20XX年 第十八話
ユウが目を覚ました時には、もう日が暮れていた。勤務時間も過ぎていて、事務員も含めて皆退勤していた。
「ユウ。散歩にいこう」
先に起きていた真里菜の誘いで、ユウはクローン兎兎と一緒に外出した。
街路灯が点く歩道を進んでいくと、店はまだ開いていて、煌々と電気が点いている。ユウは記憶ゲノムにインプットされていない情報の景色に胸を躍らせた。
真里菜が歩道から逸れ、小川に沿って歩ける小道に入った。そこにも街路灯は点いているが、鬱蒼とした小高木で、歩道に比べるとかなり暗い。
真里菜が小川とは反対の小道側に植えられている花や草の中に入った。父の容体が落ち着いたこともあってか、気持ちにゆとりができた真里菜は、ヒト目線とは違うウサギ目線の景色に魅了されていた。
「こんな近くに土が見える。草がでかい。良い香りがする」
真里菜はヒトの時とは違う感覚を存分に味わっていた。
「下から見上げる花って、風船みたい」
仰ぐ真里菜がふと、首を傾げた。
「ウサギは近視のはずだけど……」
真里菜はクローン兎兎の遺伝子変異に気付いた。
「この音はなに?」
びっくりした真里菜が、草叢から小道に飛び出した。ヒトでは聞き取れない周波数が、長い耳に入ってきたからだ。それと同時に、草叢で休んでいた蝶も飛び出した。蝶は立ち止まっているクローン兎兎の眼前を舞った。蝶の種類はキタテハだった。
「そういえば最近、蝶のシグナルがわかるようになったんだ」
クローン兎兎の発言に、真里菜は仰天した。それと共に、さっき聞こえてきた音は、キタテハが発したシグナルだと理解した。
――視力も聴力も嗅覚も、普通のウサギとは違う。
そう思って真里菜は、今更ながら重大なことに気が付いた。
――喋れる兎兎にはヒトと似た声帯がある。
真里菜は自分の体となっているクローン兎兎の胸元に目を向けた。
――ヒトと同じ知性など。なぜ兎兎に、こんな遺伝子変異が起こったんだろう? いつ起こったんだろう?
真里菜は推考した。
――記憶クローニングの為に試験的に使った、人工遺伝子や人工塩基対、人工アミノ酸、人工タンパク質などによって変異したのかもしれない。
そう考えた真里菜だが、首を横に振った。
――それはありえない。だとしたら、あの時かもしれない。クローンとして誕生した兎兎は、生後一ヶ月で感冒の症状を出した。準備や設備がまだ完全に整っていないのに、記憶クローニングまでも強行したことで起きてしまったことだ。オリジナルの兎兎が亡くなった悲しみで、判断を誤ったと後悔したけど、兎兎は見事に打ち勝った。その時詳しく調べなかったけど、その感冒でウイルスと人工遺伝子などが何らかの反応を起こし、ニューロン(神経細胞)の変異を引き起こしたのかもしれない。ニューロンだけでなく他の細胞も、ウイルスと遺伝子が何らかの反応を起こし、様々な変異を引き起こしたのかもしれない。
ありえるとは思えないと、再び首を横に振りかけた真里菜が、異変を感知した。直後、鳴いていた虫たちが静まり返った。
真里菜は後足で立ち上がると、聴覚と嗅覚に神経を集中させた。
静寂の中、全ての街路灯が消えた。
真里菜は咄嗟に前足を下ろすと、後足で地面を蹴り、警戒音を鳴らした。
すぐに反応したのは、警戒音を鳴らすというウサギの行動を知っているクローン兎兎だった。襲われた記憶が蘇って体が震える。案の定、鞭がクローン兎兎目掛け打ってきた。
ユウはクローン兎兎の首に巻きつきかけた鞭を刀で斬った。刀は真里菜から渡された万能バイテクペットのトティを分化させたものだ。ユウは虫たちが静まり返った時に、小声でトティに指示を出し、刀に分化させていたのだ。
「逃げろ!」
ユウは叫び、次から次へと打ってくる鞭を斬っていく。だが、鞭を斬っても、斬っても、鞭は打ってくる。
――以前は兎兎だけを狙っていたが、今は自分も狙われている。
ユウはターゲットになったことを自覚しながら、打ってきた鞭を斬った。直後、鞭に足をすくわれる。尻餅をついたユウの首に、鞭が巻きつこうとした。その鞭を斬る。と同時に、再び鞭が首に巻きつこうとした。ぎりぎりの所で躱すが、別の角度からやってきた鞭が首に巻きついた。締められる寸前、その鞭を刀で斬り、別方向から打ってきた鞭に気付いて仰け反った。鞭が顔面を通り過ぎていくと同時に、背後から打ってきた鞭を、身を捻って躱しながら、右斜め上から打ってくる鞭を刀で斬り、飛び跳ねた。鞭が靴底を通り過ぎていく。
――ヒト一人でこんな鞭の打ち方ができるのか?
ユウは疑問に思った。
地面に靴底を着けたユウは、一瞬の隙を見計らって逃げた。既に逃げている真里菜とクローン兎兎の後を追う。
「ヒトだ」
急停止した真里菜の後ろで、同じように止まったクローン兎兎の背後で、ユウも止まった。真里菜の前方、小川の向こう側の柳の下に、ヒトのシルエットと犬のシルエットが見える。
――やはりヒトは一人ではない。
ユウはヒトと犬のシルエットが立つ場所に、小川に架かる短い橋があるのに気付いた。
「挟み撃ちだ。前方にも後方にもヒトがいる。後方にはヒトが数人いる」
ユウの言葉に、真里菜とクローン兎兎はぎょっとするように身を竦めた。そんな彼らの上空で、月が厚い雲に覆われていく。それと共に、周りは暗闇に包まれていった。
感知した長い耳が後方に向いた直後、真里菜は意を決し、後足で地面を力強く蹴り、飛び跳ねた。
鞭が真里菜を打った。だが、真里菜はしなやかに身を捻り、悠々と前足で鞭を打ち返した。
これを皮切りに、怒濤のように鞭は打ってきた。
矢継ぎ早に打ってくる鞭を、真里菜は負けじと、前足や後足で打ち返していく。
視覚に重きを置くユウは、誤って真里菜たちを斬らない為にも、動けずにいた。
孤軍奮闘する真里菜が、時折、後足で地面を蹴り、警戒音を鳴らし始めた。
身を竦ませるクローン兎兎だったが、警戒音にある一定のリズムがあることに気付いた。
――これは合図だ。
クローン兎兎は、真里菜が鳴らす警戒音に耳を澄ませ、その法則を解いていった。
悟ったクローン兎兎は、そっとユウの背後に回って耳打ちした。ユウはにやりと笑って、クローン兎兎が促す方向へと向き直り、刀を構えた。
その様子を感知した真里菜が、時折鳴らしていた警戒音を止めた。
刀の柄を握る手に神経を集中させたユウの左肩に、クローン兎兎は右手を置いた。そして目を閉じ、警戒音に集中する。
真里菜が警戒音を一回鳴らした。
――警戒音が一回は、真里菜が忙しく鞭を打ち返している。
クローン兎兎は右手を動かさなかった。
真里菜が警戒音を一回鳴らした。
――まだだ。
クローン兎兎は我慢した。
真里菜が警戒音を素早く四回鳴らした。
――今だ。
クローン兎兎は右手を動かそうとした……
「美咲さんの手は反応が鈍いな」
思わずクローン兎兎はぼやいた。
真里菜が警戒音を一回鳴らした。
真里菜が警戒音を素早く五回鳴らした。
だが、クローン兎兎の右手は動けなかった。
――集中だ。できる。美咲さんの手でもできる。集中だ。
クローン兎兎は全神経を右手に集中させた。
真里菜が警戒音を一回鳴らした。
真里菜が警戒音を一回鳴らした。
真里菜が警戒音を素早く三回鳴らした。
クローン兎兎は右手で素早く、ユウの左肩を三回叩いた。次の瞬間、ユウは三歩前に進み出ると、刀を振り下ろした。どさりと鞭が地面に落ちた音がした。
真里菜が警戒音を一回鳴らした。
真里菜が警戒音を素早く二回鳴らした。
クローン兎兎は素早く、ユウの左肩を二回叩いた。すぐにユウは二歩前に進み出ると、刀を振り下ろした。再び、どさりと鞭が地面に落ちた音がした。
真里菜が警戒音を一回鳴らした。
真里菜が警戒音を一回鳴らした。
真里菜が警戒音を素早く四回鳴らした。
クローン兎兎は素早く、ユウの左肩を四回叩いた。四歩前に進み出たユウは、刀を振り下ろした。どさりと鞭が地面に落ちた音と同時に、辺りが明るくなった。街路灯が点いたのだ。
ユウは前方を見遣った。だが既に、小川の向こう側の柳の下にいたはずの、ヒトと犬はいなかった。辺りを見回した後、視線を落として仰天する。
「打ってきた鞭はこれだったのか……」
刀で斬った鞭の正体に、目を見開いたユウは、足元に横たわる枝を見詰めていた。
「鞭は、この柳の枝ね」
真里菜は小道側にある柳を見上げた。複数の枝を垂らすその柳から、三本の枝が斬られているのを確認できた。
「柳の枝が……」
呟いたユウは、謎が解けたというように声を上げた。
「これだったら、数人のヒトがいなくても、いくらでも打てる」
ユウは踵を返すと、最初に襲われた場所に戻った。斬られた柳の枝が、小道に散乱していた。
「柳はもう動かないよね?」
ユウの後を追ってきたクローン兎兎が、恐々とした表情で、小川のほとりにある柳を見渡した。同じように追ってきた真里菜も辺りを見渡した。
「たぶんもう大丈夫よ」
たぶんという単語に、クローン兎兎は不安げな表情になった。
「ユウ。この枝を持って、早く帰ろう」
真里菜は小道に散乱する柳の枝を見た。
ユウは散乱する柳の枝の中から一本手に取ると、走り出した真里菜とクローン兎兎の後を追って、小道から歩道に出た。
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