってから付けていた日記だ。これをお前に預かっていてもらいたいんだ」
「どういうことだ」
「おれに万一のことがあったら、出雲の家にとどけてくれ。この日記には遺書のつもりで書いたところがあるんだ」
「この家もいつ空襲でやられるかわからん。どげしたもんかな」
「お前のその鞄に入れておけばいいじゃないか。いつもそばに置いているから、空襲があっても無くさないですむだろう」
「書留で出雲に送ったらいいじゃないか」
「今は送りたくないんだ。おれが元気なうちに遺書なんか読まれたくないからな」
「わかった。預かっておく。遺書がいらなくなるように祈ってるぞ」と忠之が言った。
良太は小学校以来の忠之との思い出を語った。忠之の父親から受けた恩情と忠之の友情に対して、良太は感謝の気持をのべた。早口でしゃべっていると声がふるえた。忠之に涙を見せるわけにはいかない。良太は立ちあがり、庭を見たいと言って部屋を出た。
良太は涙をふいて、廊下の窓から雪が降るさまを眺めた。雪が浅く積もった庭の畑で、のびた麦が緑の列を作っていた。
庭のはずれのサザンカの葉に雪が積もって、出雲の家の冬を思い出させた。出雲は東京よりも雪が多いのだから、あの庭は雪におおわれているのかも知れない。家族の皆は何をしているのだろうか。炬燵を囲んで語り合っているような気がする。
「良太」うしろで忠之の声がした。
「なんだ……どうしたんだ、忠之」
「何かあったな、良太」
「どうしたんだ、いきなり」
「話してくれ。何かあったんだろう」
「なんでもないよ。昔のことを話していたら感傷的になったんだ」
両肩に忠之の手が置かれ、声が聞こえた。「良太、ほんとのことを言ってくれ」
良太は思った。忠之には隠せない。特攻隊のことは誰にも話さないつもりだったが、忠之だけには伝えよう。俺が特攻要員に選ばれていることを、忠之には知っていてほしい。
良太は告げた。特攻要員に選ばれており、そのための訓練を受けていること。出撃の予定ははっきりしていないが、いずれはその日が来るものと覚悟はしていること。
忠之に与えたショックがあまりにも大きく、そのことに良太は不安をおぼえた。忠之を落ち着かせなければならない。このありさまを千鶴に見せてはならない。
「特攻要員に選ばれたからといっても、実際に出撃することになるとは限らないんだ。だから、そんな顔をしないでくれよ。千鶴に見られたら困るじゃないか」
「おれのために千鶴さんにばれそうになったら、うまくごまかすんだぞ。ばれそうになったら、おれが仕事のことで悩んでいることにしよう。わかったな良太」
忠之がすっかり元気を無くしたために、ふたりの会話はぎこちないものになった。
「もうすぐ2時半よ。そろそろお茶にしませんか」と千鶴の声が聞こえた。
良太は部屋の戸をあけて、明るい声で応えた。「ありがとう。もうすぐ降りるよ」
「たいした奴だよな、お前は。よくそんな声がだせるな」と忠之が言った。
それから間もなく、良太は忠之とともに居間に移った。忠之はどうにか落ち着きをとりもどしていたので、千鶴と母親に不審な想いを抱かせずにすんだ。
3時を過ぎてから、良太は千鶴と忠之にともなわれ、雪がちらつく道を上野駅に向かった。良太と忠之は口が重かったけれども、千鶴はむしろ饒舌だった。
上野駅に入りながら千鶴が言った。
「ほんとはね、良太さん、一度はここまでついて来たかったのよ」
「千鶴といるところを仲間に見せつけたくなかったんだが、これからは見送ってもらおうかな、ここまで」
「良太は思いやりが深すぎるんだよ、千鶴さん。どうする、つぎに見送るときは」
「今日ここまで見送ることができたから、この次からはもういいの」と千鶴が言った。
発車の時刻が近づいた。良太はふたりに見送りを謝し、別れの言葉を告げた。
「ありがとうな、それじゃ」
顔を一瞬ゆがめた忠之を笑顔で制し、良太は改札口を通った。
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