第5話 ココアの水面に狂信者


「……」


「……」


 夜も更けて、客入りもまばらな喫茶店。暖かく柔らかな光に照らされる店内には、控えめな音量のジャズが流れている。

 そんな心休まるはずの場所で俺は非常に気まずい思いをしていた。

 ざわめく心を少しでも紛らわせようと、ストローでアイスコーヒーをかき回す。

 カラカラと鳴る氷の音が、胸中の気まずさを紛らわせて——


「……それ、うざいんですけど」


「すいません……」


 くれなかったどころか、さらに気まずさを上積みする結果になってしまう。

 ストローから手を離し、辛辣な言葉の発生源へと目を向ける。

 二人席の対面に座るのは、ついさっき出会ったばかりの女子大生。

 整った面立ちを飾るナチュラルメイクは素材の良さを引き出す嫌味のなさで、毛先が緩く巻かれたダークブラウンの髪は上品な印象だ。

 一言で表現するならいいとこのお嬢様。上流階級のご家庭でお生まれになったのですねという感じ。


「ジロジロ見ないでください。キモいですよ」


「すいません…………」


 そんな品のいい女の子に辛辣なことを言われると、割とまじで凹む。

 睨み付ける冷たい視線を感じながら、俺は心の拠り所を求めてポケットから煙草とライターを取り出した。


「タバコ吸いますね……」


「……チッ」


「すいません……」


 舌打ちされてしまった。しかしそれでも俺は止まれない。この店は全席喫煙可だし、止まる理由もない。

 さらに鋭くなる冷たい視線に耐え忍びながら煙草を咥え、火を付ける。


「結局、吸うんですね」


「え?」


「すいませんって言ったじゃないですか」


「それは……ごめんなさい吸いますって意味です……」


「……紛らわしい人」


「えぇ……」


 俺が悪いのか。確かに連れが嫌がるのに吸うのは薄情かもしれないけど、そもそも俺はまだこの子の名前すら知らない。

 しかも睨みつけてくるし。俺のこと嫌いみたいだし。そんな相手を気遣うほど人間できちゃいないのだ。


「ふぅ……」


 とはいえ。なるべく対面に煙がいかないように気をつけて吹かしながら、俺はここに至るまでの経緯を思い出す……


〜〜〜


 勤務終わり。いつものように非常階段を登り芽依さんに会いに行く。

 今日はどんな話をしようかななんて考えながらいつもの踊り場にたどり着くと、芽依さんではない人が待っていた。


「あれ?」


「……やっぱり実在したんですね」


 人を都市伝説みたいに言わないでほしい。というか誰だろうこの人。


「もしやとは思っていましたが……考えうる最悪の結果です」


「さ、最悪?」


「やはり、休憩から戻った時の美原先輩が楽しそうなのはこの人が……」


「美原先輩……?」


 耳馴染みはしないけど、知っている名前。美原というのは芽依さんの苗字だ。ということはつまり……頭の中で点と点が繋がる。


「芽依さんが話してた後輩さんか」


「な……美原先輩を名前で……!?」


 後輩さんの顔に驚愕の色が浮かぶ。もしかしてまずいことを言ったかもしれない。


「い、いえ……その件については後ほど確認するとして。おほんっ、美原先輩は私についてどんな話を……?」


「え? んーと——」


「やっぱりいいです、聞きたくありません」


「えぇ……」


 一瞬見せた驚愕はすぐに取り繕われ、後輩さんは澄ました顔で背筋を伸ばす。


「それより……ここからが本題です」


「は、はぁ……」


「取り急ぎ、場所を変えましょう。あなたに話があります。もちろん拒否権はありません」


「え? いや俺は——」


「美原先輩なら今日は来ませんよ」


「それなら帰っても——」


「拒否権は、ありません」


「……はい」


 従わない選択肢もある。あるがしかし……俺は今後の芽依さんとの関係も考慮して、大人しく従ってみることにした。


〜〜〜


 ——というわけで。近場の喫茶店に場所を移し、現在に至る。


「……」


 話があるといいながら、後輩さんは渋い顔で俺を見ているだけで本題が始まらない。


「話がないなら帰りたいんですけど」


 ニコチンを摂取して少しだけクールになった俺はさっきまでより強気に出る。向こうも初対面なのに辛辣だし、許されるだろう。


「話ならあります。重要な話です故、心の準備をしてるんですよ察し悪いですね」


「さいですか……」


「腹が決まれば話しますから黙って待っててください」


 こっちが仕方なく付き合ってあげてる立場なはずなのに、どうも主導権を握れない。

 ともあれ。そう言われてしまえば俺は待つことしかできない小心者だ。

 なにやら真剣な面持ちでココアの水面を眺めている後輩さんを眺める俺。

 こうなれば根気強く相手して芽依さんとの雑談の話題にしようと思いつつ、アイスコーヒーを吸い込んでいると——


「美原先輩と付き合ってるんですか?」


「ぶふぉっ」


 鋭角に放り込まれた言葉に思わずストローを咥えたまま吹き出してしまい、コーヒーがブクブクと音を立てる。


「うわ……行儀が悪いですね」


「それには反論出来ないけどさ……なんて言った?」


「あなたは美原先輩とねんごろな関係なんですかと聞いたんです」


 言い方よ。


「は、はぁ……」


「なんですかその反応は。私は勇気を出して聞いているのに」 


 一旦落ち着くために煙を吸い込む俺を睨み付け、後輩さんが顔をしかめる。

 彼女の目には俺が答えをはぐらかそうとしたように見えたんだろう。


「さぁ……一思いにトドメを刺してください」


「トドメって。物騒だな……」


「あなたは! 美原先輩の彼氏で! ねんごろで! 蜜月で! ずぶずぶなのですかと聞いているんです!」


「衝撃的な語彙……」


 バン! と机を叩きながらかなりの声量で放たれた言葉が店内の少ない客達の視線を集めてしまった。

 さっさと話をおさめないと悪目立ちしてしまいそうだ……


「芽依さんとはただの駄弁り友達だよ」


「……ほんとに?」


「本当に。一緒にヤニ吸ってるだけ」


「ほんとのほんとに?」


「……まぁ、今のところは」


「今のところは!?!?」


「ごめん、念入りに聞かれたからつい変な予防線を張りたくなって……」


「死ね!」


「死ね!?」


 直球の暴言に思わず大きな声が出た。


「つまるところ! どうなんですか!」


「友達! 友達です! 煙草友達!」


 嘘偽りない言葉を告げる。これで信じてもらえないならお手上げだ。


「むぅ……」


 後輩さんから向けられる探るような視線。もう俺から言うことはないし受け入れるのみ。

 ……まぁそういう好意がないと言ったら嘘になるけど。そう単純な話でもない。

 21歳フリーターは複雑なお年頃で複雑な立場なのだ。


「……いいです、信じましょう」


 疑いは晴れたのか、向けられていた視線から鋭さが消えた。


「はーよかった。杞憂だったようですね。十中八九彼氏だと思ってましたから」


 さっきまで手をつけていなかったココアを安心した様子でちびちび飲み始める後輩さん。


「わざわざあそこで待ち構えてたってことは、俺のこと知ってたの?」


「いえ。美原先輩はこれっぽっちも話題にしなかったので」


「それはそれで悲しいな……?」


「ただ、想定してました。美原先輩、煙草休憩のたびに誰かと話してる様子だったので」


「想定……でも本人に聞けば話してくれたろ」


 そもそも、雑談レベルで俺の存在が話題に上がっていないことの方が驚きだ。


「嫌ですよ。聞いてもし『ん? うん、彼氏だよー』って言われなら死にますもん」


「死ぬな」


「死にます。ショック死です」


 ……この子、たくましいのかそうじゃないのか分からないな。


「想定が確信に変わったのは最近のことです」


「芽依さん俺のこと話したりした?」


「いいえ。ただ休憩に行く時は着てなかった男物のパーカーを着て戻ってきたので」


 話題にあげないってことは意図的に隠してただろうに、なんて迂闊な人なんだ。


「その姿を目撃した夜は驚きすぎて食事も喉を通らなかったですし、眠れもしませんでした」


 そう言ってため息を吐く後輩さんの顔は、その時の驚きがフラッシュバックしたかのようにげんなりしていた。


「かなり気にしてたんだな……なんかすまん」


「というか。なんで急にタメ口なんですか? 別にあなたの後輩じゃないんですけど?」


 ジロリ。と再び視線が鋭くなる。しまった、完全に油断していた。


「仰る通りです……」


 一応許されたし、芽依さんの後輩だと思ったらつい距離感を誤ってしまった。


「まぁいいでしょう。逆にいざと言う時の責めどころとしてタメ口で話してください」


「いや、やめておきま——」


「タメ口」


「はい——」


「はい?」


「うん……」


「よろしいです」


 タメ口を強制されたのも初めてだし、年下に詰められて泣きそうになったのも初めてだ。


「で。美原先輩とは普段どんなお話をしているんですか?」


「その話しなくちゃダメ?」


「先輩のご友人がどんな人物なのか知っておくのは後輩の義務ですので」


「なるほど」


 そんな義務聞いたことないという思いとは裏腹に、俺は変に納得する。

 芽依さんは後輩さんのことを「狂信者みたいな子」と称していたので、腑に落ちた。


「どんな話って言われてもなぁ……普通の雑談だよ」


「はぁぁぁ……」


「え? ため息吐くタイミング?」


「つまらない返しだなと思いまして。雑談っていっても色々あるでしょうに」


「そんなん言われても……」


 思い返してみても、とりたてて語るようなことは話してない気がする。


「コーヒーとか洗剤の話してる」


 少し考えて思いついたのは、その2つだった。それを聞いた後輩さんは目を丸くしている。


「はぁ? 正気ですか?」


「正気だよ」


「色気ない話題ですね……」


「あったら嬉しいのかよ」


「ないほうがいいです」


 なんなんだ。芽依さんを慕う後輩だけあって中々に奔放な子だな……


「まったく。芽依さんはこんなヤニカスと話すのの何が楽しいんだか」


 煙を吹かす俺を眺めながらココアを啜り、ナチュラルな悪口をぶつけてくる後輩さん。カスな自覚はあるからいいけど。


「芽依さんだってヤニカスだろ。あの人もかなりのヘビースモーカーだぞ」


「先輩はいいんです。体内が清らかなので一度体内に取り入れた煙は浄化されてクリーンな空気として排出されますから」


「空気清浄機かよ」


「はい。その過程でプラズマクラスターイオンも精製されます」


「シャープ製じゃん」


「故に美原先輩は煙草を吸ってもいいんです。存在が森の空気そのものですから」


「尋常じゃないな」


 芽依さんがではなく。こんなことを至極真面目な顔をして言ってしまう後輩さんが。


「そもそも。美原先輩は人間できているので私の前では煙草吸いません」


「一理ある」


 流石は芽依さんだ、気遣いが出来る。なんて思いながら、俺は2本目に手を伸ばした。


「この話の流れで追い煙草しますか、普通」


 冷たい視線が突き刺さるがもう慣れてきた。それよかヤニだヤニ。

 新鮮な煙で肺を満たし、コーヒーを一口。ようやく後輩さんの存在にも慣れてきて、くつろげるようになってきたぞ。


「なんだかくつろいでいますが、私はもう帰りますよ。話はもう終わったので」


 漂う紫煙をぼやーと眺めていると、後輩さんは既に立ち上がっていた。

 そして、椅子にかけていたコートを羽織り、小さな鞄から財布を取り出す。


「ココア代くらい奢るよ」


「は? キモいですね」


「……」


「あなたのような人に借りは作りません」


「さいですか……」


 年上として当然の振る舞いをしたつもりだったんだけど、キモいのこれ。マジで凹む。


「では失礼します。美原先輩とはこれからも良き『お友達』であってくださいね?」


 そう言って後輩さんは、残っていたココアを景気よく飲み干し、机にいくらか金子を置いてすたこらと去っていった——


「あ。今日美原先輩がいなかったのは、風邪を引いてお休みだからです」


「……へえ」


 と思っていたら、戻ってきて芽依さんのことを教えてくれた。……結局こじらせたのか。


「来るなと言われてしまったので看病に行けないのが残念ですが」


「そうかい」


「では、今度こそ失礼します」


 いうだけ言って去っていく後輩さん。今度こそ、背中が見えなくなるまで見送る。


「芽依さんの後輩、尖ってんなぁ」


 姿が見えなくなったところで素直な感想をひとりごちる。

 きっとまだ深淵は覗けていないのだろうけどちょっと話しただけで既に強烈だった。


「……そういや名前も聞いてないし名乗ってもないな」


 まぁいいか。向こうの確認事項は済んだだろうし、もう会うことはないだろう。

 残りのコーヒーをすすりながら、後輩さんが置いていったお金を回収することにする。


「……あいつやりやがった」


 机に残されていた金額は2000円。2人分の飲み物代を払って余りある金額だ。

 そうした意図は読める。借りは作らないといいながら、俺に『貸し』を作ったんだ。


「狂信者ってのはマジだなぁ……」


 芽依さんを慕う彼女は、俺に好き勝手されるのが気に食わないんだろう。故につけ込む余地を敢えて残した……というところか。

 なんともしたたかな後輩さんだ。あんな子に好かれてる芽依さんは一体何をしでかしたんだ?


「……今度聞いてみるか」


 芽依さんが風邪を治して戻ってきたら、後輩さんと会ったことを話してみよう。


「……」


 天井の明かりに目掛けて煙を吐き出し、照らされる紫煙をぼんやりと眺める。


「……ふぅ」


 怒涛の戦いを終え、ようやく落ち着いた時間を過ごす俺の胸に去来したのは……結局芽依さんは看病には呼んでくれなかったんだなという一抹の寂しさだった。

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