第24話 海軍飛行専修予備学生
5月14日の面会日、良太は両親と千鶴そして忠之を迎えた。両親とは4ヶ月ぶりの、忠之とは半年ぶりの再会だった。
良太が航空士官を目指していることに、両親は強い不安を抱いているはずだった。その不安を少しでも和らげるために、良太は意識して快活にしゃべり、俊敏にふるまった。
良太の姿が母親の眼にはどのように映ったのか、「元気でええけども、あんまし、無理はしぇん方がいいからな」と言った。
父親が言った。「お前に軍服がこげに似合うとは思わなかった。たいしたもんだ」
忠之がトランクをあけ、5人で食うには充分な握り飯や、お茶が入ったびんなどをとり出した。
「出雲のお米をいただいたのよ、それもたくさん」と千鶴が言った。「今朝はね、良太さんのお母さんにお願いして、お握りを作るのを手伝っていただいたの。お母さんがお作りになったのは丸い形のおにぎり」
「懐かしいな、この形が」と良太は言った。「昔の遠足を思い出すよ」
「遠足のときに良太さんが忘れたおにぎりのこと、今朝おにぎりを作りながら、お母さんからも聞いたわ」
良太はその情景を思いうかべた。母と千鶴がならんで握り飯を作っている。千鶴が忠之から聞かされた遠足のことを話題にし、それに応じて、母が良太の子供の頃のことを話して聞かせる。両親が浅井家に泊まることになって、ほんとうに良かった、と良太は思った。
「わかめのついたこの握り飯、遠足のときの一番の楽しみだった」
「わかめは竹下の叔父さんからもらったよ。叔父さんも元気だけん、まだ自分でわかめが採れーげな」
「あのね、良太さん、今日のお弁当には、出雲の材料がたくさん入ってるのよ。お米とわかめに卵など」と千鶴が言った。
とりとめのない話題に興じるうちに時間は過ぎて、面会はおわりに近づいた。写真を撮ることになり、忠之がトランクからカメラをとりだした。千鶴の祖父から借りた旧式のカメラだった。
写真を撮りおえて間もなく、その日の貴重な面会は終わった。
大きな満足感を残した一日が終ろうとするその夜、良太は三日ぶりの日記をつけた。
〈………父母上は俺の飛行科配属に不安があるはずだが、そのことをひと言も口にされなかった。仲間たちの明るい雰囲気が、不安を多少は和らげたであろう。俺もまた意識して明るく振る舞い、俊敏な言動をなすべく努めたのであったが。
父上と母上は今夜も浅井家に宿泊し、明日は初めての東京を見物してから、夕方の汽車にて出雲に帰るとのこと。千鶴は明日の勤労奉仕を休んで、父母上につき合ってくれるとのこと。両親と千鶴にこのような機会が訪れたことに感謝したい。両親の千鶴に向ける眼差には優しさがこもっていた。命永らえて戦争が終われば千鶴は俺の妻になる。これが空想に終わることなきよう、願いかつ努めねばならない。
ここでの教育も余すところは十日。暗い気分に襲われることも多く、我々はこの航空隊をドノウラと呼んだが、分隊長や分隊士たちにはやはり感謝すべきであろう。理不尽とも言える修正を幾度も受けたし、受け入れがたい精神教育もされたが、分隊士には学徒出身の予備士官も多く、我々を教育するために全力を尽くしてくれた。いずれにしても俺はここを離れて、操縦専修の飛行学生としての訓練を受ける身となる。………〉
5月25日の朝、基礎教程の修了式が行なわれ、予備学生たちはそれぞれの訓練地へ向った。良太は飛行訓練をうけるために、土浦に近い谷田部航空隊に移った。
それから間もなく、良太は赤トンボと称される練習機にはじめて乗った。良太は前席に乗せられ、操縦はうしろの席に乗った教官によっておこなわれた。本格的な訓練に先だっておこなわれる体験飛行であって、それは慣熟飛行と称された。二日にわたって慣熟飛行がおこなわれたあと、本格的な飛行訓練が始まった。
谷田部でのあわただしい一週間が過ぎて6月2日になった。千鶴の誕生日であるその日の夜、千鶴との約束をはたすために、良太は布袋から藤村の詩集をとりだした。
歌集をひらいている千鶴を想いつつ、良太は詩集に記された千鶴の言葉を読んだ。
千鶴が記した文字にしっかり眼を通してから、はがきを取り出して宛名を書いた。千鶴の誕生日を祝うはがきであろうと、祖父の古風な名前を記すしかなかった。
良太はペンを握りなおして、文面に文字をつづった。
〈元気で誕生日をお迎えのことと思う。おめでとう。歌集を手にしている君の姿を想像しながら、詩集に君が記した文字を懐かしく読んだ。机に飾られている芍薬の花を想った。心のうちであのパイナップルを味わっていると、懐かしい匂いが思い出された。当方はいよいよ本格的に飛行訓練を開始。すこぶる元気で励んでいるゆえ御安心を。君と御家族および忠之の御健康を祈っています。〉
良太は書きおえたはがきにざっと眼を通してから、日記用のノートをとりだした。飛行訓練にあけくれる日々を過ごすうちに、日記をつけない日が多くなっており、数日ぶりに記す日記であった。
〈………歌集に眼を通している千鶴の気持ちを想いつつ、藤村詩集に千鶴が記してくれた文字を読む。そのあと千鶴に誕生日を祝う葉書を書く。
本日も離着陸訓練。二十分足らずのこの訓練を幾度も受けて、どうにか要領を掴んだ。現在の状況を思えば信じがたいが、ひと月あまり先には単独飛行を可能とすべく計画されているらしい。舞鶴で飛行適との判定結果を知らされたときには、おそらく何かの間違いであろうと思ったものだが、どうやら俺は本当に操縦員としての資質に恵まれているらしい。いまは教官の言を信じて、自信をもって努力しなければならない。技量に自信なくば空戦での勝ち目はない。十全なる技量を身につけるべく全力を尽くさねばならない。〉
その日、千鶴は動員先の製薬会社から帰ると、まだ明るさの残っている庭に出て、数本の芍薬の花をとった。家族からは朝のうちに誕生日を祝う言葉をかけられたが、特別なことをしてもらう予定はなかった。19歳の誕生日を祝う大切な行事は、書斎で良太の写真を眺めることと、良太が記してくれた文字を読むことだった。
千鶴は書斎に入ると花瓶に芍薬を活け、机から2枚の写真を取りだした。土浦ではじめて会った二ヶ月前に、良太が渡してくれた写真だった。
坊主頭でほほ笑む良太の写真を見ると、土浦の国民学校で語り合った日のことが思い出された。
じっくり写真を眺めてから、与謝野晶子の歌集をとって62ページを開き、余白に記されている文字を読んだ。〈誕生日おめでとう。千鶴の誕生日を祝うことが………〉
歌集をひろい読みしていると、横にならべた椅子には良太がいて、藤村の詩集を開いているような気がした。千鶴はとなりの椅子に手をふれた。良太と交わしたキスが思いだされた。
良太は次の日曜日に外出が許されるらしいと知って、できるものなら浅井家を訪ねたいと思った。浅井家で数時間を過ごしても、決められた時間までには充分に帰隊できる距離だった。東京は外出許可区域外だったから、規律違反が露見した場合には、厳しい制裁を覚悟しなければならなかったが、知恵を絞ればうまくやれそうだった。
千鶴と忠之の在宅を確実なものにしたかったので、良太は訪問を示唆するはがきをだした。検閲に多少の時間がかかっても、土曜日までには届くはずだった。
日曜日の朝、千鶴は書斎の机に芍薬の花を飾った。前日の午後に届いた良太からのはがきに、日曜日の外出に際して、麦とサツマイモの畑が見られそうだし、好きな芍薬の花も楽しめそうだと記されていた。良太の訪問を示唆する暗号に違いなかった。
昼食の準備をしていると、待ちこがれていた良太の声が聞こえた。千鶴は台所からとびだして玄関に向かった。
千鶴は声をあげた。「おかえりなさい、良太さん」
軍服姿の良太が笑顔で言った。「あいかわらず元気だな、千鶴は」
「みんなで待っていたのよ、良太さん。早くあがってちょうだい」
良太が靴をぬいでいる間に家族が玄関に現れ、にぎやかな会話が始まった。
居間に向かいながら良太が言った。「忠之はどうしたのかな」
「日曜日だけど今日もお仕事ですって。この頃は帰りも夜中になることが多いのよね」と千鶴は言った。「岡さんから手紙を預かっているけど、書斎に行ってからでいいわね」
良太が白布で包んだ物をさしだして、「隊で支給されたカリントウとビスケット。みやげの代わりにと思って」と言った。
「いつもの海軍のお弁当とはちがうと思ったら、今日はお菓子なのね」
「じつは東京は外出許可の区域外なんだ。弁当を腰につけたままだと予備学生だとわかるから、友達にやってしまったんだよ、腹具合がわるいから食わないということにして」
千鶴は強い不安にかられて言った。「もしも露見したらどうなるのかしら」
「そんな心配はないんだ、しっかり考えたうえで動いているから」
「ここには何時頃までいられるのかな」と祖父が聞いた。
「一時半までに出れば、充分に間に合います」
「だったら、まだ早いけど、お食事にしましょうか」と母が言った。
昼食をおえるとすぐに千鶴は良太と書斎に入り、椅子をならべて腰をおろした。
「いいじゃないかこの芍薬の花。千鶴の誕生日にもこんなふうにして飾ったんだな」
「ここで歌集をひらいていたら、となりに良太さんが居るような気がしたのよ。良太さんはどんなことを考えたのかしら」
「この部屋で千鶴はどんな気持でいるんだろうと思った」
「私はいま、どんな気持だと思います?」
「久しぶりに会えて嬉しい」
「それから?」
「この次の外出日にも何とかして会いたい」
「それって、もしかしたら良太さんの気持?」
「千鶴もそんなふうに思ってるんだろ」
「もちろん私も同じ。でも、それだけだと思います?」
「戦争が早く終わってほしい」
「もちろんそうよ、今すぐに終わってほしい、こんな戦争」と千鶴は言った。
千鶴は忠之の置き手紙をとりだし、一枚の便箋に書かれたそれを良太に渡した。
手紙を読んでいる良太の横で、千鶴は与謝野晶子の歌集を開いたが、すぐに良太の声が聞こえた。
「鉛筆をかしてくれないか、返事を書きたいんだ。この裏に書くから便箋はいらない」
良太が鉛筆を走らせる音を耳にしながら、千鶴はふたたび歌集に眼をおとした。
「忠之が帰ってきたらこれを渡してくれ」と良太が言った。「さっきも話したけど、俺がここに来たこと、はがきなどに絶対に書くなよ。この手紙にも念を押しておいたけど」
千鶴は受けとった便箋を引き出しに入れると、良太に向けて首をまわした。
「お願い、良太さん」と言い終わらないうちに、良太の顔が近づいてきた。
良太の唇が千鶴の唇を優しくなでた。千鶴は良太にしがみつき、すすんで良太の舌をもとめた。
良太の唇がはなれた。眼をあけると、輪郭のぼやけた良太の顔が見えた。良太が千鶴の体を抱きなおした。千鶴の眼が良太の顔をはっきりととらえた。良太の顔がふたたび近づいてきて、千鶴に軽くキスをした。良太はつづいて千鶴の首すじに唇をあて、そのまま千鶴を抱いていた。
耳元で声がした。「千鶴の匂いがする。好きだよ、この匂い」
千鶴は思った、私の匂いをもっと嗅いでもらいたい。良太さんが望むかぎり匂いを送り出してあげたい。
ふたたび声がした。「ありがとう、千鶴」
その声が千鶴をひときわ幸せな気持ちにした。千鶴は良太の胸に頬をつけ、「ありがとう、良太さん」と応えた。
軍服の胸に頬をつけていると、良太の鼓動が伝わってきた。小さいながらも確かに聞こえるその音が、千鶴にはかけがえなく貴重で、いとおしいものに思えた。良太さんはこうして生きておいでだ。私もこうして一緒に生きている。
言葉を交わしながらも、それからしばし、千鶴は良太の胸から耳を離さなかった。
母親の声が聞こえて、出発時刻がせまっていることを報せた。それから間もなく居間に移ると、時計はすでに一時半をさしていた。
千鶴は良太といっしょに家を出て上野駅へ急いだ。その道は子供の頃から通いなれた道であり、友達や千恵といっしょに、上野公園や動物園まで歩いた道だった。
不忍池の近くで良太が立ちどまり、「千鶴、ここで別れよう」と言った。
「駅までついて行きたいけど、いけないかしら」
「駅までふたりで行くと目立って危ないから、ここで別れたほうがいいんだ」
「この次はいつ会えるかしら」
「約束はできないけど、うまくゆきそうなら、今度みたいにはがきで報せるよ。はっきりとは書けないが、千鶴にはわかるように書くからな」
良太は「それじゃ」と言って軽く手をあげると、背中をみせて歩きだした。
千鶴は道ばたの樹の下に立ち、良太のうしろ姿を見送った。足早に歩いていた良太がふり返り、手をあげて大きくふった。千鶴は両手をふって応えた。ふたたび背を向けた良太は、すぐに建物の陰にかくれた。
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