第4話 フランス映画 レ・ミゼラブル
つぎの日、良太はいったん下宿に帰り、着替えをしてから浅井家に向かった。頭の傷は髪に隠れて見えないはずだった。
浅井家の玄関に入ると千鶴の妹がむかえた。
「いらっしゃい、森山さん。お姉さんもすぐに行くから、岡さんの部屋で待っていてくださいって」笑顔を見せて千恵が言った。「お姉さんは台所でがんばっているとこなの」
千鶴の母親に挨拶をしてから、2階への階段をのぼってゆくと、忠之と沢田の話し声が聞こえた。沢田は忠之の隣室に入っている学生で、千鶴の従兄であった。
忠之と沢田の議論に仲間入りしていると、部屋の入り口で千恵の声がした。「すみません、ちょっと手伝ってください。3人いっしょにお願いします」
階段をおりてみると、廊下にいくつかの食膳がならんでいた。
良太が膳を持ちあげたとき、千鶴の声が聞こえた。ふりかえると、割烹着姿の千鶴がほほ笑んでいた。良太の無事を喜ぶ千鶴の笑顔と声が、良太を幸せな気分にした。
まもなく千鶴と千恵がみそ汁と酒を運んできて、忠之の部屋での準備が整った。
千恵をふくめた5人が食膳につくと、忠之が「それじゃあ、俺からちょっと。千鶴さんから開会宣言役を頼まれたんでな」と言った。
「今日のこれは千鶴さんのたっての希望で、良太が無事にもどったことを祝うのと、ついでに新年を祝おうということだ。良太が特高に呼び出されてびっくりさせられたり、その良太が特高をやり込めて出てきたというので感心させられたり、というわけで、おれ達の正月は波乱含みに始まったが、我が大日本帝国にとっても、いよいよ総力をあげ、決戦に挑むべき年を迎えたわけだ。お国のためと俺たち国民みんなのために、今年もお互いにがんばろうや。というわけだけど、それにしてもだな」忠之が千鶴に顔を向けた。「今どきこんなに豪勢なことをして、大変だろう、千鶴さん」
「ありがたいことですけど、私たちを助けてくださる方があるのよね。このお酒も岡さんからの戴きものだし。良太さんが無事に帰ってくださったお祝いに、ちょうど良かったわ」
「良太は知っているけど、俺のおふくろの実家が造り酒屋なんだよ。こんな時でも少しは造れるもんだから、ちょっと重かったけど持ってきた」
良太は言った。「今日はありがとうな。今度のことは俺の不注意がもとで起こったことだし、特高に呼びつけられたと言っても、大したことはなかったんだ。こんなことをしてもらって、なんだか申し訳ないという気がするけど、ありがたく御馳走になるよ」
良太の簡単な挨拶が終わると、待っていたとばかりに食事がはじまった。
にぎやかな会話の内に食事がすすみ、そのあい間には、千鶴が暖めた酒をはこんできた。
忠之が平然と飲んでいる横で、良太はすでに気分良く酔っていた。沢田がいつにもまして饒舌になり、非常時における学生のあり方を声高に論じた。
食後のかたづけが終わると、千恵を除いた4人は忠之の部屋に集まり、さきほどからの話題をふたたび取りあげた。
「いまどき、岡や森山のような奴がいるとは信じられんよ。挙国一致でやるしかないときに、政府や軍を批判するとはな」と沢田が言った。
「この国の一切を軍部だけにまかせていいと思うか。戦時だからこそ、広い視野を持った人材の知恵を生かすべきだよ」
「もう遅いんだよ、忠之。軍部が政治を動かすようになる前だったら、お前の主張にも意味があったはずだけど、今となったら、軍にまかせるしかないじゃないか」
「お前らしくないぞ、軍にまかせるしかないなどとは。どんなときでも、最善の道をさがし続けるべきだよ」
「森山が言うように、今は軍にまかせるしかないよ。士官学校や兵学校に入学できる程の秀才たちが、徹底的に鍛え上げられて将校になるんだぜ。戦争を指導しているのは、その中でも優秀なやつだぞ」
「今となっては、軍から政治を取り戻せないからな。ところで良太、オニカンノンが言ったことを覚えてるだろ。士官学校などで鍛え上げられると、視野が狭くなる懼れがあるんだ。そういうことだと、軍人政府に最善の道を選べるかどうか、疑わしいということになる」
「オニカンノンと言うのはね」とりなすような口調で千鶴が言った。「岡さんや森山さんの先生なのよ、高校時代の。もちろんあだ名だけど」
「オニカンノンが話したことは覚えてるけど、いくら議論したところで結論はでないよ。これくらいでやめにしないか」
沢田が言った。「ちょっと聞くけど、真珠湾攻撃やマレー沖海戦の戦果を聞いて、お前らはどんな気がした?」
いきなり問いかけられて、良太は忠之と顔を見合わせた。
真珠湾攻撃の成功や、マレー沖海戦での戦果が伝えられたとき、良太は胸を躍らせながら新聞に見入った。開戦に至るまでの数カ月、新聞や雑誌の記事を読むたびに、日本に対するアメリカの態度に憤りを深めていたから、そのアメリカやイギリスに圧倒的な勝利をおさめたと知って、溜飲のさがる思いがしたのであった。無敵の連合艦隊を擁する日本が、満を持して開戦に踏み切ったのだから、必ずや勝算あってのことだろう。そのように、輝かしい日本の将来に想いを致したのであったが、その一方では大きな不安も覚えた。
良太は答えた。「正直に言えば、文句なしにうれしかった。心配しなかったと言えば嘘になるけど」
「興奮して体が震えたよ。もちろん、俺もずいぶん不安だったけどな」
「さっきの話を聞いて心配したんだが、お前らもやっぱり日本人じゃないか。気にくわんところはあるけどな、政府や軍部を疑っているみたいだから」
「岡さんや良太さんが不安を感じたのは、日本では石油や鉄がとれないからでしょ。石油どころか、食料だって不足してるのに、このまま戦争が続いたらどうなるのかしら」
「心配するなって、千鶴ちゃん。日本には無敵の連合艦隊があるんだ。アメリカには機動艦隊とかいうのがあるそうだけど、そんなものが幾つあったって、連合艦隊で簡単につぶせるよ。日露戦争のときと同じで、アメリカだって講和に応じるに決まってる」
沢田との議論はそれからもなお続いたが、忠之が終了宣言をして、その日の宴会はようやく終わりになった。
それから数日たった日曜日に、良太と千鶴は忠之に誘われ、3人で映画を見にでかけた。目的の映画は、神田の大都館で上映中の、フランス映画レ・ミゼラブルだった。アメリカの映画は1年前から上映禁止だったが、ドイツやフランスの映画は上映されていた。
お茶の水駅まで来ると忠之が言った。「わるいけど、俺は映画をやめにして、友達の下宿へ行くことにする。うっかりしていたが、故障したラジオを見てやる約束をしていたんだ」
「ラジオを持っているとはカネ持ちだな、その学生」
「下宿屋のラジオだよ。ラジオをいじるのが俺の趣味だと話したら、なおしてやってくれと頼まれたんだ。ごめんな、俺のほうから誘ったのに」
忠之はふたりを残して駅へ向かった。良太と千鶴は、忠之のとうとつな振る舞いにとまどったまま、足早に歩いてゆく忠之のうしろ姿を見送った。
映画館は大入りだった。立ち見客に混じって映画を楽しみながらも、良太は体を接している千鶴を意識していた。
良太がふと横を見ると、こちらに顔を向けていた千鶴がにっこりと微笑んだ。良太はあわてて眼をそらしたが、すぐに首をまわしてほほ笑みを返した。良太は思い切って千鶴の手をさぐり、軽くにぎった。千鶴が無言のまま握りかえした。握り合っている千鶴の手と、触れ合っている千鶴の体に気持ちが高ぶった。映画に意識を集中することができなくなったが、良太は千鶴の手を離さなかった。
映画館を出てから、ふたりは暗くなりはじめた町を歩いた。声をおさえながらも千鶴は饒舌だった。千鶴の浮かれた声を良太はうれしく聴いた。
千鶴と映画の余韻を楽しみたかったし、千鶴もまた明らかにそれを望んでいた。さいふの中身が乏しいために、良太は切り詰めた生活を続けていたが、その日だけは特別だった。良太は千鶴をお汁粉屋に誘った。
値段のわりには甘味の乏しいお汁粉であったが、そのようなひと時を千鶴と過ごせたことは、良太に大きな喜びをもたらした。
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