第16話 不思議な夢
良太は書斎を引き上げたあと、読みさしの書物を代用机の上で開いた。その日のうちに読み終えるつもりだったが、眼に疲れをおぼえたので、あお向けになって休むことにした。
畳に寝そべって天井をながめていると、いきなり眼前に見たことのない風景がひろがってきた。夢を見ているわけでもないのに、どうしたことだろうと思いながら、良太は学校の校庭らしい風景に眼をこらした。校庭の外れに滑り台やぶらんこがある。ふたつで一組のぶらんこがふた組ほどならんでいる。いつのまにか、良太はぶらんこのそばに近づいていた。ぶらんこはいずれも、頑丈な木材の支柱に取りつけられている。ひと組みのぶらんこの上には桜が枝を伸ばしている。
気がつくと、良太は畳のうえであお向けになっていた。俺は夢を見ていたのか。そんなはずはない。眠ってもいないのに夢を見ているようだと、不思議に思つつあの光景を眺めていたではないか。こんな夢があるはずはない。それにしても、あの光景はその場にいるように鮮明だった。
良太は思った。俺はやはり夢を見ていたのだ。この夢がこれほど気にかかるのは、見た光景があまりにも鮮明で、目覚めてからもはっきりと覚えているからだろう。
11月14日の日曜日、良太と千鶴は10時過ぎに家をでて、晩秋の穏やかな陽射しのなかを東京大学に向かった。
大学をひと通り見てから、ふたりは湯島天神に向かった。
「ねえ、良太さん」と千鶴が言った。「帝大で私がいちばん興味があったのはどこだと思います?」
「図書館、講義室、古い建物。どこだろう」
「良太さんが講義を受けた教室。教室で黒板を見ている良太さんを想像してみたの」
「そういえば、あそこで千鶴は聞いたよな、俺がどこに座って講義を受けるのかって」
「良太さんを見習って、私もなるべく前の方の席で授業を受けるわ」
「そうだよ、千鶴は立派な薬剤師になるんだからな」と良太は言った。
湯島天神につづいて幼稚園を見たあと、ふたりは千鶴が学んだ小学校を目指した。その道すがら、千鶴が学校の思い出を語った。
ふいに良太は奇妙な想いにとらわれた。数日前の夢に現れた学校は、これから訪ねようとしている千鶴の母校にちがいない。
良太は言った。「なあ、千鶴。ちょっと聞いてほしいんだ」
千鶴が笑顔を向けた。「なあに、良太さん」
良太は数日前に見た不思議な夢について語った。校舎の形や付属している建物の配置、さらには校庭の雰囲気やぶらんこのこと。夢に見たその光景が、これから訪ねようとしている、千鶴の母校のそれと似ているような気がすること。
「もしかしたら、学校を見ることにしていたからじゃない?、そんな夢を見たのは。建物の形や校庭の様子はその夢に似てるけど、ぶらんこの柱は鉄でできてるのよね、木ではなくて」
「学校なんてみんな似ているんだから、夢で見た学校が千鶴の学校に似ていても、別に不思議なことじゃないよ。夢を気にするなんて、俺もどうかしてるよな」
そのうちに、良太の予感は確信に変わった。あの夢で見たのは千鶴の母校の校庭であって、もうすぐ目の前にあの光景が現われるのだ。良太は奇妙なその感覚を千鶴に告げずにはいられなかった。
学校の前につき、校庭に入ったところで良太の足がとまった。全身に鳥肌がたった。
「ここだよ、千鶴……俺は夢の中でここに来たんだ。似ているんじゃなくて同じだ。ほんとだよ、千鶴」
「どうしたのかしら、良太さんは。そんなことって、あるかしら」
「あるはずがないだろ、こんなこと。はじめて訪ねる場所を前もって見るなんてこと、できるわけがない。しかも俺がそのときに居たのは2階のあの部屋だぜ」
「あの辺りまで行ってみましょうよ。もしかすると、夢とちがうところが見つかるかも知れないから」
良太は校庭のはずれに見えるぶらんこを確かめたいと思った。ふたりは校庭を横ぎってぶらんこに近づいた。
もはや疑うべくもなかった。ぶらんこの形と色、ぶらんこの近くにある滑り台の形とその配置、さらには近くに見える砂場まで、夢で眺めた光景と変わらなかった。ぶらんこのうえに伸び出している桜の枝も、夢で見た形でひろがっていた。
千鶴がぶらんこの柱にふれて、「さっき良太さんが話していた通りだわ。柱が木に変わってる。場所は昔のままだけど、私が知っているぶらんこの柱は鉄だったのよ」と言った。
夢とそっくり同じ光景を眼前にしながら、良太は驚愕と混乱のなかにいた。このようなことが真実であるわけがない。科学的にはあり得ないことだ。それでは、あの夢と完全に一致する場所に立っているこの現実を、どのように説明したらよいのだ。俺はいま、人類にはまだ未知の、不可思議な世界の入口に立たされているような気がする。
「なあ、千鶴」と良太は言った。「自分で体験したことなのに信じられないよ、こんなこと。同じ指紋を持つ人間はいないと言うけど、もしかすると、同じ指紋を持つ人間が何人も集まるという、考えられないような出来事もあり得るんじゃないかな。おれが見た夢とこの校庭が何からなにまでそっくりなのも、そんな出来事のひとつかも知れないな」
「良太さんは、ここに来る途中でわかったんでしょ、もうすぐ夢で見たのとそっくりな所に行くんだって。どうしてわかったのかしら」
「それも不思議だけど、俺には感じられたんだよ、あの夢の景色をもうすぐ見ることになるって。予感というより、絶対にそうなるんだという気がしたんだ」
「神様かしら、良太さんに教えてくれたのは」
「神様ならば、もっと意味のあるものを見せてくれそうな気がするけどな」
良太には全身に鳥肌が立つほどのできごとであったが、そのことに拘って時間を費やすわけにはいかなかった。良太と千鶴はぶらんこの傍をはなれて校舎へと向かった。校舎や講堂の周囲を歩きながら、千鶴は良太にその学校での思い出を語った。
見学を終えてふたたび校庭にもどると、前方に先ほどのぶらんこが見えた。
「あのぶらんこでけがをしたのよ、2年生のとき。すりむいたところから血がいっぱい出たので、泣きながら家に帰ったわ。そんなことでも、なんだか懐かしいわね」
「千鶴が2年生のときには俺は5年生だったんだ。たった10年ほど前のことなのに、俺にも小学校のことが懐かしく感じられるよ」
「いつか話し合ったわね、子供の頃には時間が長く感じられたこと。小学校の頃がなんだか昔のことみたい」
「この学校、千鶴が通った頃と変わっていないだろ。建物や花壇や遊び道具など」
「ぶらんこの柱が木になったのと、名前が国民学校になったことね、変わったのは」
「大事な日用品の鉄やアルミまで、軍艦や飛行機のために供出させられるんだから、ぶらんこの柱なんかは真っ先に木に変えられたんだろうな」と良太は言った。
ぶらんこの近くにベンチがあった。ふたりはそこで昼食をとることにした。
ふたりは良太が見た不思議な夢を話題にしながら、千鶴が作った握り飯を昼食にした。
「夢で見た景色はこことそっくり同じだから、あれが普通の夢だったとは思えないし、心が体を抜け出してここに来たと仮定しても、見たのは昼間の景色だったから、これも否定するしかないわけだよ。そもそも、心が抜け出すことなどあり得ないしな」
「もしかしたら、予言者って、良太さんみたいにして未来のことを知るのかしら」
「今はわけがわからなくても、科学で説明できる日がくるかも知れないよ、何百年も何千年も先になるかも知れないけどな」と良太は言った。
つぎに訪ねるのは小石川植物園だった。つれだって歩きながら、千鶴は女学校での思い出を語った。良太に聞いてもらえることが嬉しくて、千鶴は夢中になって語り続けた。
好天に恵まれた日曜日だったが、戦時の植物園にはわずかな人影しかなかった。
園内をめぐりながら千鶴は語り続けた。少女時代のできごと。家族との思い出の数々。千鶴は思い出話を夢中で語り、良太はひたすらに聞き役をつとめた。
植物園の出口に向かう頃になってようやく、千鶴はしゃべり過ぎたような気がした。
「ごめんなさいね。なんだか私、随分おしゃべりになったみたい」
「それでいいんだよ。今日は俺が千鶴のことを知るための日じゃないか。千鶴のこと、もっと知りたいくらいだよ」と良太が言った。
浅井家を出てからの数時間を、ふたりはほとんど歩きづめだった。千鶴の故郷をめぐる小さな旅を終えることにして、ふたりは植物園をあとにした。
その一日を良太に満足してもらえたことが嬉しく、千鶴は帰り道でも饒舌だった。話しながら千鶴は良太に笑顔をむけた。良太の笑顔が千鶴をさらに喜ばせた。
付記
良太が体験した予知夢は、作者自身の2度にわたる予知夢体験を参考にしたものです。予知夢を体験した者にとっては真実であろうと、未体験者には絵空事と思えることでしょう。時間の概念が覆るできごとであり、いかに科学が発展しても、その解明は難しそうに思えます。
科学で説明できないことを体験した科学者たちが、その体験を書物に著しており(電子工学に関わる人が多い。例:坂本政道、天外伺朗(本名土井利忠)、森田健、 矢作直樹)、図書館の多くで蔵書になっております。
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