第14話 愛する者たちとの絆を想う

 良太は講義を選んで出席し、講義を受けない時間は図書館で過ごした。パン屋の仕事はすでに10月にやめていたので、浅井家での読書にも多くの時間を使うことができた。そのようにして、良太は学生時代にくぎりをつけるための勉学にはげんだ。

 月曜日の午後、良太は図書館の閲覧室にいた。次の講義が始まるまでにはまだ時間があった。眼を休めるために閲覧室のはずれにある時計をながめていると、前夜のことが思い出された。手のひらが千鶴の感触をおぼえていた。

 その朝、良太が階段をおりると、それを待っていたかのように千鶴があらわれ、明るい笑顔で声をかけてきた。千鶴のその声と笑顔が、良太には、自分のすべてを千鶴が受け入れてくれ、そして信頼してくれている証しのように思われた。

窓の外に眼を転じると、色づく前の木々の葉が午後の日に照らされていた。良太はふと思った。もしも俺が戦死したなら、千鶴はどうなるだろう。出会ってから1年あまりしか経っていないが、俺に対する想いと記憶が、千鶴にはしっかり張り付いているはずだ。

 良太は慄然とした。千鶴との間に思い出を残すことすら、千鶴にとっては残酷なことかも知れない。俺が戦死してからいくばくかの歳月が過ぎ、千鶴は新しい人生の伴侶を見つけだす。そのためには、俺との楽しい思い出などはむしろ無いほうが良さそうだ。鎌倉には行かないほうが良かったのかも知れない。次の日曜日をふたりで楽しむことも、取りやめにすべきではないのか。それどころか、今のうちに千鶴との仲を疎遠にしておくべきではないか。

 良太は堪え難いほどの寂寥感におそわれた。いまの俺には千鶴を楽しませ、喜びを与える資格すらないのだろうか。千鶴を愛する資格がないということであろうか。俺には千鶴から愛される資格すらないのかも知れない。俺が生きて還れる可能性は微々たるものに過ぎない。そのような俺には愛される資格などあろうはずがないのだ。

 気がつくと、次の講義がとうに始まっていた。机の上には読みさしの書物が開いたままになっていたが、読書にたいする意欲は失われていた。

胸の奥に寂寥感を抱いたまま、良太はふたたび想いの底に沈んでいった。

千鶴を愛する資格もなければ、愛される資格もないのではないかと不安を覚えたのは、生還の可能性がほとんど無いと思える自分の立場を思い、俺が戦死した場合の千鶴の将来を考えたからだが、千鶴自身はどう思っているのだろうか。俺が戦死した場合のことを、千鶴は考えたことがあるのだろうか。出征することになってから、千鶴はむしろ積極的に働きかけてくるようになった。千鶴はすぐにも俺と結婚したいと言う。俺に戦死のおそれがあることが、俺にたいする千鶴の気持を強めたのだろうか。千鶴の気持は嬉しいのだが、これから先の千鶴のことを思えば、安易に応えてやることはできない。俺が戦死するようなことになっても、千鶴には生きてゆくべき長い人生がある。

 もしも俺が戦死したなら、家族は深い悲しみに沈んだまま、容易にはそこから抜け出せないことになる。千鶴もまた、俺の家族と同様に、大きな悲嘆を味わうことになる。俺の戦死が家族にもたらす悲しみを軽減したいがために、あらかじめ家族との絆を断ち切っておくことなどできないが、今となっては千鶴に対しても同じことが言えるのだ。

 机の上に日がさしてきた。隣の建物が夕日をあびて、窓ガラスがまぶしく光っていた。良太は椅子から立ちあがり、書籍を返却するために書架にむかった。良太は歩きながら思った。たしかに、俺と千鶴はすでに強い絆で結ばれているのだ。戦死するような場合にそなえるためであろうと、千鶴を遠ざけることなどしてはならない。とにもかくにも今の俺がなすべきことは、生還を期し得ない自分の立場を意識しつつも、千鶴の気持ちに可能な限り応えてやることだ。そうすることが、今の俺と千鶴にとって最も価値があり、意義のあることだという気がする。


 火曜日に良太は父親からの手紙をうけとった。海軍への入団が決まったことはすでに電報で報されていたが、その日の手紙によって入団までの詳細な日程がわかった。良太は12月9日に舞鶴海兵団へ出頭することになった。残されている日数はひと月だった。

 その夜、良太が書斎に入ると、千鶴の横にはすでに椅子がならべてあった。

「千鶴、日曜日の行き先、良さそうな場所があったよ」と良太は言った。

 良太は千鶴の横に腰をおろすと、千恵から借りた地図をひらいた。

 良太が選んだのは霞ケ浦だった。故郷に似ていそうな田園地帯で一日をすごせば、千鶴にも喜んでもらえるだろうとの期待があった。

「霞ヶ浦に行ったことはないけど、俺の故郷に良く似ていそうな気がするんだ。田圃が遠くまで拡がっていて、その先には広い湖があるんだよ」

「良太さんの故郷にはとても興味があるし、すぐにも行ってみたいけど」

 千鶴の沈んだ声に良太は不安をおぼえた。

「どうしたんだ、千鶴。霞ケ浦には興味がないのか」

「霞ヶ浦の景色がどんなに良太さんの故郷に似ていても、景色を眺めて良太さんの故郷を想像するだけだったら、私はなんだか悲しくなりそうな気がするけど」

 千鶴の言う通りだ、と良太は思った。俺はなんと浅はかな知恵を働かせたことだろう。

「わるかったな千鶴。千鶴の言う通りだ。もっといい所をさがそう」と良太は言った。

「出雲に行くのはずっと先になるかも知れないけど、それでもいいの、楽しみにして待っているから」

「わかった。戦争が終わったら、約束通りにつれて行く」

 千鶴が机の上から地図をとり、東京市の部分を開いて、本郷の位置を指しながら言った。「ここが私の故郷。東京市から東京都に名前が変わったから、ここは東京都の本郷」

 良太は黙って千鶴がつづけるのを待った。

「どうかしら、今度の日曜日には、私の故郷を良太さんに見てもらうというのは」

「千鶴の故郷を見るって、本郷を見物して歩こうというのか」

「良太さんは見てみたいと思わない?、私が生まれて育ったところ」

「もちろん興味はあるんだけど……」

 良太が言葉を探していると千鶴が言った。「見てもらいたいものがいっぱいあるの。私が通っていた幼稚園や小学校。私がけがをした小学校のぶらんこ。亡くなったお父さんに連れていってもらった植物園もあるし。案外あるでしょ、いろいろと」

 いきなり良太は強く思った。千鶴の人生にまつわるものを見てみたい。

 良太は千鶴を抱きよせて、「そうだよ、千鶴、見たいよ、そういうのを。ぜひ見せて欲しいな、千鶴の故郷を」と言った。

「それからね、良太さん」千鶴の声がはずんだ。「私の故郷にあるのに、私がほとんど知らない所があるのよ。どこだと思います?」

「そう言われても見当がつかんよ。俺は東京のことをろくに知らないからな」

「私よりもずっと良太さんが知ってる所、さてどこでしょう」

「帝大のことか?」

「あたりました」と千鶴が言った。「帝大は近いから友達と構内を歩いたことは何度もあるけど、歩いただけって感じなの。どこにどんな建物があるのか知っているけど、それが何をするための建物か分からないのよね、そんなこと当たり前だけど」

「わかったよ、千鶴。帝大の中を案内してやる。明日でもいいよ」

「だったら、日曜日にしない?お弁当を持って。私の故郷を良太さんにゆっくり見てもらえるし、ついでに良太さんに帝大を案内してもらえるから」

「じゃあ、そういうことにしよう。よかったよ、千鶴がこんなにいい考を出してくれて。ごめんな、千鶴の気持を考えないで霞ヶ浦なんかを選んで」

「ほんとはね、私はもっとわるいの。だってね、今まで何も考えないでいて、この考を思いついたのは、たった今なんだもの」

「もしかしたら神様のお陰かも知れないぞ。我が愛する千鶴よ、汝に良き知恵を授ける。それで突然に千鶴は思いつく」

「神様だなんて」千鶴が笑顔をむけた。「神様に愛される資格があるのかしら、私に」

「世界で一番愛されているのが千鶴で、二番目は俺だよ。その証拠に、俺たちはこんなふうになれたじゃないか」

 良太が千鶴の唇に中指でふれると、千鶴はその指をかるくくわえた。

 くわえていた指をはなして千鶴が言った。「それなら私は神様にお願いするわ。どんなことがあっても、良太さんを無事に私のところへ還してくださいって」

「大丈夫だよ、おれは運がいいから」

「約束して」

「約束する。還ってこなければ、他の約束もはたせなくなるからな」

「必ず生きて還ること。私と幸せに暮らすこと。良太さんの故郷を見せてくれること。いっしょに出雲の星空を見ること。ほんとね、いっぱい約束してくれたわね、良太さん」

「出雲の星空か……」

「良太さんと眺めること、楽しみにしてるの」

 千鶴が机の引き出しをあけ、ノートを出してせわしなくめくった。

「この日は映画の姿三四郎を見た日よ。帰り道で話したこと、覚えてるでしょ」

「もちろん覚えてるよ」

 ノートをめくった千鶴が、日付をさして笑顔をむけた。

「この日のこと、覚えてます?」

 良太は千鶴に軽くキスをしてから言った。「覚えているよ、もちろん。はじめてパイナップルを食った日だ」

 千鶴が含み笑いした。

「そうよ、そのこと、ここに書いてあります。今日はじめて良太さんと……」

「そのあとに書いてあるんだろ、出雲の星を見る約束をしたこと」

「やっぱり良太さん、よく覚えてるじゃない」

「なんと言ったって、初めてパイナップルを食った日だからな」と良太は言った。「あのことも書いたんだろ、この間のパイナップルのこと」

 千鶴がにこやかな笑顔を見せた。

 良太は千鶴の顔をのぞき込むようにして言った。「なあ、千鶴」

「なあに、良太さん」千鶴が甘えた声で応じた。

 良太は千鶴を抱きよせた。

「これからはパイナップルだよ、これは」

 良太は千鶴に顔を近づけた。良太はすぐに唇をはなすつもりだったが、千鶴がそれを許さなかった。

 書斎でのひとときが過ぎ、良太が自分の部屋に引きあげてから、千鶴は日記をつけるためにノートをひらいた。

 千鶴は日付を記しただけでペンをおき、何から書きはじめようかと考えた。まず書くべきは、千鶴の故郷を見て廻る計画のことだったが、良太の提案も面白いと思った。これからは、口付のことをパイナップルと呼ぶことになった。良太さんと書斎に入れば口付をしないではいられない。それがすっかり習慣になったが、鎌倉を訪れた日の夜の、あの口付は特別だった。

 千鶴は鎌倉を訪ねた日の日記を開いた。そのページを開いただけで、その夜のことが思いだされた。口付をしているうちに、甘美な感覚が全身に拡がるように感じられ、むしろ不安をおぼえて思わず唇をはなした。気がつくと、私を抱いている良太さんの手が、シャツの内側で私にふれていた。恥ずかしいとは思わなかったし、不安もまったく感じなかった。良太さんを見ているだけで安心できた。

 静かな夜だった。良太と忠之いずれの部屋からも、物音は聞こえなかった。千鶴はペンをにぎった。

 千鶴は日記を書きおえて書斎をでると、音をたてないようにドアを閉め、把手に手をかけたまま耳をすました。すぐ目の前が良太の部屋だった。中からは何も聞こえなかった。千鶴は静かな足取りで階段に向かった。

 階段を降りたところで千鶴の足がとまった。あと戻りして良太さんの部屋に入ってみたい。もしもそんなことをしたなら、どんなことになるのだろうか。

 そのとき部屋の戸があく音がして、忠之の声が聞こえた。「おい良太、ちょっと話したいことがあるけど、いいかな」

 忠之の呼びかけに応える良太の声が聞こえた。千鶴は思った、私にしかできないことがあるように、岡さんが良太さんのためにしてあげられることがある。岡さんがいてくださってほんとうに良かった。

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