第12話 出征前の思い出を作ろう
次の日、良太は浅井家に引っ越すための準備をした。家具がないので部屋をかたづけるのは容易だったが、ふだんの掃除をきちんとしていなかったことを思い、道具を借りて大掃除をした。そのあとで、出雲までの切符を買いにでかけた。徴兵検査のための帰省ということで、入手が難しくなっている長距離切符とはいえ、すぐに買うことができた。
その翌日、良太は下宿で借りたリヤカーを引いて浅井家に向かった。ふとんと代用机の他に荷物と呼べるものはないので、途中に長い坂があっても苦にはならなかった。
それまで沢田が暮らしていた部屋は、書斎に隣接する8畳の畳部屋だった。下宿の3畳半にくらべると、8畳の部屋はずいぶん広かった。
浅井家で用意された昼食をすませてから、良太は庭の畑で麦の種蒔をした。麦畑と呼ぶには狭かったけれども、浅井家に貴重な食糧をもたらすはずだった。
種蒔きを終えるとすぐに、良太は千鶴といっしょに書斎に入った。机の花瓶には菊の花が活けられていた。
「いいじゃないか、この菊。俺は好きだな、この色あいも花の形も」
「庭に咲く菊ではこれが一番好きなの。良かったわ、良太さんにも気にいってもらえて」
良太は椅子に腰をおろすと、ほとんど言葉を交わすことなく千鶴を抱きよせた。
ふたりは互いに舌を求めた。九月の夜に成りゆきでそれを経験して以来、その口付がふたりの習慣になっていた。
良太は姿勢を変えて千鶴をささえた。まだ喘いでいる千鶴のほてった身体を抱きしめたまま、良太は千鶴の匂いを求めて首すじに顔を近づけた。
その夕方、良太は夜行列車で出雲に向かった。
混雑する列車内の通路で、良太は本をかざすようにしながら読んだ。眼を休めるために顔をまわすと、少し離れた先に学生服姿があった。良太は思った。徴兵検査のために帰郷する学生だろうが、俺と違って東京に戻らないまま出征することだろう。俺は千鶴と俺自身のために一旦は東京に戻らねばならない。それからの限られた日々を、可能なかぎり有意義に過ごさねばならない。千鶴と一緒にどこかに出かけるのも良さそうだ。千鶴や忠之とのあいだに貴重な思い出を残したい。ふたりとも喜んで賛成してくれるに違いない。
良太は読書を続けることにして、本を眼の前にかざした。
帰郷してまもなく良太は徴兵検査を受けて、その日のうちに結果を言いわたされた。予想通りに甲種合格だった。
合格を告げられた時点で、良太は徴兵官に対して、海軍志望の意志を表明しておいた。
友人たちとの間では、陸軍兵営内での陰湿なしきたりがしばしば話題になった。そのような陸軍に対して、今でも軍隊内で英語が使われているという海軍には、多少なりとも知的な雰囲気がありそうに思われた。
良太が海軍を志望することに対して、両親はむしろ反対だった。龍一の戦死が海軍の危険性を強く印象づけていた。それでもなお、良太は自分の意志を通して海軍を志望した。アッツ島などでの玉砕を思えば、陸軍の方が海軍よりも安全だとは思えなかった。陸軍であろうと海軍であろうと、生還を期すことはできない状況にあった。
徴兵検査が終わってからも、良太は家族と生活を共にしながら、親戚や旧友さらには恩師を訪ねて語りあった。その間に千鶴と忠之には手紙を書いて、徴兵検査の結果と海軍を志望したことを知らせた。
生還できない場合のことを考えて、不要と思えるものはすべて処分した。龍一の遺書のことが思い出されたが、戦場にでてゆくまでには日数がありそうだったので、遺書を書くのは先送りにした。
11月に入ってまもなく、良太はみやげの米を持って東京へ向かった。
混雑している列車の中で、良太は東京での生活を想った。わずかな期間とはいえ、千鶴と同じ屋根の下で暮らす日々が始まろうとしていた。
浅井家に着いてみると、千鶴と忠之はまだ帰宅していなかった。
良太は畑の手入れをすることにして庭に出た。芽を出したばかりの麦を眺めていると、畑をつくった頃のことが思い出された。良太は願った。この畑が浅井家に少しでも多くの恵をもたらしてほしい。
うしろの方で千鶴の声がした。「おかえりなさい、良太さん」
良太はふり返り、千鶴の笑顔に向かって手をあげた。
千鶴は歩みよるなり、「書斎で話さない?」と言った。
「こんな時間だと、千恵ちゃんが入ってきたりしないかな」
「大丈夫よ、入室禁止のはり紙をしとけば」
「お母さんが心配するぞ、千鶴たちは書斎で何をやってるんだろうって」
「冗談よ、良太さん。千恵は絶対に入ってこないわ。あのこ、案外おませさんだから」
「それじゃ、書斎で話そうか」と良太は言った。「先に行ってるよ」
書斎で新渡戸稲造の〈武士道〉を読んでいると千鶴がきて、「岡さんが帰られたわ。出雲でのことを聞きたいって。どうします?」と言った。
千鶴との語らいを夕食後にまわして、良太は書物を置いて書斎を出た。階段をおりると、忠之は千鶴の祖父と縁側に並んで庭を見ていた。
「やっぱり甲種だったな、良太」と忠之が言った。
「お前と違って俺は眼がいいからな」
「それで、うまいぐあいに海軍の方に決まりそうか」
「俺が決めるわけじゃないからな、どうなるか、まだわからんよ」
「決まるのはいつ頃だ」
「もうすぐのはずだよ。家のほうから電報で報せてくることになっている」
「たのんだよ、森山君。帝国海軍を頼りにしてるんだからな」と千鶴の祖父が言った。
「がんばりますよ、まかせてください」
「それにしても、連合艦隊はどうしてるんだろうな。どこで何をやっとるのか、近ごろは新聞を見てもさっぱりわからん」
「大きい声では言えないことですが」と忠之が言った。「アメリカの電探は性能がいいので、連合艦隊も苦労してるみたいですよ」
良太はそのことを忠之からすでに聞かされていた。電探すなわちレーダーの技術に遅れをとったことが、日本のとくに海軍を苦況に追い込んでいた。
「わしの友達もそんなことを話していたんだが、岡君も研究しているのかな、電探を」
「まだ無理ですよ、大学に入って1年ですから」と忠之が言った。「そういった方面の工場で働けば、少しは役に立てそうな気はしていますが」
「忠之、お前、やっぱり工場へ行くことにしたのか」
「残る俺たちは工場へ行くことになったんだ。飛行機や兵器の方へ行きたがる者もいるけど、俺は電探を作る会社で働きたいと思ってるんだ。今月中には行き先が決まることになっている」
「お前なら立派な電探が作れるだろうな。たのむぞ、忠之」と良太は言った。
千鶴の祖母の声が聞こえた。「あの椎の樹、やっぱり切るしかないのかしら」
「もったいないが、枝を切り詰めることにしたよ」
「畑の日当たりは良くなるけど、庭がもっと淋しくなるわね」と千鶴の母親が言った。
それから間もなく、良太は忠之といっしょに2階の部屋に移った。
「そうか、こっちにいるのはあと2週間ほどか」と忠之が言った。「講義なんか、もう受けなくてもいいだろうに」
「受けたい講義がまだあるんだ。今のうちに読んでおきたい本もあるから、これからの学生生活も案外と忙しくなりそうだよ」
「お前自身のために時間を使ったらどうなんだ。もうすぐ出征するんだぞ」
「もうすぐ出征するから本を読むんだ。今のうちに読んでおきたいものがあるからな」
良太は書物の名前をいくつか挙げた。
「こんな雑談で時間を使わせちゃわるいみたいだな」
「お前と話すのは無駄だとは思わん。これまで通りにしてくれ」
「それよりもな、千鶴さんのことを考えろ。書斎で話し合うのもいいだろうが、ときにはいっしょに出かけろよ。あさっての日曜日は丁度いい機会じゃないか」
「じつはな、おれも考えていたんだ。どうだ、お前もいっしょに出かけないか」
「俺がいっしょでどうするんだよ。千鶴さんと二人で行け」
「千鶴とは14日の日曜日に出かけようと思ってる。千鶴にはまだ話していないけど」
「そうか、それなら千鶴さん、喜ぶぞ。だけど、あさってはどうして3人なんだ。千鶴さんと二人の方がいいだろうに」
「いいから付き合えよ。もしも俺が死んだら、千鶴とふたりで俺の思い出話ができるんだぞ。良太がまだ生きていた頃に3人であそこを訪ねたことがあったな」
「わかった、わかった。付き合うよ。それで、どこへ行くんだ」
「まだ決めていないから、いっしょに考えてくれ」
「そういうことは、こっちに詳しい千鶴さんに相談した方がいいと思うな」
「もちろん、千鶴にも相談するつもりだ」と良太は言った。
夕食を終えてから、良太は書斎で〈武士道〉を読みながら千鶴を待った。目の前の花瓶にはサザンカが活けられており、かなり膨らんだ蕾が幾つもついていた。
千鶴がノックをしないまま入ってきて、良太の横に腰をおろした。
「やっと二人だけになれたわね」と千鶴が言った。
良太は千鶴の肩に腕をまわした。
「14日の日曜日に、どこかに遊びに行かないか」
「ほんとに?良太さん」千鶴がうわずった声をだした。「いいわあ、二人で遊びに行けるなんて」
「あさっての日曜日には、忠之もいっしょに出かけたいけど、千鶴はどう思う」
「岡さんもいっしょに?」
「そうだよ、忠之もいっしょに。あさっての日曜日、千鶴には何か予定があるのか」
「予定なんかないわ。良太さんの帰りを待ってたんだもの」
「だったら、出かけよう。山でも海でも千鶴が行きたい所ならどこでもいいんだけど、良さそうな所を知らないか」
「そうねえ……山や海といっても、日帰りできるとこだから、鎌倉か房総の海とか……山の方なら奥多摩や高尾山などかしら」
「たくさん知ってるんだな」
「友達や親戚のひとと行ったことがある所なの。探せばもっと見つかるでしょうけど」
「鎌倉が良さそうだな。歴史的にも興味がある所だけど、俺は行ったことがないんだ」
「だったら行ってみましょうか、鎌倉に。私は純ちゃんの家の人たちと行ったことがあるのよ。女学校の頃だったけど」
「千鶴のおかげで、あさっての楽しみができたよ」
「良太さんのおかげで、私もあさってが楽しみ。私たちのいい思い出になるわね」
「14日の日曜日には、ふたりだけで出かけような」
「なんだか夢のよう。こんなこと、ついさっきまで予想もしていなかったのに」
「あさっての鎌倉、晴れるといいな」
「だいじょうぶ、きっと晴れるわよ。だって、良太さんは運がいい人なんでしょ」と千鶴が言った。「早起きしておにぎりのお弁当を作るわね。水筒もあった方がいいかしら」
「おれか忠之が雑嚢を持ってゆくから、弁当も水筒もみんな入るよ」
千鶴が身をよせると、良太の肩に頭をつけた。「良太さんが帰ってこられただけでも嬉しいのに、こんな素敵なことまで考えてもらえるなんて」
良太は千鶴に腕をまわして、膝のうえに抱きあげた。
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