第17話 結婚は戦争が終わった後の楽しみにしよう

 その日曜日、東京駅で知人を見送ってきた忠之が、浅井家に帰りつくなり良太の部屋にやってきた。

「話には聞いていたけど、東京駅の辺りはすごいことになってるぞ。あちこちで出陣する仲間を励ましているんだが、校歌や軍歌で励ますだけじゃなくて、最期には胴上をするんだ。出雲へ発つときにはお前もやってもらえよ、いい思い出になるから」

「俺はいやだな、そういうのは。お前と千鶴に見送ってもらうだけで充分だよ」

「そうか、お前がそう思うなら、その方がいいだろう。いい思い出になると思うんだけどな」と忠之が言った。「ところで、県人会での壮行会はどうする。せっかくだから、出席してみたらどうだ」

「この家でもう一度壮行会をやってくれるというんだよ、次の土曜日に。俺にはそれで充分だけど、せっかくだから出席させてもらおうかな、県人会のほうにも。県人会にはほとんど出席しなかったけどな」と良太は言った。

 その夜、良太が書斎に入って腰をおろすと、千鶴が二冊の書物をさしだした。島崎藤村の詩集と与謝野晶子の歌集だった。

「この詩集を良太さんにあげようと思って」

「藤村の詩集か」良太は詩集を手にして言った。「ありがたくもらって行くよ。海軍でも本は読めるらしいから」

「良太さんの誕生日のページを開いてみて。4月7日だから47ページよ」

 47ページを開くと、余白にはインクで文字が記されていた。

〈良太さんお誕生日おめでとうございます。書斎の机の上に花を飾ってお祝いをしています。飾ってあるお花は沈丁花です。良太さんが与謝野晶子歌集の47ページに書いてくださった言葉を読んでいます。良太さんの口付が思い出されます。良太さんどうか元気でがんばってください。千鶴は良太さんのお帰りを待っております。〉

 良太は千鶴に腕をまわした。

「いいことを考えてくれたな。来年の誕生日に俺はどこに居るかわからないけど、千鶴とこの部屋に居るつもりになってこれを読むことにするよ」

「良太さんの誕生日に飾るお花、沈丁花でいいかしら。4月の初めに咲いてる花で庭にあるのは沈丁花と雪柳だけど」

「沈丁花がいいな。俺は好きだよ、沈丁花の匂い」と良太は言った。

「よかったわ、気に入ってもらえて」と千鶴が言った。「つぎは私の誕生日の62ページよ」

「千鶴の誕生日は6月2日だったな」

 62ページの余白にも文字が記されていた。

〈今日は千鶴の誕生日です。私は良太さんが与謝野晶子の歌集に書いてくださった言葉を読んでいます。机の上には芍薬があります。良太さんは見えないけれど、良太さんは私の肩に腕をまわしています。良太さんと誕生日の口付をします。良太さんに誕生日を祝っていただいて私は本当に幸せです〉

「千鶴の誕生日には必ずこれを読むからな、千鶴がこの部屋に居ると想いながら」と良太は言った。

 千鶴が与謝野晶子の歌集を取りあげて、その47ページを開いた。

「ここに何か書いてちょうだい。良太さんの誕生日には、私はこの椅子に腰かけて、良太さんが書いてくださった言葉を読むの」

「想像しただけでも嬉しいよ、そんなふうにして千鶴が誕生日を祝ってくれると思うと」

 良太はしばらく考えてから、千鶴のペンを使って言葉を記入した。

〈今日は良太の誕生日。この書斎で千鶴に誕生日を祝ってもらえてとても嬉しい。いつもの花瓶に沈丁花があり、いつものように隣の椅子には千鶴が居る。いつものように千鶴と口付を交わした。抱き合っていると千鶴の匂いがする。千鶴よ誕生日を祝ってくれてありがとう〉

 千鶴が良太の横から文字を読み、「私って、そんなに匂いがあるのかしら」と言った。

 良太は千鶴の首すじに顔をよせ、「おれは千鶴の匂いが好きなんだ。かすかな匂いだけど」と言った。

 良太は歌集の62ページを開き、千鶴の誕生日を祝う言葉を書きいれた。

〈誕生日おめでとう。千鶴の誕生日を祝うことができて本当に嬉しい。机の上の芍薬がとてもきれいだ。今日は千鶴の誕生日だから特別の口付をしよう。これまでに交わしたどんな口付よりもすばらしい口付を。良太はいつも千鶴の幸を祈っている。〉

 千鶴はその言葉を声にして読み、「私たちの誕生日のための宝物だわ、この歌集」と言った。

「千鶴のおかげで俺にも宝物の詩集ができたけど」良太は千鶴を抱きよせた。「一番大事な宝物は千鶴だよ」

 良太は千鶴を膝に乗せ、その穏やかな笑顔に顔を近づけた。


 県人会による壮行会は、神田の小さな料理屋でおこなわれた。

 送られる側は良太の他にひとりだけであり、送る側の6人は、満二十歳以下の学生と忠之のような理科系の学生だった。良太は県人会に1回しか出席していなかったので、忠之のほかに憶えている学生はふたりだけだった。

 幹事役の学生が自慢げに予告していただけあって、料理はかなりぜいたくであり、酒も多かった。

 良太はいつになく深く酔い、仲間たちと共に放歌高吟し、酔いにまかせて出陣の抱負を声高に語った。ときおり忠之が声をかけた。「良太、飲みすぎるなよ」

 宴会がおわる頃になって忠之が言った。「あのな良太、俺はあいつ等の寮へ寄ってから帰ることにした。奥さんか千鶴さんに伝えてくれ、帰りが遅くなるって」

 2時間ほどの壮行会で良太はすっかり酔ったけれども、浅井家まで歩いて帰ることはできそうだった。

 壮行会が終わったあと、良太はひとりで浅井家へ向かった。途中の坂道をのぼっていると、酔った頭にさまざまな想いが去来した。この1年の間に、この道をどれだけ往復したことだろう。千鶴に会いたくなれば、雨の日であろうと浅井家に向かったものだが、今ではあの2階でくらし、いつでも千鶴と会い、語り合うことができる。学生生活の最期を、幸運なことにあの家でくらすことになった。

 良太は浅井家に帰りつくと、玄関に出てきた千鶴に、忠之の帰着が遅くなることを伝えた。2階への階段をのぼりかけると、千鶴の声が追いかけてきた。

「良太さん、だいぶ酔ってるみたいだけど、今夜も書斎で話します?」

「こんなに飲んだのは久しぶりだけど、大丈夫だよ」と良太は言った。「あとで書斎にきてくれないか」

 良太はすぐにふとんを敷いたが、まだ寝るわけにはいかなかった。酔っていようと、書斎での千鶴とのひと時を欠かしたくなかった。

 良太が書斎へ向かおうとしたところへ、千鶴が千人針の布を持ってきた。

「これが良太さんの千人針。私があと一針縫うだけでできあがるの」と千鶴が言った。

 良太は縫い付けられた赤い糸をなでながら、「俺を千鶴のところへ無事につれ戻してくれる千人針だな」と言った。

「もちろんよ。こんなふうにして」と言って千鶴は未完成の千人針を良太の体に巻きつけた。「この千人針が良太さんを守ってくれるのよ」

「そうやって巻きつけたままで縫ってくれないか、千鶴が縫ってくれる最後のひと針」

 千鶴が良太を見つめ、こくんとうなづいた。

「そうよね、私もそんなふうにして縫いたい」

 良太は布を腰に巻いてふとんに横たわり、頬杖をついて千鶴をながめた。千鶴は膝のうえにかがみこむようにして、針に赤い糸を通そうとしている。千鶴がはいているスカートは、いつもの地味なものから花柄模様に変わっている。灯火管制用の遮光幕でかこわれた電灯の光が、スポットライトのように花柄を照らしている。千鶴が糸を通しおえて身をずらすと、光のなかに膝頭が見えた。

 千鶴は良太におおいかぶさるようにして、白い布に赤い糸を縫いつけた。

 針やハサミを裁縫箱におさめた千鶴が、「できたわよ、良太さんの千人針」と言いながら、千人針の布のうえから良太をなでた。

「ありがとうな千鶴。この千人針があれば、俺の無事生還はまちがいなしだ」

「神様に祈りながら縫ったのよ、どうか良太さんをお守りくださいって。かならず元気でかえってきてね」

 千鶴のふるえる声にひかれて身をおこすと、いきなり千鶴が抱きついてきた。良太は千鶴にキスをした。千鶴がいとおしかった。良太は千鶴の舌をもとめた。千鶴がこたえる。千鶴の舌がからみついてくる。千鶴がしがみついている。俺の千鶴。いとおしい千鶴。

 千鶴にしっかり抱きしめられとき、いきなり良太を衝動がおそった。その力にけしかけられるまま、良太は千鶴のスカートに手をかけた。

 耳元で声がした。「こわい、良太さん。こわい」

 良太は我に返った。千鶴がぼうぜんとした眼をむけている。良太はあわてて千鶴の体から手をひいた。

 良太は言葉を失ったまま、千鶴の頭を両手でつつんだ。

「ごめんな、千鶴」と良太は言った。「ごめんな、驚かせて」

「びっくりしただけなの」と千鶴が言った。「私はいいから」

 千鶴の穏やかな声にほっとしながら、良太は千鶴の頭をなでた。

「私はいいの」と千鶴が低い声で言った。

 良太は酔った頭で考えた。いまの言葉はどういう意味だろう。

 千鶴の声が聞こえた。「さっきはごめんなさい。ほんとに、私はあのままでいいの」

 その言葉が意味するものを、良太はようやくにして理解した。

 良太は千鶴をしっかり抱きしめた。

「友達が学徒出陣するひとと結婚したんだもの、私たちだって結婚できると思うけど」

「できなくはないけど」と良太は答えた。「戦争が終わってからのほうがいいよ。楽しみにとっておこうよな、千鶴」

 千鶴は無言のまま、良太の頭を両手で包むようにした。

 千鶴に髪を撫でられながら、良太は千鶴の胸に顔をうずめた。深く酔っているためなのか、求めても千鶴の匂いはわからなかった。

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