第3話 ぼくら部屋干し同盟

「はいこれ返す」


 7階と8階の狭間。いつもの場所に着いた途端に、芽依さんがパーカーを差し出してきた。

 確認するまでもなく、この前俺が持ち逃げされたやつだ。


「あんがとね。おかげであったかかったよ」


「俺は震えながら帰りましたけどね」


「悪気はなかったんよー許してよー」


「冗談です」


 今日は別のを着ているし、受け取ったパーカーは小脇に抱えておく。

 上着を返すという使命を終えた芽依さんは早速一服し始めていた。

 俺も隣に腰を下ろし、煙草に火をつける。煙を吸うとようやく一仕事終えたって感じだ。


「あ。やっぱ今だけ貸して。ちょい寒だわ」


「じゃあなんで返した」


「あはは、ごめんて」


「はぁ……どうぞ」


 手元に帰ってきた時間はわずか数十秒。パーカーは再び芽依さんの手に渡る。

 煙草を口で保持しながら袖を通す芽依さん。一応俺のなのに、やけに我が物顔だ。


「そんな渋い目で見ないでよ。ちゃんと洗って返すって」


「いや、洗わないでくださいよ」


「え? なんで? まさか私が着たままの状態で保存して楽しむつもりじゃ——」


「人聞きの悪い。そんなことしたってどうせヤニの臭いしかしないでしょ」 


「そりゃそーだ。あははっ」


「ただ単にひとんちの洗剤の匂いが苦手なだけですよ」


「なにそれ? へんなの」


「嫌じゃないですか? 自分の服から知らん匂いするの」


「わかんないなぁ。……ってごめん、もう1回洗っちゃった」


「あー……」


「ごめんよ」


 普段は何をしてもケラケラ笑ってるのに、こういうときの芽依さんは本当に申し訳なさそうな顔をする。

 しょんぼりした芽依さんを見るともうちょっと虐めたくもなるが、流石にかわいそうだ。


「別にいいっすよ、芽依さんなら」


「なにそれ。親愛の表れ?」


「それもまぁ……そうですけど」


「ふーん。そうなんだ」


 しょんぼりしながらもむず痒くなるようなワードを放り込んでくる人だな。


「そもそもちょっと嫌だってだけですから。過ぎた話なら気にしませんって」


「なーんだ、心配して損した。ここに来て変な地雷踏んだのかと思ったよ」


「洗剤に地雷ある男ダサすぎるでしょ」


「あははっ。そーだね」


 芽依さんは安心したのかいつものようにケラケラと笑いながら煙を吹かす。


「あ。一応確認しとく?」


「なにを?」


「洗剤臭。ほら、おいで?」


 なにを思ったのか、芽依さんは煙草を灰皿に置き、両手を広げてこっちを向いた。匂いを嗅ぎにこいってことなんだろう。


「ばっちこい」


「抱きしめればいいんですか?」


「したいならしてもいいけど?」


「……」


 茶化したつもりが反撃を受けてしまった。ほんとに抱きしめたら怒られそうなので、俺は芽依さんとの距離感に気遣いながら、顔を寄せて肩の辺りを嗅いでみた。


「どう?」


 耳のすぐ側で芽依さんの声が聞こえてちょっとむず痒い。……いやいや、今は嗅覚に集中しよう。


「……ヤニ臭い」


「もっと嗅覚研ぎ澄ませなよー」


「うーん……」


 スンスンと何度か嗅いでみると、ようやく洗剤っぽい匂いがした。これは——


「理解しました」


「おっ。どーだった? あり? なし?」


 とりあえず、話しやすいように芽依さんから離れて座り直す。


「ありっていうか、多分同じ洗剤使ってますね」


「まじ? 私んちはあの会社の部屋干し用のやつだけど」


「うちもそうです。部屋に干す機会多いんで」


「仲間だーね。部屋干し同盟だ」


 部屋干し同盟が何なのかは分からないけど、同じ洗剤を使っているなら他人の家っぽい匂いはしないし、一安心だ。


 笑いながらスパーッと吹かす芽依さん。どういう意味合いの笑いなんだ。


「でも、ヘンな話だよね」


「何がですか?」


「煙草吸ってるのにひとんちの洗剤の匂い嫌だっていうの」


「……変ですかね?」


「喫煙者の身に付けてるものなんて須くヤニ臭い訳じゃん」


「まぁ、そうっすね」


「それを気にせず生きてるならふつー臭いには寛大にならんかね」


 言われてみて、考える。確かに洗剤の臭いがとかいう以前に俺の服はヤニ臭い。それなのに何故気になるのか——


「……あ。そもそも俺、他人の煙草の臭い嫌いだわ」


「なるほど?」


「室内の喫煙所とか『煙草臭えなぁもう……』ってげんなりしません?」


「あー。たしかにそうかも。あんま換気されてない喫茶店とかね」


「前歩いてるヤツが歩き煙草とかし始めるとめっちゃ殺意わくじゃないですか」


「いろんな意味でね。臭いし煙いし悪いし肩身狭くなるし」


「でしょう」


「でもさ、歩き煙草はともかくとして……他のは言うほど嫌ではないよ?」


「え?」


 芽依さんの言葉にすっとんきょうな声が出てしまう。他人の煙草の臭いめっちゃ嫌いなのは喫煙者あるあるだと思ってた。


「だって私も吸うし。周りの人からしたらお互い様じゃん?」


「まあ……そりゃそうですけど」


「だから許すよ。私も許されたいから許す」


「芽依さんは大人ですね……」


「ふっふっふっ。こー見えても3個上だかんね」


 咥え煙草しつつドヤ顔で胸を張る芽依さんの姿は、大人っぽいんだか子供っぽいんだかあべこべな存在として仕上がっている。


「しっかし……これではっきりしたよ、ヨシくん」


 ズバリ。と短くなった煙草を挟んだ手でこちらを指さしてきた。さながら、犯人を追い詰めた名探偵のように。


「君は神経質で心のせまーーーい男の子ってわけだっ!」


「……不本意ながらそうなりますね」


 言葉にされるとすごくダサいな俺。いい格好したいわけじゃないけど、それを芽依さんに指摘されるのも凹む。


「これからは寛容になるべきっすかねぇ……」


「えー。別にそのままでいいんじゃない?」


「なんで」


「嫌なもんは嫌、好きなもんは好き。人生なんてそれでいいのさ」


「……そういうもんっすかね」


「そーいうもんなの。それに——」


 おしゃべりに夢中になってる間にすっかり燃え尽きていた煙草を灰皿に放り込み、芽依さんは勢い良く立ち上がった。


「私は私がヨシくんに嫌われてなきゃそれでいいからね」


「っ……」


「別に私の吸う煙草も私の服なら匂いも嫌じゃないんでしょ?」


「は、はぁ……嫌じゃないですね」


 他人の煙草の臭いは嫌いな俺だけど、いつも隣で煙を吹かす芽依さんに対してそう思ったことは一度たりともない。


「でしょ。だったらそれでよし。狭い心の中に入れてるのはお得じゃん」


「なるほど?」


 お得なのか……? いや、たしかにお得なのかもしれないな? いや、そもそもお得だとかなんだとかって話なのか?

 まぁ、なんでもいいか。こうして芽依さんが楽しそうに笑っているならそれで。


「っと、そろそろ労働に戻らないと。じゃあね、ヨシくん」


 そう言って芽依さんは早足で階段を登っていき……


「あ。忘れてたけど、パーカーはまた借りてって洗って返すね」


 8階の扉の前で立ち止まって宣言した。


「なんせ私は……洗剤の趣味が合う女だからね」


 キメ顔でそう宣言して扉の向こうへ消えていく姿を見送る。さっきまで賑やかだった踊り場に、静寂が訪れた。

 煙草はとうの昔に燃え尽きていたから、俺は新しい一本を取り出して咥える。


「……ふぅ」


 漂う紫煙を眺めながら想うのは、芽依さんとのやり取り。嫌じゃないでしょ、と聞かれたとき俺は……


「むしろ——」


 ……むしろ。芽依さんの纏う匂いは、たとえヤニ臭かろうがなんだろうが好ましくさえ思う……という言葉は、しばらく胸にしまっておくことにした。

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