第15話 恩師からの手紙

 木曜日の午後、大学から帰ってみると、忠之の父親から手紙がきていた。自分の部屋に入るとすぐに良太は手紙をあけた。

〈………徴兵検査の結果を知らせに来てくれたとき、君は私への恩返しをしないままに出征する不安を口にした。私はそのようなことを気にする必要は全くない旨伝えたはずだが、忠之からの手紙で君がその不安を抱き続けていることを知り、この手紙を送ることにした次第。

 君にそのような不安を抱かせていたことを、私はまずはじめに謝らねばならない。君はすでに私に対して充分に恩返しをしてくれているのだから。

 私は村の小学校に転任して君の学級の担任になった。私の見るところ、君には純真なところと共に内向的なところがあった。内向的なる言葉には内向きで非発展的な響きがあるが、私はそうは思わない。そのような人は自らを返り見つつ、自らの生きる道を切り開いてゆく力を備えていると思う。その頃の君には目立つところはなかったのだが、学業成績は良いほうだった。忠之はといえば学科によって成績に極端な差があった。そこで私は君に助力を乞うことにした。そのために私がいかなる手立を講じたのか、賢明な君にはこれ以上の説明を要しないはず。私は忠之のために君を利用したわけだが、忠之のためだけでなく、君のことをも充分に考えていたことをもって御容赦願いたい。

 君の御両親も私たち夫婦も見合い結婚であったが、申し分のない家庭を築くことができている。それと同じように私がいくらか手助けをしたとはいえ、それまで互いに遊ぶことも少なかった君と忠之が、期待した通りに親密になってくれ、君は忠之にとって貴重な存在になってくれた。君には忠之と共に中学へ進んでもらいたいと考え、御両親に学資の援助を申し出た。そのようにして、結局のところ君には忠之と共に大学まで進んでもらうことになり、十年前に私が願った以上の結果がもたらされた。私は君に感謝しなければならない立場にあるわけだが、このことを君と忠之には報せず、君には私にたいする恩義を強く意識させ続けたことになる。出征を前にした君への配慮が至らなかったこと、どうか許してもらいたい。

 君には私に対してさらなる恩返をすべき義務はない、ということを伝えるための手紙だが、このことは忠之にも報せたほうが良いという気がするので、君さえかまわなければ、この手紙を忠之にも見せてやってはくれまいか。その判断は君にまかせます。

 君には親しくしている娘さんがいるらしい。忠之が婚約するよう勧めたところ、今の状況で出征すれば生還を期し難いゆえ、自分には婚約する資格がないと答えたとのこと。私は君にはその人と婚約する充分なる資格があると考えるが、相手の人の将来に対して責任を全うできなくなる虞れがあることも確かだ。君自身が虞れるのもその点にあると思いつつ、私の考えを記させてもらう。………〉

 読み終えた最後の便箋を手にしたまま、良太は想いの底に沈んでいった。恩師に対する深い感謝の念に加えて、大きな安堵感があった。恩師が良太を利用していたにしろ、良太は迷惑を受けなかったし、受けた厚意がむしろ勝っていた。その手紙を読んで、報恩をさらに強く願う気持になったけれども、それを負担に思う気持は重くなかった。その負担を苦にすることは、恩師の恩情にそむくことでもあった。返事を兼ねた礼状をすぐに書こうと思った。

 良太は部屋をでて廊下の窓から庭を見おろした。まだ小さな麦の芽が幾つもの列をなしている。庭のはずれのサザンカが花をつけている。晩秋の夕日を浴びて、サザンカの花が自ら光を放っているように見える。赤いサザンカは赤い光を放ち、白いサザンカは白く輝いて、寂しくなった庭を飾っている。

 良太はサザンカを眺めながら思った。忠之は父親への手紙に、どういうつもりで千鶴のことを書いたのだろうか。いずれにしても、そのために先生からは貴重な言葉をもらうことになった。たしかに、俺には千鶴と婚約する資格がある。千鶴の将来に責任を負えないことを意識しつつ、残り少ない日々を千鶴のために過ごさねばならない。

 出征を直前にしながら勉学に励んできたのは、岡先生への義理立のためだけでなく、俺自身のためにもそれが必要だったからだ。死に直面する事態に備えて、人生の何たるかを理解しておきたいし、海軍に身を置くための心構えも確立したい。そのために多くの書物に眼を通したが、満足すべき結果を得るには至らなかった。

 東京で過ごせる日数も少なくなったからには、これ以上の読書を重ねるよりも、日常を充実したものとすべく努めたほうが良さそうだ。今日は大学に休学届けを出したが、もっと早くに出しておけば良かったという気がする。

 陽射しのなかに千鶴があらわれた。千鶴は畑のわきを通ってサザンカに近づき、ぽつねんとたたずんで花を見ている。どの花を選んだらよいのか迷っているみたいだ。夕日をあびた千鶴のうしろ姿が孤独に見える。俺がここを去ってから、千鶴はどのような日々を過ごすだろうか。もしも俺が戦死するようなことになったら、千鶴はどうなるだろう。俺は絶対に生きて還らなければならない。千鶴を悲しませるようなことをしてはならない。

 千鶴はサザンカをはなれて、菊の花に近づいてゆく。花瓶には菊を活けることにしたようだ。

 千鶴が菊をえらび終えるのを見とどけてから、良太は自分の部屋に入った。恩師への返書をすぐにも書きたかった。

忠之が外出先から帰ったらしく、隣の部屋の戸が閉まる音が聞こえた。良太は恩師からの手紙を持って忠之の部屋に向かった。

 忠之は受けとった手紙を机におくと、「県人会の者たちと、お前らの壮行会をやることになったんだ。せっかくだから出席しろよ。いい思い出になると思うぞ」と言った。

 良太は県人会にはめったに顔を出さなかったから、壮行会への出席はためらわれた。

「いつなんだ、その壮行会は」

「火曜日の夜だ、来週の。お前みたいに先月の壮行会に出られなかった者がいるから、もう一度やることになったんだ」

「そういうことなら、できたら出席することにするよ」と良太は言った。

 良太が自分の部屋に帰り、恩師への返事を書いていると、忠之が手紙を返しにきた。

「読んだぞ、この手紙」と忠之が言った。「気に障るところがあるかも知れないが、許してやろうぜ。俺にはいい親父だし、お前にはいい教師のはずだから」

「俺にとっては最高の先生だし、お前には最高の親父さんだよ、岡先生は」

「そうか………親父に返事を出してやってくれないか」

「ああ、お前の分も書いとくぞ」と良太は言った。

 その夜、千鶴は書斎の机でアルバムを見ていた。良太のための椅子はすでに横に並べてあった。

 入ってきた良太が椅子に腰をおろすと、千鶴は良太の前にアルバムを押しやった。

「私の大事な写真。千恵も持ってるのよ、同じようにして」

「子供の頃の千鶴に会えそうだな」

「見たいでしょう、私の子供の頃の写真」

 千鶴は腕をのばしてアルバムをめくった。

「これは七五三のとき。私も子供の頃にはかわいかったでしょ」

「その頃ここに下宿していれば、こんな千鶴に会えたのにな」

「そうよ、もっと早く来てくれたらよかったのに」

 その写真の並びには、千鶴が両親とともに写っている写真があった。

「眼鏡をかけてたんだな、千鶴のお父さんは」

「お母さんに言わせるとね、本を読み過ぎたからだって。この本棚の本をみんな読んだんだから仕方ないわよね」

「忠之が近眼になったのはなぜだか分かるか」

「どうしてかしら」

「俺よりも一冊だけ多く読んだからだよ」

 千鶴は声を抑えて笑い、「それなら、私はあと何冊ほど読めるかしら、近眼の心配をしないで」と言った。

「千鶴の眼がいいのは神様のおかげなんだよ」

「だったら、安心して勉強してもいいわよね」

「きっと、いい薬剤師になれるよ、千鶴は」

「うれしい、良太さんにそう言われると」と千鶴は言った。

 千鶴はアルバムをめくった。

「小学校一年生のわたしよ。入学式の日に玄関でお父さんが写してくださった写真。日曜日には、私が通った小学校にも行ってみましょうね」

「そうだな、千鶴のお転婆時代の学校は見ておきたいよ」

「いやだな、もしもそんな証拠が学校に残っていたら」

「そんなにお転婆だったのか、千鶴は」

「いやだわ、良太さん、もちろん冗談よ」

 父親がカメラを買ったので、千鶴には小学生時代の写真がたくさんあった。

「これは湯島天神で写した写真。日曜日にはここにも行ってみましょうか」

 千鶴はさらに次の写真を見せて言った。「小学校の運動会。千恵は走るのが速かったけど、私はあんまり得意じゃなかったわね」

 何枚かめくったところで千鶴は一枚の写真をさした。

「これは植物園でお父さんに撮ってもらった写真。私が女学校に入学した頃よ」

「千鶴がますます可愛くなった」

「はいはい、わかりました。それではもっとかわいいのをご覧にいれましょうか」

 千鶴は別のアルバムを引き寄せて中ほどを開いた。そこには同じ写真が二枚はさんであり、まだ貼りつけてなかった。祖父が写してくれたその写真には、良太と千鶴が並んで写っている。夏休みに帰省する良太に、文庫本にはさんで渡した写真と同じものだった。千鶴はその一枚を良太に渡した。

「とうとう世界で一番かわいくなった」

「へただわね、良太さんは。もうちょっとだけ遠慮した言い方をしなくちゃ」

「いいじゃないか、俺にとってはほんとにそうなんだから」

「うれしい」千鶴は良太に体をおしつけた。

「千鶴が俺の子供の頃を知りたいと思ったみたいに、俺も千鶴の子供の頃のことを知りたくなった。楽しみにしてるよ、小学校や幼稚園の見物」

「日曜日は昼前に出かけましょうね、お弁当をもって」と千鶴は言った。

 それから間もなく良太は書斎を出ていった。千鶴は書斎に残り、終えたばかりのキスの余韻にひたりながら日記をつけた。

 千鶴は日記をつけ終えると、花瓶を引きよせて菊の花をながめた。今日はサザンカをとりに出たのに、命の盛りを謳歌しているようなあの花を見たら、切りとることができなくなった。不吉なことでも起こりそうな気がして菊に代えたが、サザンカを選んでおいたなら、良太さんにもっと喜んでもらえたような気がする。

千鶴は書斎を出ると、足音をしのばせて階段の降り口に向かった。ふたつ並んでいる部屋はいずれも、いつものように静まりかえっていた。



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