第18話 抱いて寝る千人針
筆無精のために欠礼しがちだったことを反省しつつ、良太は親戚や友人たちに手紙を書いた。そんな良太のために千鶴がお茶や菓子をはこんだ。千鶴は少しでも長く良太のそばで過ごせるようにと、木曜日から学校と勤労動員を休んでいた。
ふたりは良太の部屋で語り合い、そしてキスを交わした。そのたびにあの妄想の世界へと引きこまれそうになりながらも、良太はどうにか踏み留まっていた。良太は自らに言って聞かせた。千鶴の将来に責任を負うことができない以上、たとえ千鶴がそれを望んでいても、俺は耐えなければならない。
土曜日の夜、浅井家は良太のために二度目の壮行会をおこなった。その壮行会には沢田もよばれ、良太とともに宴についた。沢田も海軍への入団が決まっており、12月9日に横須賀の海兵団に入ることになっていた。
なごやかな壮行会が終わると、良太が浅井家で過ごす最期の夜も、すでに9時に近かった。残された貴重な時間を、良太と千鶴は書斎で語り合うことにしていた。
良太は書斎に移ることにして、千鶴の家族に感謝の言葉をつたえた。
千鶴の母親が言った。「森山さんのおかげで、この1年の間に千鶴はずいぶん変わったわ。ほんとに、ありがとうございました」
「僕のほうこそ、千鶴さんと出会えたことに感謝していますよ」
「そんなふうに言っていただけて、ほんとに嬉しいわね、千鶴。森山さんと話したいことがあるんでしょ。早く書斎に行きなさい」と母親が言った。
ふたりは書斎に入り、いつものように並んで腰かけた。花瓶の花はサザンカだった。
「この書斎のなかでも輝いているみたいだな、このサザンカ」
「お願いしたんだもの、サザンカに」
「お願いって、何を」
「ずっとお日さまを浴びて咲いていたから、今日からは書斎でもきれいに咲いてちょうだいねって。この前はつれてこれなかったけど、今日はサザンカがここに来たがってるみたいに見えたの」
「4月7日には沈丁花、6月2日には芍薬があるんだよな、この花瓶には」
「4月7日と6月2日には、私がここで与謝野晶子の歌集を開いて、どこかで良太さんは藤村の詩集を開くのよ。夜なんでしょ、良太さんが本を読むのは」
「消灯前に自由な時間があるらしいけど、読めるのは8時か9時頃じゃないかな」
「だったら、私は8時から9時頃までこの椅子で読むことにするわね、誕生日には」
「それじゃ千鶴がかわいそうだよ。俺たちの誕生日ごとに歌集を1時間も読むなんて」
「良太さんに書いてもらった文字を読んだり、写真を見たりしていれば、1時間くらい平気よ。この部屋には良太さんとの思い出がいっぱいあるんだもの」と千鶴が言った。
良太は気にかかっていたことを口にした。「そういえば、さっきお母さんが言ったな、千鶴は1年前とはずいぶん変わったって」
「私って自分に自信がなかったのよね。容姿にだって自信がないし、それに………」
良太は千鶴が続けるのを待った。
「私には小学校時代にあだ名があったの」
「いいあだ名だろ、千鶴のあだ名だから」
「南洋」と千鶴が言った。「色が黒かったから南洋人というわけ。いまだって黒いほうだけど、小学校の頃はすごく日に焼けてたの。いつも外で遊んでいたから」
「そうか、それで、千鶴はそのあだ名がいやだったんだ」
「いやに決まってるわよ。仲良しの友達でさえも私の気持に気づいてくれなかったわ」
「小学校を卒業したら消えたんだろ、そんなあだ名は」
「それなのに、女学生になっても自信を持てなかったのよね、私は」
「今の千鶴は、そんなふうには見えないけどな」
「どうかしら、よくわからないけど。もしかしたら、良太さんのおかげで、少しは自信を持てるようになったのかな」
「千鶴は俺の宝物だよ。これからは、千鶴のそばに居ないけど、俺がそう思ってるんだから、自信を持ってほしいな」
「ありがとう、良太さん。そんなふうに言われると、ほんとに自信を持てそうな気がするわ。遠く離れていても良太さんが居てくださるだけで、安心していることもできるし」
気がつくと、時刻はすでに10時半を過ぎていたが、少し離れた忠之の部屋でも会話が続いているらしく、ときおり沢田の笑い声が聞こえた。
「良太さんの千人針だけど、お渡しするのは明日の朝でいいでしょ。今夜も抱いて寝たいから」と千鶴が言った。
「抱いて寝るって、千人針をか?」
「そうなの。抱いて寝るのよ、しっかり良太さんを守ってくださいって祈りながら。だってね」千鶴が声をおさえた。「良太さんは、私の匂いが好きなんでしょ」
「ありがとう、いいことを考えてくれたな」良太は千鶴を抱きよせた。「俺は好きだよ、この匂いが」
良太は千鶴の首すじに唇をはわせた。良太は千鶴の匂いをむさぼりながら、首すじから顎へと唇を移した。良太は千鶴をしっかり抱いてその唇をもとめた。
ようやくにして良太は唇をはなした。千鶴は口を半ばひらいたまま、薄く眼をあけて良太の顔を見ていた。焦点の合わないその瞳が、左右にゆっくり動いていた。気がつくと、いつものように千鶴は膝のうえだった。千鶴がいとおしかった。そのままいつまでも千鶴を抱いていたかった。
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