第5章 昭和20年春

第26話 海軍予備少尉として迎えた昭和20年

 ガソリンの欠乏が良太たちの訓練を滞らせて、操縦技術の修得は進まなかったが、昭和19年の12月25日に、良太たちは海軍少尉に任官された。職業軍人ではないために、海軍予備少尉と呼ばれる階級だった。少尉に任官されたとはいえ、良太たちはまだ訓練を受ける身であり、それ以降は飛行特習学生と称されることになった。

 まだ小学生だった頃の良太は、大将や大佐などの高級軍人に対して敬意をおぼえ、憧れに似た感情を抱いていた。そのような感情を抱くように仕向ける社会環境のもとでは、むしろそれが当然であったが、中学校で数年を過ごすうちに、そのような感情はすっかり消えた。性格が軍人に向いているとは思えなかったし、何よりも軍人という職業に興味を抱けなかった。

 そのような良太ではあったが、少尉になれたことを素直に喜べた。喜んでくれる者たちの顔がうかんだ。外出に際しては、何も惧れることなく浅井家を訪れ、千鶴に会うことができるようになった。

 良太は温習時間を利用して、家族などにあてた数枚のはがきを書いた。千鶴へのはがきをしめくくる言葉は、〈できれば今すぐチーズとパイナップルを味わいたい〉となった。それを読んでいる千鶴を想像すると、思わず微笑がこぼれた。

「森山、森山少尉」向い側の席から佐山が声をかけてきた。「そのはがきの相手はメッチェンだろう。貴様の顔を見ればわかるぞ」

 良太はあわてて答えた。「メッチェンといっても、いとこなんだ。心配をかけていたから、任官したことを報せようと思ってな」

「うらやましいぞ、森山、そんな相手がいるとはな」佐山が笑顔で言った。「俺にもそんないとこがほしいもんだよ」

 任官についての感想を記そうと思い、良太はノートをとりだした。

 最初に開いたノートは土浦で買ったものであり、良太が戦死するような事態となれば、家族に遺すことになる日記であった。

 良太は思うところを記しおえると、布袋から別のノートをとりだした。舞鶴海兵団に入ってから使い続けている日記帳であり、表紙裏には千鶴が記してくれた言葉があった。任官されての所感はそのノートにも記したかった。


 B29による空襲は続いた。浅井家の様子が気がかりではあったが、良太にはどうすることもできず、ただその安全を祈ることしかできなかった。


 昭和20年の元旦、良太は仲間とともに整列し、年初の訓辞に耳をかたむけた。

 良太は思った、自分が正月を迎えるのはこれがおそらく最後であろう。燃料不足のために訓練すらままならないが、搭乗員が不足していることを思えば、実戦に参加する日も遠くはないという気がする。未熟な技量のままに戦う空中戦に勝ち目はない。

 その夜、良太はノートに元日の所感を記した。

〈………元日なれども外出できず、浅井家を訪問することあたわず。午後は雑談と読書に時間を費やし、今この所感を記す。………〉

 気がつくと、元日らしからぬ暗い文章をつづっていた。

良太はひとりの海軍士官として、命じられるままに行動し、命じられるままに戦うことしかできない立場にあった。それでは、と良太は思った。国を導く立場にある者たちはいかにすべきか。戦争を継続すれば国はどこまでも荒廃してゆくだろう。彼らは真にとるべき方策をとっているのだろうか。

 新しく迎えた年を意義あるものにしたくとも、良太自身にできることはなく、年頭の所感であろうと希望に満ちた文章は書けなかった。良太は短い文章を書き加えたノートを布袋に入れると、かわりに文庫本をとりだした。


 浅井家では全員が無事に新しい年を迎えた。わずかとはいえ餅が配給されたので、浅井家の家族と忠之は、その餅でいっしょに正月を祝った。

 それから間もなく、千鶴の祖父母と千恵は本郷を去り、渋谷からかなり西方に位置する三軒茶屋に移った。千鶴の祖母の実家であって、空襲の虞がない場所だった。

 空襲を受ける虞れはあったけれども、千鶴は本郷の家に残ることにした。良太と会うためにも、動員先の製薬会社へ通うためにも、本郷を離れたくなかった。広い家で暮らすのは、千鶴と母親そして忠之の3人になった。

 空襲に際して大切な品を持ちだすために、リュックサックがふたつ用意してあり、水筒と菓子、さらには写真や位牌などが入っていた。千鶴はそのひとつに、日記のノートや良太からのはがきも入れていた。どんなことがあろうと、失ってはならない品々だった。


 1月に入ってまもなく良太は外出許可を得た。すぐに浅井家に電報をうち、訪問する予定の日時をつたえた。

 その日、良太は歩きなれた道を浅井家に向かった。道の角を曲がると、不忍池の近くに女が見えた。街路樹の下に立っているのは千鶴にちがいなかった。

 もんぺ姿の千鶴がかけだした。下駄の音が聞こえる。良太はおもわず足を速めた。

 千鶴の声が聞こえた。「お帰りなさい、良太さん」

 良太は手をあげて応えた。

 走ってきた千鶴が、息をきらしながら良太に笑顔をむけた。

「あい変わらず元気だな、千鶴は」

「もちろん元気。B29が来たって敗けやしないわ」

「頼もしいじゃないか。元気な千鶴がいるから安心だよな、お母さんも」

「岡さんも居てくださるしね。きょうは岡さんも家で待ってらっしゃるわよ」

「久しぶりだな、忠之と会うのも」

「私のはがき見たでしょ」と千鶴が言った。「お祖父ちゃんたちが三軒茶屋に移ったから、家に残ってるのは3人だけなの。千恵も三軒茶屋だから」

「周りは畑だと書いてあったけど、そんな場所なら安心だな」

「ここは危ないから、お母さんと私はもんぺのままで寝るのよ」と千鶴が言った。


 浅井家の居間で千鶴の母親をまじえて語りあってから、良太は忠之とふたりで2階の部屋に移った。

 良太は森山家の将来について率直に語った。良太が戦死するようなことになったとき、弟妹たちが最も頼りにできるのは忠之だった。

 良太の用件がおわると、忠之が電探すなわちレーダーの開発状況を語った。

 忠之が言った。「まさかとは思うけど、こんな話を聞いたぞ。陸軍と海軍は、電探の開発では協力し合うどころか、足を引っ張り合っているというんだよ」

「兵学校を出た連中は、軍人精神が足りないからと、おれたち予備士官を殴るんだが、お前の話がほんとなら、軍人精神が欠如しているどころか、反逆罪を犯しているようなものだな」

「兵学校や士官学校などで鍛えられた奴は、植えつけられた価値観と、教えこまれた知識の範囲でしか考えることができないからだろうな。俺が聞いた話がほんとなら」

「そんな連中が国まで動かすようになって、あげくの果てがこのありさまだ」

「今となっては軍人に任せるしかないから、東条の後をついだのも軍人の小磯國昭だ。軍人が政治に口を出し始めたときに抑えなかったから、いま頃付けが回ってきたんだよ」

「オニカンノンみたいなひとはいくらでも居たはずだし、その意見に賛同する者だってずいぶん居たはずなのに、そういう人は非国民呼ばわりされたんだからな」

「国を護る専門家の軍人が、専門外の政治をにぎって、ほんとに日本のことを考えるべき人間は、出番が無くなったということだよ」

「残念ながら、まともな政治家の出番が無い国だよな、この国は」

「さらに言うなら、国民にも責任があるわけだよ。軍部の思うままに引きずられて、ここまで来たんだからな。戦争にはならんだろうと思っているうちに戦争になり、今ではこのていたらくだ」

「軍部に引きずられたと言うけど、くやしいことに、軍を支持した日本人も多かったじゃないか。オニカンノンみたいなひとを責めていた連中は、今ごろどんな気持ちだろうな」

 千鶴の声が聞こえた。「お食事の用意ができましたけど、お話はまだかしら」

 その声に応じて、良太と忠之は下の部屋に移った。千鶴と母親が心をこめて用意したものとはいえ、戦時下のわびしい昼食だった。

 日曜日にもかかわらず、忠之には大学での打ち合せに出席する予定があり、食事がおわると間もなく出かけることになった。

「真空管の試作が議題だけど、俺はまだ連絡係みたいなもんだよ」と忠之が言った。

 大学へでかける忠之を見送ってから、良太は千鶴といっしょに書斎に移り、並んで腰をおろした。

 千鶴は机のうえから良太の帽子をとりあげ、その内側を見ながら言った。「こんなふうに付けたのね、この造花」

「造花にはかわいそうだけど、そんなには傷まないだろ、そこに付けると」

 千鶴が帽子を顔に近づけて、「この帽子、良太さんの匂いがする」と言った。

 千鶴に腕をまわすと、千鶴は帽子を机に戻してもたれかかってきた。良太は千鶴の髪をかきあげて、眼を閉じている顔をながめた。千鶴は痩せたようだ。乏しい食料に耐えながら、千鶴は動員先の会社でがんばっているのだ。すべての老幼男女が歯をくいしばり、空腹に耐えながらがんばっている。それが今の日本の姿だ。

 千鶴が眼を閉じたまま、つぶやくように「良太さん」と言った。良太は千鶴の顔を見ながら抱きよせた。

 書斎でのひとときを過ごしたふたりは、いっしょに家を出て上野駅に向かった。

 不忍池を通り過ぎてしばらく進むと、道の曲がり角で千鶴が立ちどまり、歩いてきた道をふり返った。

「ここだわね、良太さんがふり返って手をふったのは。私はあの樹のところから、良太さんが見えなくなるまで見送ったんだわ」

 良太は千鶴の笑顔を見て、もう少し先まで千鶴といっしょに歩こうと思った。ふたりでいるところを、仲間に見せたくはなかったのだが、それよりむしろ、千鶴の気持を重んじたかった。

 空襲に備えた建物疎開が街並を変えていたけれども、その街では多くの庶民が日々の生活を営んでいた。行き交う人と家並を見ていると、空襲時の有り様が思いやられた。

 この辺りで千鶴と別れようと思っていると声が聞こえた。「よお、森山少尉」

 いつのまに現れたのか、道のむこうがわに佐山がいた。

「ちょっとあいつと話してくる」と言いおいて、良太は佐山に近づいた。

「メッチェンと並んでいる軍服が、どうやら貴様らしいと思ったから、安藤たちと離れて来てみたんだが、やっぱりだな、貴様にはメッチェンがいたじゃないか」と佐山が言った。

「俺が下宿していた家のひとだ。話題にされたくないから他の者には黙っていてくれ」

「心配するな。発車時刻を確認してきてやるから、あのひとと、この辺りで待ってろ」

 佐山が千鶴に声をかけた。「森山少尉の友人で佐山といいます。よろしく」

 千鶴は声をださないまま、ていねいに頭をさげた。

 足早に去って行く佐山を見送ってから、良太は千鶴のそばにもどった。

「海軍で俺がいちばん信頼している男なんだ。発車時刻が予定通りかどうか、駅で調べてきてくれるから、このまま、ここで待っていよう」

「もしも列車が遅れたら、どうなるかしら」

「空襲や故障で少しくらい遅れても大丈夫だよ。千鶴と会うときにも、そのための余裕を見てあるから」

 しばらく待つと佐山がもどってきて、列車が支障なく運行されていることを伝えた。時間にゆとりができたので、ふたりは不忍池のあたりを散策することにした。


それからひと月の間に、良太は浅井家を2度訪れた。電報で訪問を予告しておいたので、千鶴には2度とも会うことができたが、忠之には1度しか会えなかった。工場が空襲に備えて分散したことにより、忠之の負担はさらに重くなっていた。

 良太と千鶴は書斎でのひとときを過ごすと、つれだって上野駅へ向かった。ふたりが逢瀬を重ねている間にも、戦局は大きく推移して、一段と厳しいものになった。

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