第6話 下宿の部屋で想う戦争のゆくえ

 2月の寒い夜道を、良太は下宿に向かっていた。三日ほど前から働いている、パンを作る店からの帰りだった。

 人手を欲しがっているパン屋があると聞き、良太はさっそく訪ねていってその場で契約をした。1時間あたり30銭で、夕方の3時間だけ働くという条件だった。物資が不足するようになった東京での生活に、良太は強い不安を抱いていたが、パン屋の仕事にありつけたことで、無事に学生生活を送れそうに思えた。

 下宿に着いて木戸を入ると、横からふいに、ふたりの男が現われた。

 男のひとりが言った。「ここに間借りしている者だな」

「そうです」

「名前は」

「森山良太です」

 男は手にしていた書類を携帯電灯で照らした。

「斎藤敬三は今どこにいる」

「最近は見かけません。斎藤さんがどうかしたんですか」

「見かけなくなったのはいつ頃からだ」

「今年になってからは一度も見ていません」

 男は電灯で良太の顔を照らした。「ここで斎藤と親しくしているのは誰だ」

「去年の9月からここに住んでいるけど、齋藤さんのことはよくわかりません」

 男は良太の顔を照らしたまま、手にしていた書類を突きつけた。「先月、お前は署に出頭したな」

 良太が黙っていると、刑事が威嚇するような声をだした。「どうして返事をしない」

「出頭しました」と良太は言った。「悪いことはしていないからすぐに帰されました」

 刑事が書類を突きつけ、「危険思想の嫌疑をかけられている」と言った。

 特高刑事から渡された紙切れを持って、良太は自分の部屋に入った。紙切れには特高警察への連絡先が記されていた。

 良太の部屋は3畳半の広さで、半間幅の狭い押入がついていた。壁ぎわに置かれた机代わりの板が、ふたつのミカン箱で支えられており、ミカン箱の中には書籍が納まっていた。

 良太は電気スタンドのスイッチをいれ、代用机の上で教科書を開いた。その電気スタンドは、忠之が作ってくれたものだった。

 真夜中の廊下に足音がした。良太は耳をすました。足音は斎藤の部屋とは反対の方に向かった。斎藤が姿を見せても、特高に通報するつもりはなかった。それどころか、特高に眼をつけられていることを知らせてやりたかった。法政大学の2年生だという斎藤とは、廊下で幾度か顔を合わせていたが、話し合ったことは一度しかなかった。まじめで誠実そうな学生だった。

 特高警察でのことが思い出された。刑事の眼光と殴られた痛みを思い出すと、いまさらのように怒りがこみあげてきた。

 オニカンノンによれば、特高が国に批判的な者を敵視する理由のひとつは、国民がこの戦争に疑問を抱くと困るからだという。オニカンノンの教えを受けた者の中には、この戦争を聖戦とは考えない者も多いはず。そのひとりである俺は、特高に弾圧される側の人間ということになろうか。

 この戦争に対して疑問を抱いている俺だが、日本軍がガダルカナル島から転進したという新聞記事に、腹の底から湧く悔しさを覚えた。俺がそんな気持になるのだから、沢田の気持はいかばかりだろう。日本人の多くは、沢田に近い考えかたをしているはずだ。それにしても、ひとつの島をめぐる戦闘とはいえ、撤退せざるを得なかったのだから、日本は敗北への道をたどり始めたのではなかろうか。

 良太は図書館で読んだその日の新聞記事を思い返した。いつものように、日本の戦果を大きく報じていたが、実情ははたしてどんな状況であろうか。

 良太は寒さを覚えて我に返った。寝なければならない時刻になっていた。

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