第19話 贈る言葉は祈りの言葉
東京を発つ日がおとずれた。準備は数日前におえていたので、午後の出発時刻までには充分なゆとりがあった。
良太は書斎に入り、ノートの表紙裏に文字を記した。千鶴に渡すために用意したノートであった。
まもなく書斎に入ってきた千鶴が、着ていた服の内側から千人針をとりだし、「この千人針、私の祈りが染みこんでるの。絶対に良太さんを守ってくださいって」と言った。
千人針に顔に近づけると、千鶴の匂いがたしかにあった。
「ほんとうだ、千鶴の匂いがする。ありがとうな、千鶴。これさえあれば、かすり傷も受けずに還れそうな気がするよ」と良太は言った。
千人針を風呂敷につつみおえた千鶴が、机の引き出しから2枚の写真をとり出した。千鶴の祖父が良太と千鶴をならべて写した写真だった。
「この写真、良太さんにあげるために用意しておいたの。裏を見てちょうだい」
写真を裏返すと文字が記されていた。
良太さんと出会えた千鶴は幸せ者です
良太さんとの約束が実現する日を待っております
これと同じ写真で私は毎日良太さんに会います
良太は千鶴を抱きよせた。
「ありがとう、千鶴。俺も毎日この写真を見て、千鶴が書いてくれたこれを読むからな」
千鶴がもう一枚の写真をさしだした。
「これには良太さんに書いてもらいたいけど。どんなことでもいいから」
良太は写真を裏がえして文字を記した。
千鶴は良太の一番大切な宝物
千鶴と出会えたことに感謝している
千鶴と出雲で星を見る日を楽しみにしている
千鶴は写真に記された文字を読み、良太に笑顔を向けた。
「嬉しい、こんなふうに書いてもらえて。日記をつけるときに見るわね、この写真を」
良太は机の上から2冊のノートをとって千鶴にわたした。
「千鶴がいろんなことを考えてくれたから、俺も千鶴のまねをしてこんなことを考えた。表紙の裏をあけてみな」
千鶴がひらいたノートの表紙裏には、万年筆で書かれた言葉があった。
千鶴は声にして読んだ。
「千鶴よ、戦争がいかなる状況になろうとも決して絶望してはならない。千鶴よ、いかに厳しくてつらい環境にあろうとも希望を捨てることがあってはならない。千鶴にはいつか必ず幸せに満ちた日が訪れるに違いないのだから。良太」
「うれしい」千鶴が笑顔を向けた。「日記帳にするわ、この帳面。良太さんに励まされながら日記を書くことができるわ」
千鶴がもう1冊のノートをひらき、良太が記した言葉を声にした。
「千鶴よ、いかなる場合にも前向きに生き、幸せな人生を目指してくれ。たとえ絶望的な状況に置かれることになろうと、千鶴は決して諦めてはならない。諦めることなく歩いて行けば、希望の光が見えてくるに違いないのだ。良太」
「これ、とても嬉しいけど……絶望的なことなんか起こってほしくないわね」
「これから先の日本がどうなるかわからないのに、俺は千鶴のそばに居てやれないんだ。たとえどんなことがあっても、千鶴にはがんばって生きてもらいたいんだよ」
良太は別に用意しておいた2冊のノートを千鶴にわたした。
「これは海軍で使うことにしている日記帳だけど、俺のために何か書いてくれないか。もしかすると日記も検閲を受けるかもしれないから、気をつけなくちゃならんけどな」
千鶴が机のうえにノートをおいて、「こんなことなら書いてもいいかしら……千鶴は良太さんのご無事を祈りながら、良太さんとの思い出に満ちたこの書斎で日記をつけております。出雲でいっしょに星を見る日を楽しみにしております。どうか御無事で還ってきてください。これならかまわないでしょ」と言った。
「ありがとう千鶴、それでいい。そんなふうに書いてくれたら嬉しいよ」
文字を記しはじめた千鶴の横顔を見ていると、学徒出陣する友人たちとの会話が思いだされた。話し合って得た結論は、自分たちが生還できる可能性はゼロに近い、ということだった。千鶴にわたすノートには、生還できなかった場合にそなえて言葉をつづったのだが、そのことに千鶴は気づかないだろう。千鶴はひたすらに俺の生還を願っているのだ。俺が戦死する可能性など考えたくもないだろう。
千鶴は2冊のノートに言葉を書きおえた。
「ごめんなさいね、良太さん。私は自分の願いごとばかり書いたみたい」
「それでいいんだよ。そのほうが俺には嬉しいんだ」と良太は言った。
良太は千鶴から受けとったノートを机におくと、書斎の中をあらためて見まわした。千鶴とともに時間を過ごし、千鶴とキスを交わす特別な場所だった。この書斎でいつかまた、千鶴とふたりで語り合えるだろうか。それともこれが最後になるのだろうか。
千鶴が良太の胸に頬をつけ、小さな声で「良太さん」と言った。その声にうながされ、良太は千鶴に腕をまわした。
良太は千鶴をひざに抱きあげ、千鶴の顔を見つめた。半ば閉じられている千鶴の眼にうながされ、良太は千鶴に顔を近づけた。
いつもと変わらないキスを終えると、良太は千鶴の首筋に唇を移した。いつもと変わらない千鶴の匂いがした。
ふたりは間もなく階下にうつり、昼食の食卓についた。浅井家が心をつくして用意した食事であった。
食後の歓談がおわると玄関前に全員があつまり、良太と沢田を中央にした記念写真が撮られた。全員そろっての撮影がおわると、千鶴の祖父が良太と千鶴をならばせて、ふたりだけの写真を撮った。
予定していた時刻になった。良太は浅井家の人びとに別れを告げ、千鶴と忠之そして沢田に伴われて東京駅に向かった。
電車が東京駅に近づいたとき、忠之がとうとつに言った。
「あのな良太、東京駅や宮城前では見送りの学生ですごいことになってるはずだ。帝大生の集まっているところにお前も顔を出してみないか」
「おれはこの4人で話し合っているだけでいいよ。お祭騒ぎは性に合わん」
「俺と沢田はプラットホームまでは見送らないからな。たっぷり千鶴さんと別れを惜しんでくれ。その前に、大学の連中と思いきり気勢をあげるのもいいと思うんだがな。それほど時間はかからないはずだ」
良太は忠之の勧めを受け入れることにした。
東京駅に着いた4人は駅を出て、学生たちが群がっているあたりに近づいた。学生たちの集団がそこかしこで歌をがなりたて、万歳を叫んでいた。踊りまわっている集団は、壮行にかこつけて騒ぎを楽しんでいるように見えた。
帝大生の集団はすぐに見つかった。忠之が話をつけるや良太は集団の中に引きこまれ、激励の歌の嵐につつまれた。良太はその歌に声を合わせた。たちまち気分が高揚し、良太は軍歌に声をはりあげた。いくつかの歌をうたい終えると、声を合わせて万歳を叫んだ。忠之を含めた周りの者が良太を抱え上げ、胴上げが始まった。
胴上が終わると忠之が言った。「もういいだろう。千鶴さんが待ってるぞ」
「おかげで面白い体験ができたよ」と良太は言った。「お前が言ったように、いい思い出になる。ありがとうな、忠之」
4人は駅舎に入り、別れの言葉を交わしながら改札口に向かった。
発車時刻までにはゆとりがあったけれども、良太は忠之と沢田に改札口で別れを告げ、千鶴とふたりでプラットホームへ向かった。
プラットホームについたふたりは、発車までの時間を壁を背にして過ごした。
良太の快活な語りかけに千鶴が笑顔で応えたとき、良太は千鶴に顔をよせて言った。
「千鶴、そんなふうに笑ってくれると嬉しいよ」
「ごめんなさい。うっかりしてて」千鶴が笑顔で言った。
「それでいんだよ。千鶴にはいつも笑顔でいてほしいんだ」
「わかったわ、約束する。めそめそしたりしないから」
発車時刻が近づいた。
良太は千鶴の横に体をよせて、トランクの陰で千鶴の手をにぎった。
「千鶴がいてくれたおかげで、最良の学生生活になった。ありがとうな、千鶴。これからは、戦争がもっと大変なことになると思うけど、元気でがんばってくれよな」
「良太さんもがんばってね。体に気をつけて」
「それじゃ行くよ」と良太は言った。
千鶴が体をまわし、良太に向きなおって言った。「必ず無事で還ってきて。良太さんの無事を祈りながら待っているから」
千鶴の眼に涙がにじみ、すぐにあふれて頬をつたった。
千鶴はモンペのポケットからハンカチを取りだし、涙をふきながら言った。「ごめんなさい、泣いたりして」
「いいんだよ、千鶴。泣いたっていいんだ。だけど、これからは、めそめそしてはだめだぞ。明るく元気な千鶴でいてくれよな」と良太は言った。
良太は千鶴の手をにぎったまま、涙をためたその眼から、千鶴の願をしっかり受け取った。良太は心の内に誓った、俺は千鶴のこの願に応えなければならない。なんとしてでも千鶴のところに帰らねばならない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます