第13話 鎌倉の海を眺めて

 日曜日に、良太たちは鎌倉へ向かった。忠之が肩にかけている雑嚢の中には、3人分の弁当や水筒が入っていた。

 鎌倉に着いた3人は、街を散策しながら鶴岡八幡宮をめざした。

「なあ良太」と忠之が言った。「お前も俺も宗教心というものを持ち合わせていないようだが、村の祭は待ち遠しかったよな、出店でおもちゃを買う楽しみがあったから」

「あのころから十年たって、おれ達は鶴が岡八幡宮に参詣しようとしているわけだ」

「お前が出陣する前に参拝する八幡宮だ、今日はまじめに拝もうぜ」

「私は必死にお願いするわ、良太さんを絶対に無事に還してくださいって」

「ありがとうな。お前らがしっかり拝んでくれるから、武運長久は疑いなしだよ」

 参拝をおえた3人は石段に腰をおろして、良太が手にしている紙片を見ながら話しあった。何かの資料をもとにして千鶴が用意したその紙片には、鎌倉の略図に名所や旧跡が記入してあった。

「先に建長寺や円覚寺へ行くと、海からだんだん離れてしまうわね」

「千鶴が海の近くに行きたいのなら、おれもそっちでいいよ」

「それなら、あちこち見ながら海の方へ行ってみようか」

「まだ早いけど、今のうちに昼飯にしないか。ここなら場所もいいし」

 腰をおろしている石段は、ならんで握飯を食うには好適な場所であったが、通りすぎる参詣者からは訝しそうな眼を向けられた。

「ときどき私たちを変な眼つきで見る人がいるわね。何だかこわいわ、私」

「もしもだよ、巡査に何か言われたときには、どうする、良太」

「出征するので八幡宮にお参りにきたんだ」

「どうして女をつれている」

「その場合には……」

「いっしょに祈願するために、婚約者をつれて来ました、と言えばいいんだよ」

 思わず千鶴に顔を向けた良太は、千鶴と顔を合わせることになった。

「なんだなんだ、まだ婚約していないのか、お前らは」

「わかったよ。巡査に聞かれたときには、そんなふうに答える」

「それでよし、それが一番いい答え方だ」と忠之が言った。

 食事をおえた3人は稲村ケ崎をめざした。時間に充分ゆとりがあったので、途中で長谷の大仏に立ちより、極楽寺にもより道をした。ようやく海辺に着いた3人の前には、穏やかな相模の海が拡がっていた。

 良太は辺りを見まわした。三浦半島や伊豆半島の山並も、七里ヶ浜のかなたにそびえている富士山の姿も、戦争が始まる前と変わらないはずだった。景色に戦争のかげりは見られなくても、この穏やかな海のかなたで熾烈な戦争が戦われている。このまま戦争が長びいたなら、山河が姿をとどめようとも、日本の姿は大きく変わるかもしれない。

 感慨にふけっていると千鶴の笑い声が聞こえた。日本が敗けるようなことになったら、日本人は喜びを失い、千鶴も笑い声を忘れるかも知れない。俺が出征してゆくのは、千鶴を、子供たちを、この国に住む人すべてを護るためだが、そのために俺には何ができるというのだろうか。

「どうかしたのか、良太。また考えこんでるな」と忠之が言った。

「鎌倉に来てよかったよ。八幡宮などにも参拝できたし、こんな景色も眺められるし」

「よかったわ、喜んでもらえて」

「よかったな、良太。千鶴さんのお陰でいい一日になったじゃないか」

「鎌倉は俺たちが訪ねるのに一番いい場所だったという気がする。ありがとう。今ここでお前たちにお礼を言わせてもらうよ」と良太は言った。

その夜、読書をしていると壁がたたかれた。良太は書物をおいて立ちあがり、となりの書斎に向かった。

 千鶴の横に腰をおろすと、千鶴の前にはノートが置かれたままになっていた。

「疲れただろう。今日は随分と歩かせてしまったからな」

「大丈夫よ、私は。子供の頃から坂道を歩いているもの。学校へ通うのだって帰りには坂を登るわけだし」

「子供の頃の千鶴は、俺よりも身体を鍛えていたのかも知れないな。俺の故郷には坂道がないんだ。斐伊川の近くで田圃ばかりが拡がってるんだよ」

「早く行って見たいな、良太さんの故郷」

「戦争が終ったらすぐに行こうな」と良太は言った。「日記は終わったんだろ」

「ちょうど書き終わったとこなの。どんなことを書いたと思います?」

「今日の鎌倉のことだろ」

「そうよ、鎌倉のこと。鶴が岡八幡宮でのことも書いたわ」千鶴が笑顔を向けた。「良太さんには見せてあげてもいいけど、どうかしら」

 鶴岡八幡宮でのこととは、良太と千鶴の婚約のことに違いなかった。

 良太と千鶴はすでに婚約しているような間柄であったが、そのことが良太の負担になりつつあった。厳しい戦況を思えば、生還を期待することはできない。婚約などしていようものなら、千鶴を幸せにできるどころか、むしろ悲しい思いをさせる結果になるような気がした。千鶴と婚約する資格があるとは思えなかった。

 実質的には婚約していようと、言葉による明確な婚約は避けたい。そう思いながらも、良太は千鶴との結婚をしばしば夢想した。それだけでなく、ときおり良太は妄想にとらわれた。妄想の世界で良太は千鶴と裸で抱きあった。書斎で抱きよせる千鶴の体が、妄想の世界に良太を引き入れることもあったし、ときには、千鶴が同じ屋根の下に居ることを意識するだけでも、良太は妄想の世界に引きよせられた。妄想からぬけだしたあとでは、気恥ずかしさとうしろめたさに似た感情を抱くことになったが、千鶴の明るい笑顔を眼にすると、気持のかげりはたちまちにして消え、千鶴の笑顔に対して笑顔をもって応えることになった。良太は夢想と妄想の世界で千鶴を抱き、現実の世界で千鶴と語りあい、そしてキスを交わしていた。

 良太は千鶴の笑顔に向かって答えた。「千鶴の日記も見せてもらいたいけど、今はちょっと相談したいことがあるんだ」

「相談って、どんなこと?」

「つぎの日曜日のことだよ」

「もう決めたの?行き先」千鶴が声をはずませた。

「まだだけど、今のうちに決めておいた方がいいからな、相談しようと思って」

「鎌倉も良かったけど、この次はもっと楽しみましょうね。良太さんとふたりだけで」

「千鶴のおかげで、きょうは楽しかったよ。ありがとうな」

「鶴が岡八幡宮ではびっくりしたわね。岡さんにいきなり言われたんだもの、お前等はまだ婚約していないのかって」と千鶴が言った。「私の同級生が結婚したのよ。相手の人は学徒出陣する人ですって。私たちも結婚できないかしら、良太さんが出征するまでに」

 良太は思った。できるものなら今すぐにでも千鶴と結婚したい。千鶴と結婚できればどんなにいいだろう。とはいえ俺は出征する身だ。戦死するようなことになったら、千鶴を悲しませるだけでなく、千鶴に厳しくてつらい人生を強いることにもなりかねない。生還を期待できない俺には千鶴と結婚する資格はない。

「この戦争はそんなに長くは続かないと思う。戦争が終わったらすぐに結婚しよう」と良太は言った。

「戦争が終わってからというのは、なんだか漠然とした感じがするのよね、私には」

「戦争は1年か2年の内に終わるよ。そうなれば結婚できるんだよ、俺たちも」

「私たちはもう婚約してるわね。もっともっと幸せになろうって約束してるんだもの。戦争が終われば結婚するんですもの」

 良太はその問いかけには答えないまま、千鶴を抱きよせてその首筋に唇をつけた。いきなり千鶴が体をよじり、唇を押しつけてきた。

 千鶴のもとめに応え、舌をたがいに求めあっていると、良太はいつしか妄想の世界に入っていた。良太はキスをしながら千鶴のシャツを引きあげ、その内側に手をさしこんだ。

 千鶴がいきなり唇をはなした。良太が我に返ると、千鶴が半眼のまま、焦点の合わないまなざしを向けてきた。一瞬うろたえた良太は、千鶴の肌から手をはなし、その体を抱きなおした。

 千鶴が無言のままに体をおこして、良太の胸に頬を押しあてた。キスを終えてからのそのしぐさは、いつもと少しも変わらなかった。

 良太は千鶴の首筋に顔を近づけた。たしかな千鶴の匂いがした。


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