第8話 初めての口づけはぎこちなく

 出雲に向かう日の前日、良太は浅井家を訪ねた。千鶴が千人針に関わる用事で出かけていたので、良太は畑の手入れをしながら千鶴の帰りを待つことにした。

 千人の女によって一針づつ赤い糸を縫い付けられた白布が、千人針と呼ばれるお護りとして、出征兵士に渡されていた。妹の洋子が千人針を縫っている姿を、良太は出雲で見たことがあった。出征する村人のための千人針だった。

 畑の半分以上にサツマイモが植えられていた。出雲から取り寄せた種芋から苗をとり、6月に入ってから植えつけたのだった。4本並んでいるナスの株には、いくつもの黒い実が揺れていた。

 千鶴の声にふり返ると、千鶴と母親の笑顔があった。

 千鶴が風呂敷包みを持ちあげて、「千人針。出征するご近所の人のよ」と言った。

「俺が出征するときには、千鶴さんが縫ってくれた千人針を持って征くからな。卒業してすぐに出征するにしても、まだずいぶん先のことだけど」

「森山さんったら気が早いわね。その頃には終わってますよ、この戦争は」

「そうよ、終わるに決まってる。すぐに終わってほしい、こんな戦争なんか」

「だめよ、大きな声で。だれかに聞かれでもしたら、非国民呼ばわりされるわよ」と母親がたしなめた。

 良太は思った。俺と忠之に感化されたことで、千鶴に困ったことが起こったらどうしよう。そんなことにならなければよいが。

 本を読みながら千鶴を待つことにして、良太は先に書斎に入った。窓は開いていたが暑かった。風が入りやすいようにカーテンを引きあけてから、良太は書棚に近づいた。

 並んでいる現代日本文学全集のなかから、良太は石川啄木集をぬきだした。

 良太は椅子に腰をおろすと、机上にあったうちわを使いながら、〈雲は天才である〉のページを開いた。

 ほどなく、あけ放してある入り口から千鶴が入ってきた。

 千鶴は手にしていた盆を机におくと、「よかったわ、良太さんに食べてもらえて。おいしいのよ、このパイナップル」と言った。

 並んでいる皿を見ながら良太は言った。「これがパイナップルか」

「いただきものよ、パイナップルの缶詰。お父さんは2年も前に亡くなったのに、お父さんの仕事の縁で、こんな物をいただけるのよね、こんな時だっていうのに」

「俺は見るのも初めてなんだ、パイナップルは」

 良太は千鶴とならんで、初めてのパイナップルを味わった。

「なあ、千鶴さん」と良太は言った。「この書斎があったおかげだよ、俺たちがこんなふうになれたのは。千鶴さんのお父さんに感謝したいよ」

「そんなふうに言われると、とても嬉しい。私と千恵をかわいがってくださったお父さんが、まだ私のことを大事にしてくださっているみたいだもの」

 うちわで千鶴に風をおくると、「ありがとう、とても気持いい」と千鶴が言った。

 幾すじもの髪が千鶴の顔にかかって、うちわの風にあおられていた。眼をとじている千鶴が、なぜか淋しげに見えた。

「眼を閉じている千鶴さんは、心配ごとでもしているみたいに見えるよ」

「良太さんとこうしていると嬉しいし、とても幸せ。でもね、ときどき不安になるの、戦争がいつまでも続いたら、私たちはどうなるのかしらって」

「取り越し苦労はしないことだよ。せっかくの幸福な気分を大切にしなくちゃ」

 千鶴が体をまわして良太を見つめ、「幸せよ、私は。とっても幸せな気持ち。だけど私は……良太さんともっと幸せになりたい」と言った。

 良太は千鶴を抱きよせた。千鶴をいとおしく思った。千鶴にはいつまでも幸せであってほしい。千鶴といっしょに幸せな人生を送りたい。

 良太は千鶴にキスをした。ヨーロッパ映画では幾度も見たことがあったけれども、良太はぎこちなく千鶴と唇を合わせた。

 良太が唇をはなすと、千鶴は良太の胸に頬をおしあてた。千鶴の髪に手を触れながら、良太は口にすべき言葉をさがした。

「さっき千鶴さんが言ったみたいに、俺も千鶴さんともっと幸せになりたいよ」

「うれしい」千鶴がいかにも嬉しそうな声をだした。「良太さん……もっともっと幸せになりましょうね、私たち」

 窓からの風があっても暑かった。良太はうちわで千鶴に風を送りつづけた。遠くに見える欅の梢が揺れていた。空は明るかったが、午後も遅い時刻になっているはずだった。

 千鶴が良太の胸から頬をはなして、「明日の夕方に東京を発って、出雲に着くのはあさっての夕方だったわね」と言った。

「忠之が昨日の夕方に乗ったのと同じ列車だ。忠之はもうすぐ家に着くはずだよ」

「行ってみたいわ、出雲へ。良太さんについて行きたい」

 良太は千鶴を出雲につれて行きたいと思った。とはいえ、学生が女をつれて旅行できるような状況にはなかったし、千鶴の家族が許すとも思えなかった。

「戦争が終わったらいっしょに行こう。ふたりで出雲を見てまわりたいな」

「良太さんが遊んだところや、お弁当なしで遠足に行った所も見たいわね」

「忠之がしゃべったのか、そんなことまで」

「私がせがんだの、岡さんに。良太さんの子供の頃のことを聞きたいって。それで話してくださったのよ、岡さんが溺れそうになったことや、遠足のことなど」

「驚いたな、まったく」

「ごめんなさい、勝手なことをして。岡さんには約束してもらったの、良太さんのことをもっと話してもらうこと」

「どうして知りたいんだろう、俺の子供の頃のことなど」

「岡さんから次に聞かせてもらうのは、良太さんの中学時代のことなの」

「なんだか、心配になってきたよ。その次は高校時代なんだろう?」

「良太さんがいやならやめるけど、岡さんに話してもらうこと」

「いやというわけじゃないけど、どうして知りたいんだろ、そんなことを」

「もっと知りたいんだもの、良太さんのこと」

「俺は千鶴さんの子供の頃のことに、そんなに興味がないな」

「出雲生まれと東京生まれでは感じ方が違うのかしら。それとも、男と女で興味の持ち方が違うのかしら」

「千鶴さんと出会ったのも、こうして話し合うのもこの家の中だから、千鶴さんがどんなふうに育ったのか、何となくわかるような気がするんだ。多分そのためだよ」

「私は良太さんの家も、家の近くの風景も知らないし、子供のころに遊んだ場所も、想像さえできないのよ。だから岡さんに聞いたんだけど、ごめんなさいね、勝手なことをして。何かの拍子に聞かせてもらうことになったの」

「忠之なら、俺のことを面白がってしゃべるよ。もしかしたら、俺よりも忠之に聞いた方が、千鶴さんには面白いかも知れないな」

「よかったわ、お許しをもらえて。約束通りに岡さんが話してくださったら、良太さんに報告した方がいいかしら」

「もしも自分の子供時代のことを忘れたら、千鶴さんに聞くことにするよ。責任重大だぞ、何十年も覚えておかなくちゃならんからな」

「何十年も先の私たち……どんなふうに暮らしてるのかしら」と千鶴が言った。

 廊下に足音が聞こえて、開いたままになっていた入り口に、千鶴の母親が現れた。

 良太は立ちあがり、「珍しいものをご馳走になりました」と言った。

「畑であんなにお世話になってるのに、パイナップルしか差しあげられなくて」

「でも良かったわ、パイナップルがまだ一缶だけ残っていて」

「ねえ、千鶴」と母親が言った。「夕食を森山さんにも食べていただきたいから、手伝ってちょうだい」

 その夜、良太は浅井家の家族と共に食卓についた。

 千鶴ははしゃぐように快活だった。千鶴の母親がときおり良太に眼を向けた。書斎での良太と千鶴に何があったのかと、そのまなざしが問いかけていた。

 千鶴の祖父が言った。「森山君、ときには、こんなふうにして飯を食うのもいいもんだろう」

「おかげで久しぶりの賑やかな食事です。僕には豪勢な晩飯ですし」

「遠慮しないで食ってもらいたいよ。野菜はみんな君が汗をながして手伝ってくれたものだし、千鶴が世話になっていることだしな」

 千鶴が世話になっているとはどういう意味だろうかと、良太はあわただしく考えた。千鶴の祖父はその言葉によって、自分と千鶴の仲を祝福してくれたのだ。俺はこの家で千鶴と出会う幸運に恵まれ、千鶴との仲をこうして祝福されている。この幸運に俺は感謝しなければならない。

 8時を過ぎた頃、良太は歓待を謝して浅井家をでた。いっしょに玄関をでた千鶴が、門のところまでついてきた。

 千鶴が声をあげた。「良太さん、天の川。灯火管制で街が暗くなると、こんなによく見えるのね」

 出雲では夜道を歩いていると星空に眼が向いたが、東京では夜空への関心が失われていた。良太は千鶴と並んで空を見あげた。久しぶりに眺めるきれいな星空だった。

「出雲は田舎だから、星がたくさん見えるんだ。天の川もよく見えるよ」

「戦争が終わったら、出雲でいっしょに星を見たいな。満天の星と天の川」

「わかった、約束するよ。いっしょに出雲で星を見よう。俺は斐伊川の堤防を歩きながら、夏の夜空を見るのが好きなんだ」と良太は言った。

 その夜、千鶴は日記をつけ終えてから、良太とのキスを記したところを読み返した。

 〈……良太さんからいきなり口付された。その寸前に予感がしたのだけれど、それでもちょっと驚いたし、なによりも嬉しかった。冷静ではいられなかったけれど、とても幸せだった。この書斎が良太さんと私にとって特別な場所になった。……〉

 良太さんは今、何をしておいでだろうか。こんな時刻だから、出雲に帰るための準備は終わったかも知れない。戦争が終わったならば、ふたりで出雲を訪ねようとの約束をしたけど、いつになったら実現することだろう。良太さんに渡したあの写真を見て、良太さんの御家族は、私のことをどう思われるだろうか。

 庭を畑にする作業をした日に、祖父は古い乾板式の写真機で庭を撮り、ついでに千鶴と良太がならんでいる写真を撮った。千鶴はできたばかりのその写真を文庫本にはさんで、下宿に帰ろうとしていた良太に渡したのだった。

千鶴はペンをとって文章を加えた。

 〈今日は良太さんと約束をした。戦争が終わったら良太さんといっしょに出雲へ行き、良太さんの故郷を案内してもらうこと。出雲でいっしょに星を見ること。良太さんと口付したうえにすばらしい約束をしたのだから、今日は誕生日よりももっと大切な日になったような気がする。〉

 良太との約束が実現する日を想いつつ、千鶴は日記のノートを引き出しに納めた。

 机の上にうちわがあった。うちわを取ってあおぐと、良太が送っくれた風が思い出された。幸福な想いが千鶴の胸をみたした。

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