第28話 真の遺書はこの日記

 その夜、良太は日記をつけることにして、家族に残すためのノートをとり出した。その頃は週に一回程度しか書かない日記だったが、特攻隊を志願したその日は、言葉を遺すべき重大な日であった。

 良太はノートを見ながら思った。俺は家族や千鶴の願望を裏切ったのだ。俺が特攻隊を志願し、それによって戦死したと知ったら、遺された者たちの悲しみはいかばかりだろうか。このノートには、志願した事実を記さぬほうが良さそうだ。

 とはいえ、と良太は思った。特攻隊員として出撃するに至るまでの日記に、隊員に選ばれた経緯が記されていなかったなら、遺された者たちはどう思うだろうか。悲嘆に沈むにとどまらず、釈然としない気持ちを抱き続けるような気がする。

 ペンを手にしたまま、良太は学生舎の中を見まわした。訓練を共にしてきた仲間たちが、さまざまな姿を見せていた。肩をならべて話しあっている者。ひとりで静かに読書している者。ペンをとって何かを書きつけている者。特攻隊への志望調査が行なわれた日でありながら、書物に眼を通している者がいる。何を読んでいるのだろうか。このような日だからこそ読みたい書物があるのかも知れない。いずれにしても、ここに居る仲間たちのだれもが、つらくて厳しい選択をせまられ、そして決断したのだ。

 良太が耳にしたところでは、熱望すると回答した者が多かったという。その者たちに良太は共感をおぼえた。その回答をなすまでに、彼らは何を思ったことだろう。あそこで何かを記している仲間は、家族の願いに対する裏切りを悔いつつ、重いペンを運んでいるのかも知れない。それとも、勇を鼓して志願した自らを誇りつつ、遺すべき言葉を記しているのだろうか。おれは敗戦後の日本を破滅から救うべく、勇を鼓して志願した。おれは日本と日本人のために、家族や千鶴のために志願したのだ。千鶴との約束を破ることになったとしても、千鶴は許してくれるにちがいない。家族の者たちも理解してくれるにちがいない。

 良太はノートにペンをおろした。

〈午前九時、第十四期生講堂に集合。飛行長より訓辞。米軍ついに硫黄島に迫る。皇国まさに危急存亡のとき、格別なる戦術によらずんば戦勢の挽回も困難な状況に至った。お前たちに殉国の至誠を望む。熱弁は我々に特攻隊への志願を求める言葉に続いた。

 飛行場の枯草に座し、存亡の危機に瀕したる皇国の未来に想いを致す。戦争の帰するところに拘わらず、将来にわたって日本を存続せしめ、日本民族の繁栄を確かなものとしなければならない。求められるはまさに殉国の至誠。応えざるべからず。〉

 良太は書き終えた文字を眺めながら思った。今日という日の日記のために、最もふさわしい言葉を書けたような気がする。そうは思いながらも、書くべきことがまだ漏れているような気がした。こんな言葉を書いたけれども、思い悩んだ末にくだした決断は、ほんとうにおれの本心から出たものであろうか。飛行場の芝生のうえで、おれはたしかに懼れていたではないか、志願を避けたら受けるであろう厳しい処遇を。とはいえ、〈将来にわたって日本を存続せしめ、日本民族の繁栄を確かなものとしなければならない〉と記したこの言葉に、いささかたりとも偽りはない。今はこれでよしとしよう。

 いずれにしても、と良太は思った。たとえ特攻要員に選ばれることになっても、出撃するまでには日数があるはず。それまでに、書くべきことを書けばよいのだ、家族のために残す適切な言葉を。

 良太はもう一冊のノートを開いた。千鶴に遺すそのノートには、先ほどと同じような文章を記したあとに、数行ほどの文字を加えた。

 2日後の2月22日、良太たちは指揮所の前に集合させられた。

 特攻隊の編成に関する説明があり、特攻隊要員が指名されていった。身じろぎもしないで整列している良太の耳を、飛行長の声が鋭く刺した。良太は身体を硬直させてしばし呆然となり、呆然としたまま思った。俺は特攻隊員になった。

 母親の後ろ姿が思いうかんだ。台所で食事の用意をしているときの姿であった。さらにつぎの瞬間、良太は千鶴のことを想った。俺が特攻隊要員に指名されたことを知ったら、千鶴はどんな想いをいだき、どんな態度にでることだろう。

 良太に与えられようとしている任務はいかにも重いものであったが、それにもまして良太にのしかかってきたのは、良太の戦死を悲しむ者たちの存在だった。

 良太にとって、日記が極めて重要な意味を持つものとなった。適切な言葉を遺すことによって、自分の戦死が家族や千鶴たちに与える悲しみを、可能な限り和らげること。とにもかくにも、そのことに心をくだかねばならなかった。


 良太たちは航空隊の学生舎に居住していたが、特攻隊要員に指名された者たちは士官舎に移された。

 それまで受けていた訓練は、戦闘機による空中戦を想定したものであったが、特攻隊要員となったいま、その訓練は戦闘機もろとも敵艦に体当りするためのものに変わった。乏しい燃料を優先的につかって、零戦すなわち零式艦上戦闘機を用いた訓練がはじまった。死ぬことを前提とした目的のために、良太たち特攻隊要員は訓練に全力をつくした。世界の歴史にかつて見られなかったそのような訓練が、日本の各所で、さらには朝鮮や台湾などにおかれた基地でも行なわれていた。

 3月に入るとすぐに外出許可がだされて、良太は4日の日曜日に外出できることになった。そのことを知った良太は、明け方に見た夢を思い起こした。

 夢のなかで、良太は千鶴の机の前に立っていた。机のうえには一対のひな人形が飾ってあり、水仙の花をさした花瓶があった。台座に載せられた人形のうしろには、模型の屏風がおかれている。人形は色彩豊かな衣装をまとっており、台座のふちと屏風は金色に輝いている。

 眼がさめてから、良太は夢に見た情景を思いかえした。あたかも実際に書斎を訪れた記憶を思いかえしているかのように、千鶴の机の情景が鮮やかに思い出された。それはたしかに夢であったが、目覚めてからも鮮明な記憶として残る不思議な夢だった。

 日曜日には外出できると知って、良太は直感的に思った。あの書斎にはひな人形が飾ってあるにちがいない。千鶴の母校を訪れる前にも不思議な夢を見た。けさ見た夢も、あれと同じように不思議な夢だった。日曜日にはあの書斎でひな人形を見ることになろう。

 その夜、良太は千鶴に渡すことにしている日記のノートをだして、その裏表紙に夢で見た情景を描いた。

 そのあと、良太は浅井家に持ってゆく品物をそろえた。非常食として役立つはずの菓子の包と、最後のページまで使いきった2冊のノートであった。

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