20XX年 第六話

 自動運転車は目的地に到着し、港の駐車場に止まった。

 「美咲さん。亡くなったように見えないよ」

 撫で続けるクローン兎兎を、見上げた真里菜がぽつりと言った。

 「まだ解明しきれていないが、記憶ゲノムが死骸の脳に入ると、化合物が産生され、それによって脳神経から心筋などの全細胞が復元し、十日間だけ、生きている時と変わらず正常に働くんだ」

 ユウは不器用ながらも、できるだけ優しい口調で言った。

 「そうなんだ」

 真里菜はクローン兎兎の、微笑む美咲さんの顔を見た。

 「美咲さんの記憶ゲノムは消えていて、その消えた領域に兎兎の記憶ゲノムが……」

 言葉を止めた真里菜は、思い当たり、記憶ゲノムを心に言い換える。

 「体は美咲さんだけど、心は兎兎なんだね。オリジナルの兎兎ではなく、兎兎の心が入っているんだよね」

 この言葉に、撫でていたクローン兎兎の手が止まった。その手を、真里菜はそっと舐める。

 「兎兎。ありがとう。兎兎は兎兎だけだよ」

 真里菜の言葉に、クローン兎兎は凍てついた心に花が咲いたような気がした。満面笑みになる。

 「大好きだよ、兎兎」

 続く真里菜の言葉に、クローン兎兎の全身は火照った。思わず窓を開ける。クローン兎兎はいつもこの車に乗っていて、ヒトがいろいろと操作しているのを見ているから、窓の開け方も覚えているのだ。

 「寒い」

 真里菜の反応に、クローン兎兎は窓を閉めようとしたが、真里菜の次の言葉で手を止めた。

 「金木犀の香り」

 クローン兎兎は、ウサギの体ならば瞬時に匂いを嗅ぎ分けていたのにと、もどかしく思いながら嗅覚を研ぎ澄ます。

 「うん。いい香りだね。僕、この香り好きなんだ」

 潮の香りに紛れて、臨海公園にある金木犀の香りが漂っていた。

 「俺も好きな香りだ」

 ユウの発言に、真里菜は興味津々な目でユウを見た。

 「ユウの時代にも、まだ金木犀はあるん?」

 「ああ。年中この花が咲いている場所があるぜ」

 皮肉を込めてユウは言ったのだが、真里菜は目を爛々と輝かせた。

 「季節を待たなくても、花や香りをずっと楽しむことができる場所があるんだね。バイテク社会、いいね」

 胸を躍らせる真里菜に、ユウは肩をすくめた。ユウとしては、季節感がないことを嘆き、風情がないと思っているのだ。

 「年中、桜祭りを楽しむことができるよ」

 思い当たった真里菜が、クローン兎兎を見上げた。クローン兎兎はすぐに返事が出来なかった。だけど、先程の真里菜の言葉を思い出すと、心が温かくなって返事をする。

 「うん。いいね」

 微笑むクローン兎兎を見ながら、真里菜は思い付きを口にする。

 「兎兎が誕生した日時や私が誕生した日時に、一斉に花が開花するようにバイテクで調整したいよ」

 「うん。いいね」

 クローン兎兎はにっこりとした。ユウは憂鬱そうな表情で窓外を見た。

 「俺は自然のままに咲いている花を愛でるのが好きだ」

 ぼそぼそと呟いたユウは思い浮かべた。

 「透明なバイテクドームの側壁伝いには、ぐるりと長い遊歩道が作られていて、バイテクドーム越しに自然区域の森を眺めることができる。その遊歩道を一周したら、どのくらいの日数がかかるのか、歩いたことがないから知らないが、その遊歩道を数百メートルだけ歩いたことは何度もある。色とりどりの花々、新緑の木々、紅葉の木々……イノシシやタヌキやキツネの姿を見掛けたことがある」

 ユウは静かなのに気付いて、顔を横に向けた。

 真里菜が興味津々な目でユウを見ていた。クローン兎兎もユウを見詰めている。ユウは言葉を続ける。

 「俺は自然の春夏秋冬を見たくて、その遊歩道に足を運んでいるんだが、まだ雪景色は見たことがない。日本吉備バイテクドームの周りは、雪はめったに降らないからな」

 「寒暖差のない年中快適に過ごせるバイテクドームの中から、春夏秋冬の景色が見られるなんて、素敵だね」

 目を爛々と輝かせる真里菜から、目を逸らしたユウは顔を横に降った。

 「そのせいで、俺ら世代の身体機能では、もうバイテクドームの外には出られない」

 ユウは皮肉っぽく笑った。

 「外に出られなくても、バイテクドームの中には……」

 想像を楽しむように真里菜は目を閉じた。

 「バイテクタイムトラベル装置のような、バイテクでのレジャー。この時代では味わえない刺激的で楽しいレジャーが、いっぱいあるんよね」

 「まあな」

 素っ気無く返事をしたユウは、心情が噛みあわないことを嘆いて押し黙った。

 「バイテク量子AIによって管理されているバイテクドーム」

 ユウの様子に全く気付いていない真里菜は、バイテクでの理想的な生活を想像した。

 「バイテク量子AIとバイテク量子コンピュータがあれば、ヒトは面倒な計算なんかしなくてすむね」

 「それが弊害だ」

 言下に否定したユウに、真里菜が驚いたように目を見開いた。

 「まさかヒトの脳が退化した?」

 「計算能力はもちろんのこと、自分が考えるよりも早く回答されることで、思考能力の低下、判断能力の低下も著しくなっている」

 「そうなんだ。でも、私の脳に入っているといっても、ユウの記憶ゲノムは退化しているように思えないけど……」

 平然と言ってのけた真里菜に、ちょっと気後れしながらもユウは言い返す。

 「ポリスになるには、計算能力も思考能力も判断能力も、トップクラスじゃないと入れない」

 「そうなんだ」

 あっさりと頷いた真里菜の様子に、ユウは優れていることをアピールしたかった自分を悔やんだ。

 「僕、眠くなっちゃったよ」

 会話に割って入ったクローン兎兎が、欠伸をしながら座席を倒した。そのまま全身を楽にし、眠りにつく。

 「明日は早いし、私も寝るよ」

 真里菜はクローン兎兎の膝の上で横たえた。だが、思い付いたというように身を起こし、必ず未明に出発できるように、腕時計の目覚ましセットの仕方をユウに伝えた。

 「ここから感染発症地点の島にも、この自動運転車で行くのか?」

 ユウの問いに、真里菜は右前足を前方に突き出す。

 「あっちに係留してある自動運転ボートで行くんよ」

 真里菜がさした方角を見遣りながら、ユウは記憶ゲノムにインプットされた情報を思い起こした。

 「海を渡るには別の乗り物に乗らないといけない。それがボートって乗り物で、自動運転のボートってことだな」

 理解したユウが視線を戻した時には、既に真里菜は眠っていた。クローン兎兎もぐっすり眠っている。だが、ユウは眠くはなかった。

 「真里菜が連れて行ってくれた所は、どこも面白くて楽しかったな。兎兎も一緒だったら、もっと面白くて楽しかっただろうな」

 ユウはバイテクペット兎兎のことを想った。そのことで、ふと、記憶ゲノムにインプットされた情報を思い起こすのと似た感覚で、真里菜の残記憶が思い起こされた。

 手の平に残る母や父の手を握った安らぎ、鼻に残る母や父の優しい匂い、舌に残る母や父の手料理の味、耳に残る母や父の労わりの声、目に残る母や父と行った楽しい旅行の風景。

 「これらはまぎれもなく、真里菜の五感から伝わってくる残記憶だ。だが、なぜパニックに陥らない?」

 混乱しかけたユウだが、冷静に考える。

 「自分の記憶と真里菜の残記憶が、混同していないからだ。夢と現実を判別できるように、自分の記憶と真里菜の残記憶を判別できているからだ」

 確信したユウはバイテクペット兎兎を想った。

 「君が俺を守ってくれているのか?」

 口元をほころばせたユウは、いつしか深い眠りについていた。

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