第25話 神風特別攻撃隊
6月の中旬に至ると、アメリカ軍のサイパン島上陸作戦がはじまった。守備隊の苦境は新聞などで報じられたが、さしたる救援もなされないまま、守備隊と在留邦人たちは見殺しにされる結果となった。
戦局が逼迫しつつあることは明白であったが、国民には実情を知らされることがなく、戦意高揚にむけた言葉のみが声高に叫ばれた。7月18日には東条英樹陸軍大将の内閣が総辞職し、あとを小磯陸軍大将が継いだけれども、日本のおかれている状況は悪くなるばかりだった。
7月に単独飛行を許されるレベルに達した良太たちは、つづいて特殊飛行の訓練を受けることになり、霞が浦の空を赤トンボで飛ぶ日々がつづいた。
オレンジ色の赤トンボで訓練に励んでいたのは、飛行科予備学生だけではなかった。一般には予科練と呼ばれる海軍飛行予科の練習生たちが、同じように激しい訓練に立ち向かっていた。15歳になれば志願できるということもあり、飛行訓練に励む予科練生たちはまだ少年だった。所属する隊が異なるとはいえ、良太はその少年たちと競い合うようにして訓練に励んだ。
よく晴れていたその日、良太は宙返りの練習をした。筑波山にむかって飛んでいると、伝声管を通して教官の声が聞こえた。「同じ要領でもういちどやれ」
ようやく会得した要領で宙返りに挑むと、今度もどうやらうまくいった。水平飛行にうつると教官の声が聞こえた。「筑波山ヨーソロー」
良太は筑波山に進路をとったまま、教官からの指示を待った。見まわすと、入道雲を背にして飛ぶ赤トンボが見えた。
外出が許されるとき、機会があれば良太はひそかに浅井家を訪ねた。外出許可が取り消されたために、予告通りに訪問できなくなることもあったが、谷田部で中間練習機教程の訓練を受けている間に、浅井家を四度も訪ねることができた。時間に追われながらの逢瀬だったが、良太と千鶴にはかけがえのないひとときだった。
千鶴は上野駅に向かう良太についてゆき、不忍池の近くで別れをつげた。良太は途中で必ず振り返り、手をふってから道の角をまがった。千鶴は次の逢瀬を想いながら家路についた。
サイパン島につづいて、テニアン島とグアム島の守備隊が玉砕する結果となった。良太の胸中に、アメリカに対する敵愾心が噴きあげてきた。その敵愾心が良太に軍人としての意欲を高め、訓練にたちむかう忍耐力を与えた。海軍に入団して以来の教育と訓練が、そして危機に瀕している祖国の姿が、さらには悲憤の涙をもって聞かされた友軍の悲劇が、軍人としての使命を自覚すべく強く迫った。軍には批判すべきところがあろうと、軍の目指すところを信じてその命令に従い、与えられた任務を通して祖国を救うこと。良太が進むべき道はひとつしかなかった。
良太たちの専門分野が決められたのは9月の中旬だった。良太は戦闘機搭乗員としての訓練を受けるために、茨城県の鹿島灘に面した神ノ池航空隊に移ることになった。谷田部と同じ茨城県にある海軍の航空隊ではあっても、そこから浅井家を訪ねることはできそうになかった。
9月28日、良太たち戦闘機組の120名は神ノ池航空隊に移った。
良太たちは練習用戦闘機での訓練にとりかかったが、しばらくたつと飛行訓練はままならなくなった。訓練に必要なガソリンが欠乏しつつあった。
太平洋の島々で玉砕があいつぎ、極度に不利な状況に追い込まれていた日本にとって、フィリピンは死守すべき防衛線の中核だった。10月の半ば過ぎに至って、そのフィリピンに、大輸送船団を擁するアメリカ軍が迫った。その上陸を断固阻止するために、日本はついに特攻隊を出撃させた。
フィリピンで神風特別攻撃隊が出撃した数日後、その事実を知って良太は慄然とした。爆弾を抱えた戦闘機もろとも、敵の艦に体当たりしたのだ。こんなことがあっていいのだろうか。日本はついにここまで追い込まれ、そのような戦術をとらざるを得なくなったということか。それにしても何たる戦術であろうか。出撃したその特攻隊には、学徒出身の予備士官も加わっているらしい。どんな想いを抱いて出撃したのだろうか。
特攻隊が大きな戦果をあげたからには、このような攻撃方法がさらに採用される可能性がある。戦争が長びいたなら、俺が特攻隊で出撃することすらあり得るのではないか。
戦争がさらに1年も続けば、搭乗員の俺は戦死を避け得ないだろう。どうせ戦死するのであれば、大きな戦果をあげて死にたいものだが、特攻隊として出撃するよう求められたとき、俺はそれに応じることができるだろうか。
特攻には大きな戦果が期待できるだけでなく、特攻隊員として戦死すれば、あれほどの名誉が与えられるのだ。搭乗員はいずれ戦死する運命にあるのだから、戦況によっては、積極的に特攻隊を志願する者すらありそうな気がする。
それにしても、と良太は思った。すでに制空権と制海権をともに奪われており、石油や鉄などの資源を確保できる見込みはなさそうだ。それどころか、今では食料すらも不足するに至った。このままでは国民が生きてゆくことすらままならなくなりそうだ。燃料が不足しているので、俺たちはまともな訓練を受けることもできない。いかに多くの特攻隊を出撃させたところで、この戦争に勝てるはずがない。国を動かしている軍の高官たちは、そのことを明確に認識しているはず。速やかに終えるべきこの戦争を、いったいいつまで続けるつもりだろうか。
11月に入って、良太は120名の仲間と共にもとの谷田部航空隊にもどされた。神ノ池航空隊が桜花部隊の訓練基地になったためである。
桜花は人間が操縦するロケット推進機であり、爆撃機の胴体下部から発進できるように作られた、体当たり攻撃のための専用機であった。そのような特攻専用の兵器として、ほかにも人間魚雷などが開発されつつあったが、良太たちにその情報が伝わることはなかった。
11月24日、東京はアメリカの大型爆撃機B29による大規模な空襲をうけた。攻撃目標とされたのは、軍用機の製造工場だった。
東京をはじめとする大きな都市は、B29にる空襲を頻繁に受けるようになったが、日本は有効な対抗手段をとることができず、爆撃による被害が急速に拡大していった。
12月に入ってまもなく、良太は外出できる機会を得たが、訪問の予告ができないままに浅井家を訪ねることになった。
浅井家では良太の訪問を喜んでくれたが、予想していたことではあっても、千鶴と忠之の不在が良太を落胆させた。良太は千鶴と忠之に置き手紙を残すことにした。
良太は千鶴の母親にすすめられるまま、借りた用具を持って書斎に入り、千鶴の机で手紙を書いた。花瓶にはサザンカが活けられていた。
良太は2枚の手紙を書き終えると、首をまわして書棚に眼をむけた。棚の空いている所に、いくつかの花束らしいものが並べてあった。
書棚の前まで来てみると、花束に見えたものは造花であった。バラと芍薬それに沈丁花の造花が、それぞれ数本ずつに束ねられ、造花の材料とともに置かれていた。
良太は棚から造花をつかみだし、思わずそれを鼻に近づけた。香りを想像させるほど、それはみごとな沈丁花であった。千鶴がこれを作ったとは。千鶴は作り方をいつおぼえたのだろうか。千鶴はどういうつもりでこれを作ったのだろうか。
良太は千鶴への手紙に文字を加えた。
〈みごとな造花を見たら欲しくなった。勝手なことをしてすまないけれど、沈丁花の造花をもらいたい。一番小さいのをもらって帽子の内側に取り付けるつもりだ。〉
良太はまもなく浅井家を出て東京大学へ向かった。前年の秋に千鶴と訪れて以来の訪問だった。
良太は構内を見まわってから、講義をうけた建物の中に入った。誰もいない講義室の椅子に腰をおろすと、そこで受けた講義が遠い昔のことのように思いだされた。
良太は図書館の閲覧室に入り、学生時代に愛用した閲覧卓の椅子に腰をおろした。そこは窓際で明るく、書物を読むのに最もよい場所だった。
読書にうちこんでいた頃を思い返しつつ、良太は窓の外に眼をやった。出征がきまった前年の秋、そこから見た木は葉をまとっていたが、今は細い枝を通して遠くが見えた。
図書館に入ってきた教官らしい人物が、軍服姿の良太に訝しげな眼をむけた。良太は机の上から帽子をつかんで立ちあがり、静かな足どりで図書館をでた。時間にゆとりはあったけれども、大学をあとにして上野駅へむかった。
不忍池を通りすぎて曲がり角にさしかかったとき、良太はうしろをふり返ってみた。初冬の街の道のかなたに、街路樹が葉を落とした姿で立っていた。
その夜、千鶴は書斎で日記をつけた。
〈………良太さんは少し痩せられたらしいが、元気そうに見えたとのことだから心配はなさそう。良太さんは楽しそうに戦闘機のことを話されたとのこと。良太さんはどんな気持ちでがんばっておいでだろうか。
良太さんは沈丁花の造花を持ってゆかれた。とても嬉しいけれど、帽子の内側につけることができるだろうか。〉
千鶴は棚の造花に眼をやりながら、それを作ったときを思いかえした。友だちに作り方を教えてもらい、最初にバラを作った。バラがうまくできたので、沈丁花と芍薬も作ることにした。沈丁花と芍薬はよく知っているけれども、できるだけ上手に作りたいので、学校の図書室から植物図鑑を借りた。あの沈丁花は、自分でも驚くほどにうまく作れた。その一本が、いまは良太さんの帽子におさまっている。
忠之が帰ってきたらしく、戸が閉まる音が聞こえた。書斎に時計はなかったが、時刻はすでに十時に近いはずだった。
千鶴は忠之あての置き手紙を持って、暗い廊下を忠之の部屋へ向かった。窓から見えるどの家も、空襲に備えた灯火管制を守っており、明かりはひとつも見えなかった。
千鶴は忠之に手紙をわたすとすぐに書斎にもどり、ノートに日記のつづきを書いた。
〈良太さんが岡さんに書き残された手紙を、帰られたばかりの岡さんに渡した。今日も岡さんは帰りが遅かった。あんなにしてまで働いて岡さんは大丈夫だろうか。私は丈夫なほうだと思っていたのに、一日中忙しく働いているととても疲れる。今日は良太さんがこの椅子で手紙を書いてくださったのだから、今夜はいい夢を見ることができそうな気がする。良太さんにもいい夢を見てもらいたい。〉
千鶴は書斎を出ると庭を見おろした。良太が見たはずのサザンカは闇にまぎれて、白い花すらほとんど見えなかった。
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