第5話 縁結びの神様になった親友

 千鶴は書きおえた日記帳をとじ、良太と過ごした一日をあらためて思い返した。甘味の乏しいお汁粉をすすりながら、冗談を口にしていた良太さんの笑顔。映画館の暗がりで、おずおずと手を触れてきた良太さん。予想外のなりゆきに胸を高鳴らせていると、いきなり手をにぎられた。私は夢中で良太さんの手をにぎり返した。あのとき、良太さんはどんな気持だったのだろう。私と同じように、幸せな気持ちだったにちがいない。良太さんは別れる間際まで、とても嬉しそうだった。

 廊下を歩いてくる足音が聞こえた。その足音がとまってドアが叩かれた。

 書斎に入ってきた忠之は、風呂敷包みを持っていた。

「ラジオをなおしたお礼にもらったんだ。ふかしたサツマイモを干したものだよ」と言いながら、忠之が風呂敷を開いた。「千恵ちゃんと沢田も呼んで、いっしょに食わないか」

「わー、ありがとう」と千鶴は言った。「千恵と純ちゃんを呼んできます」

 夜更けの書斎に集まった4人は、干し芋の凝縮された甘味につられるままに、やすむことなく紙袋に手をのばした。

「ラジオの故障をなおしたにしても、たくさんもらってきたもんだな」

「学生を何人も入れている下宿屋だけど、そこの奥さんが千葉の実家でこれを作ったそうだ。お礼だからたくさん持って行けと言うから、遠慮なくもらったよ」

「芸は身を助けると言うけど、お前の場合には特技が身を助けるんだな」

「ラジオって、とても難しそうだけど、どんなふうに勉強したんですか」

「中学の頃から勉強していたんだ。沢田式に言えば、好きこそものの上手なれだよ。やる気さえあれば誰にでもできるはずだよ。やる気というより、そういうのがほんとに好きだったらな」

「いくら興味があっても、頭がそれ程じゃなくて、数学が不得手な者には無理だろう」

「好きこそものの上手なれというのは、数学や物理を勉強する場合にも言えると思うよ。数学に興味があれば、数学の勉強に身を入れるだろうし、自分には数学が必要だと思えば努力するわけだよ。頭がいいから数学ができるというわけじゃないと思うな」

「俺の知ってる理科系のやつら、みんな頭が良さそうだがな」

「数学というのはな、勉強の途中で手を抜いたらそこから先に進めなくなるんだ。数学が不得手という奴の多くは、手を抜いたところの穴埋めをしなかったんじゃないかな。理系の者には数学が必要だから、たとえあと戻りをしてでも、知識の穴を埋めようとするわけだよ」

「現実に数学が不得手な俺には、何とも言いようがないよ。お前流に勉強すればいいんだろうが、俺には数学で努力する気がないからな」

「俺から見れば良太は頭のいいやつだが、数学が必要な仕事はしないつもりだから、数学にはあまり身をいれていないんだ。数学の成績はさほどではないと思うが、頭が悪いなどとは思っていないはずだよ、良太自身は」

「森山に会ったら、あいつの意見も聞くことにする。工学部のお前から聞いただけじゃ心もとないからな」

「数学が好きだなんて言う友達は一人もいないから、私は数学なんかできなくても平気だし、頭が悪いとも思わないわよ」と千恵が言った。

「私も数学はできないけど、いまの話を聞いて安心したわ。数学が好きだという友達もいないけど、女学校だったからでしょうね。むつかしい数学など必要とは思えないもの」

「何かのきっかけがあれば、女でも数学を好きになると思うけど、そういうのは少ないだろう。だから、いいんだよ、千鶴さんは数学なんかできなくても。良太も数学には興味がないみたいだが、あいつには、いろんな才能があるし、人間としても立派だ。千鶴さんが良太と結婚して子供ができたら、良太はいい父親になれると思うよ」

 千鶴がうろたえていると忠之が言った。「どうしたんだい、千鶴さん。そんなにびっくりしなくてもいいじゃないか。千鶴さんと良太が好き合っていることくらい、皆が知ってるんだから」

「いきなりそんなこと言われたんだもの」

「びっくりしたけど嬉しかったんだよな」

 からかわれてもむしろ嬉しかったが、千鶴は話題を変えたいと思った。

「岡さんと良太さん、子供の頃から仲が良かったんですか」

「6年生の頃には良太が一番の友達だったな」

「良太さんって、どんな子供だったのかしら。いまでも子供みたいに純粋なところがあるけど。あっ」千鶴はあわてて言葉をたした。「いま言ったこと、良太さんには言わないでね」

「岡さんご馳走さまでした」と千恵が言った。「お姉さん、さきに下におりるから」

「俺も失敬するよ。読まなきゃならん本があるんだ。干芋とさっきの話、どっちも良かったよ、ありがとう」と言い置いて沢田も部屋から出て行った。

 忠之が言った。「良太の知性と教養はたいしたもんだが、性格が単純で純粋だから、子供っぽいところはあるな、たしかに」

 千鶴はその言葉を聞いて、忠之に聞きたかったことを思い出した。

「あのね岡さん、良太さんとの子供時代のこと、何か話してもらえませんか」

「5年生の頃からだな、良太のことをよく知ってるのは。どんなことを聞きたい?」

「岡さんと良太さんがいっしょに楽しんだことや、忘れられないような出来事など、どんなことでもいいんだけど」

「良太とのことで忘れられないことと言えば」と忠之が言った。「俺がもうすこしで死にかけたとき、良太が助けてくれたことがあったな」

 いったい何があったというのだろうか。千鶴は隣の机に眼を向けた。忠之は千恵の机に頬杖をつき、千鶴を見ながらほほ笑んでいた。

「何があったんですか」

「小学校6年の夏休みに、良太と宍道湖へ遊びに行ったんだよ。しじみ採りや魚釣に使う舟があったので、俺たちにも漕げたから無断で漕ぎだしたんだ。少し沖に出たところで、岸と舟の間を泳いで往復することにした。ほとんど同時に岸に着いたけど、舟にもどるときに俺は足がつってしまった。良太を呼んだけど、あいつは先に行ってしまった。いつものように、俺がふざけて叫んでいると思ったらしいんだ」

「それで、岡さんは溺れそうになったんですか」

「良太は舟にあがってから気がついたんだな、俺がただごとじゃないって。良太が舟で助けに来てくれたときには、ほんとに溺れるところだったんだよ」

「なんだか、すごい体験。楽しい思い出とは言えそうにないわね」

「どちらかと言えば楽しい思い出だよ、今になってみれば」

「他にもないかしら、良太さんとの楽しかった思い出」

 忠之が千鶴に笑顔を向けて、「それじゃあ、つぎは良太の失敗談にしようかな。何しろいっぱいあるからな」と言った。

 千鶴も笑顔で言った。「おもしろい失敗談なら聞きたいわね、いくらでも」

「冗談だよ」と忠之が言った。「あいつは、そんなに失敗ばかりする奴じゃないよ。もちろん人並みに失敗はするけどな」

 忠之が話し始めた。「6年生の遠足で、島根半島の山奥にある、古い寺へ行ったときのことだよ。弁当の包みを開いたあいつが変な声を出したんだ。どうしたのかと思ったら、良太は弁当を忘れて来ていたんだよ。おふくろさんが心をこめて作った弁当を、他の物と入れまちがえたんだな、うかつなことに。それで、どうしたと思う?」

「困ったわね良太さん、どうしたんでしょう」

「俺の握り飯を分けてやることにした。それしか考えようがないからな」

「なんだか小学生の岡さんもかわいそう」

「そうでもなかったんだよ。引率の先生のひとりが俺の親父だったんだけど、俺たちの傍を通りかかって、俺と良太のようすに気がついたんだ。それで、親父が自分の弁当を俺たちに分けてくれたんだ」

「岡さんのお父さん、今も先生をなさってるんでしょ」

「小学校で教えてるんだ。名前は国民学校に変わったけどな」

「それじゃあ次に、中学時代の思い出を聞かせてもらえます?」

「その次には、高校時代のことも聞きたいんだろ」

「ごめんなさい。つい図にのってしまって」

「いくらでも話すけど、また今度ということにしよう。もうこんな時間だから」

「あのー、もしかしたら」と千鶴は言った。「岡さんにはわかってたんですか、私と良太さんがこうなることが」

「こうなるって、何が?」忠之が驚いたような声を出した。「何がどうなったんだ」

「いえ、あのう」言いよどんでから千鶴は言った。「たとえば今日みたいに、良太さんとふたりで映画を見たり……」

「あれは、俺が」と言ったまま、忠之は口をつぐんだ。

「岡さんは、わざとに私たちをふたりだけにしたんですね」

「ラジオをなおす約束をしていたから、それを今日やることにしただけだよ」

「私と良太さんをふたりだけにするために?」

「それで……良かったんだろ?」

「岡さんのおかげで、今日はとても素敵な日になったわ」と千鶴は言った。「ほんとにありがとう。良太さんも岡さんに感謝してるはずよ」

「どうやらほんとに、おれは縁結びの神様になったようだな。どうみても神様という柄じゃないけど」

 忠之は満面の笑顔を見せて立ちあがり、サツマイモの残りを持つと、「それじゃ、おやすみ。今夜はいい夢を見られそうだな、千鶴さん」と言って書斎を出ていった。

 千鶴はそのまましばらく書斎に残り、良太と忠之の子供時代を想った。良太が生まれ育った出雲に行ってみたいと思った。

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