電話悲願

吟野慶隆

電話悲願

 ぴっ、ぴっ、ぴっ、と、僥野がダイヤルボタンを押すたびに鳴る電子音が、電話ボックスじゅうに響き渡っていた。

 彼は、公衆電話が置かれている台の前に、立っていた。左手で子機を握り、右手の人差し指でボタンをプッシュしている。室内は、密閉性の高い造りとなっていて、扉も、ぴっちりと閉められている。通話内容が外に漏れ聞こえる心配は、ほとんどなかった。

 僥野の両手は、がくがくがく、と、小刻みに震えていた。心臓は、ばっくんばっくんばっくん、と、全身を揺るがすほどに鳴っている。呼吸は、病人と見紛うほどに荒くなっており、自然と両目を瞠っていた。

 しかしそれも、仕方のないことだった。なにせ、今からかけるのは、ただの電話ではない。「お宅の娘さんを預かった」「返して欲しければ身代金を寄越せ」という内容だ。いくら、ターゲットである高校生、望華と口裏を合わせてある、いわゆる狂言誘拐とはいえ、緊張しないわけがなかった。

 一瞬、「念のため、再度、今後のプランを確認しておこうか」という思いが、脳内を過ぎった。計画書は、背負っているリュックサックの中の、クリアフォルダに入れてあった。僥野が籍を置いている大学の、ミステリ研究会の部室で、他に誰もいないタイミングを見計らい、望華と一緒になって、綿密に練った物だ。

 しかし、彼はすぐさま、「いや、やめておこう」と考え、ぶんぶん、と首を激しく横に振った。ダイヤルボタンを押し始める前に、ひととおり見たばかりではないか。キリがない。

 この誘拐劇が、成功すればいいんだがな。そんなことを考えたころになってようやく、番号を入力し終えた。子機の受話口を左耳に当てると、ぷるるるる、という電子音が聞こえてくる。思わず、ごくり、と唾を呑み込んだ。

 自分の今の姿を、誰かに目撃されてはいないだろうか。ふと、そんな不安を抱いた。思わず、きょろきょろ、と、あたりを見回す。

 僥野のいる電話ボックスは、南北に通る車道に沿って造られた歩道の上に建てられている。あたりに人気はなく、自動車の一台どころか、歩行者の一人すら、さきほどから、まったく見かけない。現在は平日の真昼間である、ということや、一月下旬で、あたりに雪こそ積もっていないものの、気温がかなり低い、ということなどが、原因だろう。

 ボックスから北方に数十メートル離れた所では、道路工事が行われていた。そこでも、作業員の類いの姿は見えず、無人地帯と化していた。

 よし、誰にも目撃されてはいないようだ。僥野が、そう結論づけたころになって、がちゃり、という、相手が電話に出た音が、聞こえてきた。

「はあい……」

 そんな、女性の返事が聞こえてきた。雰囲気から、老人と思われる。おそらくは、望華の話していた、実家に同居しているという祖母だろう。

 よし、言ってやるぞ。僥野は、すう、と、軽く息を吸い込んでから、声を発した。

「お宅の娘さんを預かった」

 祖母は、すぐには、何も答えなかった。僥野は、続けて、身代金の件を言おうとして、口を開いた。

 しかし、それよりも前に、相手が返事をした。「ああん? 何だってえ?」

 なんだと、聞こえていなかったのか。僥野は唖然とした。

 だが、すぐさま我を取り戻した。祖母が、「なんだい、何もないなら切るよ」と言ったためだ。

「待、待ってくださ、待ってくれ」思わず敬語になりかけた。「いいか、よく聞けよ」今度は、心持ち大きめに、息を吸い込んだ。「……お宅の娘さんを預かった」

「な……何だってえ! そりゃあ、本当かい!」

 祖母は、慌てたように、そう叫んだ。やれやれ、やっと聞こえたようだ。そう思い、僥野は、はあ、と、安堵の溜め息を吐いた。

「本当に、アメリカとソビエトが、世界大戦をおっ始めたのかい!」

 ずっこけそうになった。誰がそんな壮大なことを伝えた。

「違う!」僥野は思わず大声を出した。それから、ややボリュームを下げると、「いいか、もう一度言ってやる、よく聴くんだ」と話した。「お宅の、娘さんを、預かった」

「ああん?! てめえ、今、なんつった?!」

 祖母が突然、そう叫んだので、僥野は思わず、受話口を顔から離した。すぐさま、左耳に当てなおす。よかった、さすがに今度こそは、聞こえたらしい。

「てめえ……よくも、そんなふざけたこたあほざけるもんだ! こっちが老いぼれだからって、馬鹿にしてんのかい!」

 なにやら、罵詈雑言の類いと聞き間違えられてしまったらしい。僥野は、慌てて弁解しようとした。「あ、いや、違──」

「けっ! 人がせっかく、電話に出てやったというのに、ふざけやがって! もうかけてくんな!」

 そんな、祖母の喚き声が聞こえた後、がちゃり、という音がした。その後は、つー、つー、と、電子音が鳴るだけになった。公衆電話のディスプレイに、「通話終了」という文字が表示された。

 クソが、切りやがって。僥野は、ちいっ、と舌打ちした。

 いったん、子機をフックに置いてから、すぐさま持ち上げた。ズボンのポケットから財布を出すと、十円玉を、いくつか取る。それらを投入した後、ダイヤルボタンを押し始めた。

 またしても祖母が電話に出てくるのではないか、という恐れはあった。しかし、かといって、こちらの思ったとおりの人間に子機を取り上げさせる、というようなことが、できるわけもない。祖母以外のやつが対応してくれるのを祈るしかなかった。

 しばらくして、番号の入力を終えた。受話口を左耳に当て、ぷるるるる、という電子音を聞く。

「はい」

 数秒後、そんな、若い女性の声が聞こえてきた。僥野にも、覚えがある。これは、望華の母親の物だ。

 彼はすぐさま、口を開いた。「お宅のむ──」

 ががががが。がががががががが。

 突然、大きな音が、僥野の鼓膜を劈き、発していた声を掻き消した。彼は驚いて、それの聞こえてきたほうに視線を遣った。

 電話ボックスから離れた所にある工事現場に、いつの間にやら、作業員が数人、入っていた。両手で、何かしらの巨大装置の取っ手を握り、地面に対して使用している。どうやら、それの稼働音が、こちらにまで鳴り響いてきているようだった。

「あのう……すみません、よく聞こえなかったんですが……」

 そんな、母親の声を耳にして、最優先事項を思い出した。そうだ、とにもかくにも、あなたの娘を誘拐した、ということを伝えなければ。

「お宅のむ──」

 どがががが。ずがががが。

「おた──」

 ががががががががががが。

「──」

 どがががずがががどがずががどがずが。

 ええい、クソ、ちょっとは静かにできないのか。僥野は思わず、じろっ、と、工事現場のほうを睨みつけた。

 直後、受話口から、ぶつり、という音が聞こえてきた。それからは、つー、つー、という電子音が鳴り始めた。

 電話機本体のディスプレイに、視線を遣る。そこには、「通話終了」という文字が表示されていた。どうやら、投入した料金分の、利用可能な時間を超過してしまい、そのため、回線を強制的に切断されてしまったらしかった。

 まったく、またしても、肝心な話ができないとは。しかし、慌てる必要はない。こんなこともあろうかと、財布の中には、十円玉を大量に確保してある。まだまだ、電話することができるのだ。

 さきほどは、料金を継続して投入するのを忘れてしまい、そのせいで、通話が強制的に終了させられてしまった。しかし、今度はもう、そんな愚は犯さないぞ。

 僥野は、そう心の中で呟くと、子機をフックにかけた。財布を取り出そうとして、ズボンのポケットに、手を入れる。

 がちゃり、という音が、背後から聞こえてきた。同時に、外部の冷たい空気が、屋内に入り込んできた。

 誰かが、電話ボックスの扉を勝手に開けたに違いなかった。驚いて、振り返る。

 入り口のすぐ向こう側に、人が立っていた。黒いスーツに身を包み、深緑のネクタイを締めている、サラリーマン然とした中年男性だ。

 両目を瞠り、口を大きく開け、はあ、はあ、と、荒い呼吸を繰り返している。明らかに、尋常な様子ではない。

「ちょっとっ!」そう、サラリーマンは大声を上げた。耳を塞ぎそうになるほどのボリュームだ。「救急車、呼んでくださいっ!」

 僥野は思わず、「え?」と言った。

「救急車ですよ、救急車! ほら! あれ!」

 そう、サラリーマンは叫ぶと、びっ、と、彼から見て左方を指した。つられて、そちらに視線を遣る。

 歩道の、電話ボックスから十数メートル離れた地点に、若い女性が仰向けの状態で倒れていた。腹部には、出刃包丁が垂直に突き立てられている。胸のあたりが、膨らんだり縮んだりしているので、死んではいないようだ。

「通り魔です!」サラリーマンは、周囲に唾を巻き散らしまくりながら叫んだ。「わたし、見ました! 若い男が、いきなり物陰から飛び出してきて、あの女の人を刺した後、走って、どこかへ逃げていったのを! だから早く、呼んでください、救急車! おれのケータイ、バッテリー切れで、使えないんです!」

「え、えっと、あの──」

 僥野はサラリーマンと公衆電話を交互に見た。今、他所の犯罪に構っている余裕なんて、とうぜん、ない。しかし、この場面において、救急車を呼ぶのを断り、別の所にダイヤルしようとするのは、明らかに不自然だ。もしかしたら、それが原因で、自分の存在がこの人の記憶に残ってしまい、それがのちのち、誘拐劇の足を引っ張ることになるかもしれない。

「ど……どうぞ!」そう、彼は叫ぶと、電話機の前を、ばっ、と跳び退いた。

 自分で一一九番にかけず、他人に譲ってかけさせる、というのも、だいぶ不自然な行為だ。しかし、サラリーマンにしてみれば、とうぜんながら、そんなことに違和感を抱いている余裕など、ないようだった。半ば跳び込むようにして、ボックスの中に入ってくる。僥野を押し退け、左手で子機をフックから取り上げると、右手でダイヤルボタンを強打し始めた。

 その隙に、彼は屋外へと逃れた。足早に、女性の倒れている地点とは反対方向へと、去っていく。

 通りの曲がり角を、何度か、右に左にと折れたところで、移動速度を、普段どおりの物に戻した。まったく、まだ、誘拐劇が始まってすらいないというのに、こんな苦労をしていては、先が思いやられるなあ。そう、心の中で呟くと、はあ、と溜め息を吐いた。

 その後は、あたりに、きょろきょろ、と視線を遣りながら、町中を歩き続けた。しかし、電話ボックス、それも、通話内容が外に漏れ聞こえる可能性の低そうなタイプの物など、簡単には見つからなかった。

 それでも諦めずに、数十分、探し続けていると、背後から、「すみません」と、声をかけられた。己のいらつきを隠す余裕もなく、振り返る。

 わあっ、と叫びそうになった。自分に話しかけてきたのは、男性警官だった。よく交番で目にするような、青い制服に身を包んでいる。眉間に皺を寄せており、口元を引き締めていた。明らかに、僥野を警戒していた。

「さきほど、このあたりで、通り魔的な障害事件がありました」彼はこちらを睨みつけたまま言った。「それで、付近を見回っているところです。すみませんが、ご協力、よろしくお願いします。まずは、その、リュックの中、見せてもらえますか」


   〈了〉

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