第3章 昭和18年秋

第10話 学生に対する徴兵猶予の停止

 良太はパン屋の仕事を終えると、通いなれた道を浅井家に向かった。

 浅井家につくと、千鶴だけでなく母親がいっしょに出迎えた。ふたりの表情がこわばっていた。

 良太は急かされるようにして口を開いた。「どうしたんだ千鶴。何があったんだ」

「大変なことになったわ、森山さん」千鶴の母親が良太を見すえて言った。「ラジオで放送があったのよ、学生さんも出征するんですって」

 講演会で学徒出陣という言葉を聞き、その日が来ることを予期していたものの、良太は強いショックを受けた。

 良太は言った。「いきなりだからびっくりしたけど、ほんとは、驚くほどのことじゃないと思いますよ。学生だけがのうのうとしていられる時じゃないですからね」

「大事な放送だと予告されていたから、岡さんと純ちゃんにも報せていっしょに聞いたのよ。森山さんも聞ければ良かったのに」

「千鶴、書斎で話さないか」と良太は言った。

「そうしなさい、千鶴」と母親が言った。「お願いね、森山さん」

 良太はいそいで靴をぬぎ、千鶴を追って階段に向かった。

 良太は書斎に入るとすぐに、机の上の花に気づいた。花瓶の形と色が、コスモスの楚々とした姿をひきたてていた。

「いいじゃないかコスモス。この花瓶もいいけど」

「この花瓶、お父さんが亡くなってからは使ったことがなかったの。お父さんがこの部屋を使っていた頃は、私がお花を活けたのよ、いつもこの花瓶に」

「この花瓶も本棚から出されて、なんだか生き返ったみたいに見えるよ」

「庭のコスモスを見ていて思いついたの。良太さんに喜んでもらえるような気がして」

「ありがとう、千鶴。ここに花があるのもいいけど、花瓶も喜んでいるみたいだ」

「良太さんに喜んでもらうつもりだったのに、今日はこんな日になってしまって」

「学生の出征が決まった日を記念する花だな、このコスモスは。いい花じゃないか」

「ごめんなさいね、良太さん。もっと早くにお花を活けてあげればよかったのに」

「今までは花など無くてもよかったけど、こんなふうに花があるのもいいと思うよ。千鶴がそうしたければ」

 いつものように、良太と千鶴は並んで腰をおろした。良太の腕はしぜんにのびて、千鶴の肩を抱きよせていた。

「ここで話し合うようになってから、もうすぐ1年になるわね」

「大学に入学して間もない頃だったな、初めてここで話し合ったのは」

「私は、もっとずっと前からだったような気がするのよね。どうしてかしら」

「そういえば、俺もそんなふうに感じるよ。この1年の間に新しいことをたくさん経験したから、同じ1年が何年分にも感じられるのかも知れないな」

「子供の頃の1年がとても長く感じられるのも、そういうことかも知れないわね」

「これからの1年も長くなるかも知れないな。いろんなことが起こりそうだから」

「ほんとに良太さんが出征することになったら、どうなるのかしら、私たち」

「大丈夫だよ、千鶴。どんなことがあっても、俺は死なずに帰って来るよ、千鶴のところへ」

 千鶴が良太の胸に頬をおしあてた。

 千鶴の髪をなでていると、いつものように微かな匂いがした。千鶴の髪から放たれるのか、それとも千鶴の肌から匂いたつのか、いずれにしてもその匂いに、良太は千鶴の身と心をともに感じた。いきなり、千鶴と結婚したい、という気持ちが沸き起こった。出征することになるのであれば、その前に千鶴と結婚したい。

 良太は千鶴を抱きしめた。強く抱き締めたまま、良太は千鶴の唇をもとめた。

 情動にけしかけられるまま、良太は千鶴にキスを続けた。千鶴があえぎ声をあげたが、良太は千鶴の唇をむさぼり、千鶴の舌をもとめた。

 椅子からずり落ちそうになってようやく、良太は千鶴から唇をはなした。千鶴が良太にしがみついていた。良太は千鶴を膝のうえに抱きあげた。

 千鶴の背中をなでながら、その細い首すじに顔を近づけると、千鶴の匂いが先ほどよりも強まっていた。

良太は千鶴を抱きながら思った。出征してどこで戦うことになろうと、俺は無事に還って、千鶴と共に幸せな人生を送らねばならない。この千鶴を悲しませてはならない。

 良太は夜が更けてから浅井家をでた。下宿への道すがら、良太は日本の現状と先き行を想った。さまざまな想いが頭をよぎったけれども、暗い未来しか思い描けなかった。

 良太はふと思った。千鶴はいま何をしているのだろうか。こんな日だから、まだあの書斎に残って、日記をつけているのかも知れない。

良太は日記をつけようと思った。俺には出征に備えた心構えがまったくできていない。日記をつけることを通して、多少なりとも思索を深めることができるのではないか。

 下宿の部屋に帰りつくなり、良太は机代りの板の上にノートをおいた。10月からの2年次で使う予定のノートが、東京でくらすようになって以来はじめての日記帳になった。

〈昭和18年9月22日

 理工系を除く学生に対する徴兵猶予の停止措置が発表される。パン屋からの帰りに立寄った浅井家にてそのことを知る。

 眼の前に軍人への道が開けたことに、不安とともに安堵感に似た気持を覚える。出征している幼なじみ達に対する負い目をもはや抱かずにすむ。

 千鶴と書斎で語り合ったあと、忠之の部屋に立ち寄り、沢田をまじえて今後のことなど話し合った。出征時期は不明なれども遠くないはず。残された時間を千鶴と如何に向き合い如何に過ごすか。悠長に構えてはいられない。出征までの残された時間を寸刻たりとも無駄にしてはならない。出征への準備をこの日記をもって開始する。〉

 良太は書き終えたノートを見て、こんな大きな文字で走り書きをしたなら、ノートのむだ遣いになると思った。書き方に注意して、ノートを長持ちさせなければならない。

 その夜、千鶴も日記をつけた。

〈今日になって突然に、良太さんたち学生に対する徴兵猶予が停止になった。良太さんが出征しなくてすむように、今すぐ戦争を終わりにしてほしい。

 夜になって来訪された良太さんと書斎で話し合ったが、戦争のことや将来のことはあまり話さなかった。飾っておいたコスモスの花を気に入ってもらえて嬉しい。

 いつものように良太さんと口付したのだけれど、今日はいつもとまるで違った。舌を通して良太さんの想いが伝わってくるような感じがしているうちに、身体がしびれるような不思議な感覚におそわれ、気がついたときには良太さんにしがみついていた。びっくりはしたけど、とても幸せな気持ちで良太さんに抱かれていた。良太さんが出征されたらこの幸せはどうなるだろう。良太さんは自分は運が良いから心配するなと言ってくださる。良太さんの幸運を信じよう。良太さんの幸運が続くように祈ろう。〉

 日記をつけおえて椅子から立ちあがると、コスモスの花がかすかに揺れた。なぜか良太とのキスが思いだされて、千鶴は思わず口に手をあてた。

 書斎のドアを開けると、忠之の部屋から話し声が聞こえた。忠之と沢田の議論はまだ続いていた。その声を耳にしながら、千鶴は階段の降り口に向かった。


 休学して故郷に帰る友人もいたが、良太はしばらく東京に留まることにした。出征する身を自覚しつつ千鶴と向きあい、その間に出征に向けた心構えを確立しなければならない。良太は両親に手紙を書いて、出征が決まったことに対する心境と、出征までの計画を伝えた。

 忠之の父親は良太の恩師であって、学資の援助者でもあった。良太にとって、恩師の期待に応え、その恩に報いることは重要な義務であったが、出征して戦死するようなことになったら、報恩どころか、学資の返済すらもままならないはずだった。

 良太は恩師に手紙を書いた。恩情と恩顧に対する感謝の言葉とともに、残された時間を有意義なものとすべく、勉学に全力を尽くしたいとの心情を記した。書かねばならぬと思いながらも、生還が叶わなかった場合のことには触れ得なかった。記すべき言葉がまだ見つからず、そのことは先送りするしかなかった。

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