第9話 学徒出陣なる言葉を聞かされた夜

 出雲で良太を待っていたのは、龍一の戦死を悲しむ者たちだった。龍一の家族はもとより、良太の祖父母も深い悲しみに沈んでいた。

 龍一は出征に際して、自分の家族と良太の家族にあてた遺書をしたため、その保管を家族に依頼していた。筆無精でふだんは手紙さえもめったに書かなかった龍一が、かなりの時間を費やして書きあげたものにちがいなかった。良太は龍一の遺書を読み、それを記したときの龍一の心情を想った。

 龍一は高等小学校を卒業して、松江の海産物会社で働いていたが、満20歳で生ずる兵役義務に先立って、昭和17年の3月に志願して海軍に入った。まだ18歳だった。

 アメリカに戦争をしかけて間もないその頃、日本人の多くが緒戦の戦果に浮かれ、日本の勝利を疑わなかった。少年を含む少なからぬ若者たちが、皇軍に身を投じて一気にアメリカを降さねばならぬと意を固め、軍に志願した。彼等にそのような想いを抱かせたのは、学校を通して教えられた思想と、新聞や雑誌を飾る皇軍賛美の様々な記事、そして、それらに煽られた国民感情だった。それらが互いに重なり合って国民に覆いかぶさり、大衆を押し流した。龍一はその流れに乗って海軍に志願し、そして戦死した。

 良太は思った。龍一は19歳での自分の戦死を、ほんとうに意義あるものとして受け入れたのだろうか。自らの意志で志願したのだから、龍一には悔がなかったとしても、残された者たちは、癒されようのない悲しみにくれているのだ。

 夕食前のひととき、良太が新聞を見ていると、妹の洋子がそばに寄ってきた。

 洋子が声を抑えて言った。「千鶴さんのこと、忠之さんから聞いたがね。よかったね、いい人に会えて」

 良太はうろたえながら言った。「忠之が来たのか」

「今日の昼前に、鶏小屋の掃除をしちょったら忠之さんが来られて、話のついでに千鶴さんのことを」と洋子が言った。

 その夜、良太は千鶴の写真を家族に見せた。良太にそのような交際相手がいると知って驚きながらも、家族のだれもが千鶴とのことを受け入れてくれた。

「そのひとと結婚することになったら、こっちへ連れて来ることになーわけだの」と母が言った。

 予期していたことであったが、良太には気が重くなる問いかけだった。

 良太は東京での人生を想定していたのだが、その夢を家族にはまだ告げていなかった。両親の将来を弟に託せば、弟を束縛することになる。それでは自分勝手にすぎると言えはしないか。東京に出て以来のそれは宿題であったが、答を出せないままに過ごしていた。

「どげなふうにするか、まだ考えちょらんがね」と良太は答えた。「戦争がどげなことになーやら、先のことがわからんし」

 戦争を口実にして答えを避けたような気がして、良太は気持ちが少しかげった。

「龍一は戦死してしまったし、あっちでもこっちでも戦死しちょってだが、こーから先、戦争はどげなことになーかね」と祖母が言った。「お前、大学に行っちょってもわからんかや」

「相手のあーことだけん、そげなことは政府でもわかーしぇん」と祖父が言った。

 龍一が遺書の中で触れていたためでもあろうが、祖父と祖母はともに靖国神社への参拝を願っていた。戦時歌謡や軍歌が靖国神社を取りあげるにようになっても、英霊が祀られるその神社のことが、家族の中で話題になることはなかった。龍一が戦死したいまでは、祖父母は靖国神社の存在に救われているようにみえた。名誉の戦死をとげた龍一は、靖国の神となって祀られている。無駄に死んだわけでは決してない。良太には受け入れがたいところがあっても、そのような祖父母の気持は、充分に理解することができた。


 良太と忠之はふたりとも、その年の春には徴兵年令の満20歳になっていた。村の同級生にはすでに出征している者がいた。学生として徴兵を猶予されている者は珍しい村であったから、ふたりには居心地の悪い故郷であった。夏休と呼ぶには短い2週間ほどを村で過ごしてから、ふたりはいっしょに上京することにした。


 食料と生活必需品が不足し、不利な戦況の影響が日ましに強まる東京で、良太と忠之そして浅井家の姉妹は、学徒としての生活をつづけた。

 9月に入るとイタリアが降伏して、日本とドイツそしてイタリアよりなる3国同盟は、その一角が崩れる結果となった。それだけでなく、ドイツの状況も厳しさを増しつつあった。日本の戦況に対する国民の不安もつのるいっぽうだった。

 良太は勉学と仕事に追われながらも、しばしば浅井家を訪ねて、千鶴とのひとときを過ごした。

 9月のある日、良太は千鶴との語らいを終えると、忠之の部屋をのぞいてみた。

「いいところへ来てくれたな良太」と忠之が言った。「沢田の自慢話に飽きていたところだ」

「聞いてみたいもんだな。沢田よ、何をやらかしたんだ」

「野外演習で誉められたんだよ、沢田氏は」

「さすがは沢田だ、大いにがんばってくれ」畳に腰をおろしながら良太は言った。「俺はもうたくさんだよ、銃を担いで走らされるのは」

「そんなことよりもな」と沢田が言った。「さっき岡にも話したんだが、明日の夕方に講演会があるんだ。俺を誘ってくれた高校時代の剣道部仲間によると、講師は真珠湾攻撃とソロモン海戦に参加した海軍中佐だ。どうだ、俺といっしょに行ってみないか」

 戦場帰りの軍人が講師なら、戦争の実情をうかがい知ることができる、めったに得られない機会ではないか。良太はパン屋の仕事を休んで講演を聞くことにした。

 つぎの日の夕方、良太と忠之は沢田につれられて、講演会の会場に入った。会場はほぼ満員になっており、聴衆のほとんどが学生だった。

 定刻ちょうどに講師が現れた。白い夏用の士官服に身を包んだ海軍士官を、学生たちは大きな拍手をもって迎えた。

 講師は自己紹介を終えるとすぐに、南太平洋の戦況について語ったが、その多くは公表されていることだった。良太が不満を覚えていると、講師は学徒の在り方について語り始めた。

 海軍士官が学生の役割を論じるにおよんで、良太はその講演会の目的を理解した。軍はいよいよ学生を対象に何かを始めるらしい。

講師は語った。我々に大和魂があるように、米国人には米国魂が、支那人には支那魂があることを忘れてはならない。ここまで戦ってきて、米軍の戦意がきわめて高いことがわかった。その米軍の中核をなすのは、軍に志願した学生である。彼等は祖国のために挺身し、祖国の名誉のために戦うことに、無上の誇りを抱いていることがわかった。現今の戦争を主導するのは航空機だから、彼等はとくに空軍に志願し、米国空軍において中核的な役割を担っている。そのような米国の学徒に比して、はるかに勝る大和魂を持つ諸君は、皇国の興廃がかかるこの戦争において、自らの役割を自覚しなければならない。諸君は愛国心と大和魂を自らに問わなければならない。

 講師は演台から一冊の冊子を取りあげた。講師によれば、それは先ごろ刊行された学徒出陣なる定価30銭の冊子であり、日本の学徒が読むべきものである、ということであった。

講演を聞き終えた学生たちは、緊張した面持ちで会場をあとにした。良太たち3人は、互いに感想を述べながら夜の街を歩いた。

「あの将校は、アメリカの学生を誉めながら、俺たちに奮起を促したんだから」と良太は言った。「もしかすると、俺たちに志願をせまる前触れかも知れないな」

「学徒出陣とか言ったな、あの本の名前。良太が言うように、俺たちも出征することになるかも知れんぞ」

 下宿に帰るための別れ道にきたが、良太は忠之たちといっしょに浅井家に向かった。

 夜の本郷は、東京の街とは思えないほど暗かった。夜風にざわつく庭木の音が聞こえるほどに、人影の少ない街は静寂だった。見あげると、きれいな星空だった。千鶴と交わした約束が思い出された。千鶴といっしょに出雲の星空を眺めたい。その日が訪れるのはいつのことだろう。

 浅井家に着いたとき、時刻はすでに8時を回っていたけれども、千鶴に請われるままに良太は書斎に入り、いつものように並んで腰をおろした。

 良太は講演会の感想を語った。

「戦争が長く続いたら、良太さんも出征することになるのかしら」と千鶴が言った。「怖いわ、私。いつまで続くのかしら、この戦争」

「心配することはないよ、たとえ出征するようなことになっても、絶対に死なずに還ってくるよ。けがひとつしないで」と良太は言った。

 良太は思った、学生に出征命令がくだされる日も遠くはないという気がする。たとえそうなったとしても、俺は戦死することなく、千鶴のそばに還って来なければならない。俺は千鶴とともに人生を歩まねばならないのだ。

 良太は言った。「千鶴と約束したんだからな、いっしょに人生を送ると。出征することになったとしても、俺は絶対に千鶴のところに帰ってくるよ」

 千鶴が良太をのぞきこむようにして言った。「嬉しい、良太さん。そのほうが好き、千鶴と呼んでもらうほうが」

 千鶴がこれほど喜ぶのなら、もっと早くから千鶴と呼んでやればよかった、と良太は思った。俺にとっても、そのほうがずっと好ましい。

「千鶴だよ」良太は千鶴の髪に手をふれた。「これからは千鶴と呼ぶことにする」

 千鶴が「良太さん」と呟くようにして言った。

「何だい、千鶴」

「呼んでみたかっただけなの」と千鶴が答えた。

 良太が千鶴に腕をまわすと、千鶴は首をまわして眼を閉じた。良太は千鶴を抱きよせて顔を近づけた。


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