第5話 一知半解
半間と蘭が店舗や医者のいるメインの建物から出ると、相変わらず宿泊施設の方には警察官が数多くいた。
前を歩く蘭はそちらに向かって歩き始める。足取りは軽やかだった。
「寿さんの言う通り、天童が孫のために復讐しているんですかね?」
「どうかしらね?」
「今の時点で、ランランさん、何か考えはないのですか?」
「今も、そしてこれからも、本人に直接聞いた方が良いと思っているわ」
半間は蘭の答えに納得はしなかった。この話題では何も生まれないと考えて、話題を変えることにする。
「寿さんと笹倉さんはどこですかね?」
半間は遅れないようについて行きながら、蘭の背中に問いかける。
「あそこよ」
蘭は歩きながら指差す。半間はそちらに視線を向けると宿泊施設の前に笹倉と寿が並んで立っていた。
その前には、スーツに身を包んだ男性が立っている。眼鏡を掛けており、髪の毛は横にしっかりと撫でつけている。
「ホテルマンですかね?」
「どうかしらね」蘭は興味なさそうに言った。
二人の刑事に近づくと、その前に立っている男がホテルマンではないことに半間は気が付いた。宿泊施設のホテルから出てきた本物のホテルマンが、鮮やかなライトグリーンのジャケットを着ていたからだった。
そのホテルマンは警察官を案内して、どこかに行ってしまった。
「寿さん」
蘭は邪魔にならないように声を落として言った。
寿と笹倉は振り返り、寿だけが片手で挨拶をした。笹倉はすぐに前を向く。
「では、先程別の捜査員に聞かれた内容と重複すると思いますが、もう一度お願いできますか?」
笹倉が男を見て言った。
まだ事情聴取は始まっていなかったようだった。半間は目の前に立つこの人物はいったい何者なのだろうかと思っていた。
「はい」
仙石と呼ばれた男は半間と蘭を見て躊躇っていた。
「彼らは、オブザーバです。いないものとしてお話しください。お仕事柄、外部に漏れてはいけない情報があれば、お手数ですが、その都度、お教えください。彼らにも口止めをしますから」
笹倉は柔和な言い方で仙石に言った。
仙石は、再び半間と蘭を見ると、わかりました、と一言呟いた。
「では、お名前の方をフルネームでお願いいたします」
「私は、仙石総一郎と言います。C県県議会議員、山笠邦弘の秘書のようなことをしています」
仙石は抑揚のない声で話した。
「議員秘書・・・」半間は知らずに声が出ていた。
仙石が視線だけ半間の方を向いた。
「山笠議員とはお付き合いは長いのですか?」
笹倉は気の抜けた笑顔で仙石に尋ねた。世間話のような雰囲気を作り出そうとしているのだろうと半間は思った。
「いえ、先生のところにお世話になってからまだ一年になります。正式な秘書とはまた違うのですが、身の回りのことなどをお手伝いさせてもらっています」
仙石は恐縮そうに言った。
仙石は背筋がしっかりと伸びた状態で話をしていた。両足もしっかりと閉じている。半間は仙石の背中に定規でも入っているのだろうかと思った。
「山笠議員の所には住み込みで働いていらっしゃるとか?」
笹倉はまだ世間話を続けるつもりなのだろうかと半間は思う。仙石の緊張を解そうという考えなのかも知れないと半間は推測した。
「はい。先生は我々スタッフのことを家族の様に考えていらっしゃいました。ほぼすべてのスタッフを自分の家に住まわせて、それこそ、寝食を共にしておりました」
仙石は僅かに顔を下に向けた。
「まるで、執事ね」蘭が半間の耳元で言った。半間は蘭を横目で見るが、すぐに元の腕組みで黙って聞いている姿勢に戻る。
仙石も気にしてはいないようだった。
「では・・・山笠議員が亡くなって、その、ショックでしょうね」
「はい。幼い頃に両親を亡くした私にとっては親同然の方でしたから」
仙石は平時であってもこの喋り方なのだろうが、その表情は平時では山笠に怒られるであろう悲しみに包まれた表情をしていた。
「死んだのは山笠議員・・・」半間は小声で口に出していた。
寿が推測したのは、天童が孫娘の復讐として第二常磐自動車道の工事で関わり合いのある人間を殺害しているということだった。
半間は、その推測通りであれば、山笠は何に関わっているのだろうかと考えた。
「山笠議員はこの第二常磐自動車道の建設を推進していましたね?」
寿が仙石に質問をした。寿自身が、天童の復讐目的による連続殺人説を唱えているからか、攻めた質問だと半間は思った。
「ええ。先生はC県のご出身です。C県がもっと良くなるためにはどうすれば良いのか日夜考えておいででした」
半間は、例文のようなセリフだと思った。いずれにしても、オリジナリティーのあるコメントを政治の世界に求めることは筋違いなのだろうと思った。
「特に、先生のご出身が海沿いの町だったこともあり、C県の海をもっと魅力的に見せたいという思いは常にお持ちだったようです」
仙石は淡々と言った。
「そんな中、考え出されたのが、この第二常磐自動車道構想です。C県の外房を回る様に綺麗な太平洋の海、そしてその海と共に生きる人々の生活までも見てもらおうと考えられました」
二の矢を射ようとする寿を笹倉が制する。
「そうでしたか。立派な方だったのですね」
笹倉は仙石の意見を受け入れた。
「私が聞きかじったところだと、随分、この道路建設に意欲的だったとか・・・」
三枝は仙石の顔色を見ながら言った。
「ええ。常に工事の進捗を気にしておられました」
仙石は笹倉の顔を見て答える。
「もともと十年前から道路建設は着工しておりましたが、あと僅かで完成する予定でした。計画として、あと三年はかかる所でしたが、施工業者、下請け業者共に迅速に作業を進めていただいて、一年という短時間で全線開通まで漕ぎつけました」
仙石の話では、元々の道路自体は完成しており、山笠はその状態で開通させたとのことだった。つまり、実質一年間で残りの施設、サービスエリアやパーキングエリアの建設を行ったということになる。
「やはり、山笠議員の人徳によるところが多かったんでしょうな」
笹倉は口元に笑みを浮かべる。仙石は真顔だったが、僅かに頭を下げた。
「ただ・・・」
笹倉は視線を一度下に向けると、上目遣いで仙石を見る。
「なんで山笠議員は道路の完成を急がせたんでしょうね?待っていればやがて完成するのだから、気長に待てば良かったじゃないですか?計画上、十年以上かかるっていうことは分かっていたんでしょう?」
笹倉は仙石にやんわりと言った。寿から聞いていたのだろうと半間は思った。
仙石はすぐには答えなかった。視線だけ足もとを見ていた。
半間は笹倉と仙石の顔を交互に見た。蘭は黙って腕組みをしてみていた。
「勝手に私が思っていることをお話ししても良いですかね?」
笹倉が口を開いた。仙石からは話しにくくしているのを笹倉が察したようだった。
「確か、来年がC県の議員選挙ですね。山笠議員はいろいろ世間を騒がしていたようでしたからね。再選が難しいとお考えだったのでしょうか」
笹倉は両手を揉むようにしながら言った。
仙石は黙っている。
「この道路の計画には、最初から関わっていたそうですなぁ」
笹倉の語気が強くなった。
「先生はもともと旧道路公団の出身でした。その頃からこの道路を担当されていました。その後、自分の故郷の事をお考えになって、議員になることを決意されました。当選後も道路の完成については気にされていました」
「思い入れがあった・・・と言っても良さそうですな」
笹倉は仙石の発言を踏まえて言った。
「スキャンダルはありましたが、それも自分の故郷を思ってのことです」
今度は仙石の語気が強くなる。
「うーん、どうでしょう・・・自分の故郷を言い訳にしているようにしか聞こえませんなぁ」
笹倉の顔が、特に目が一瞬だけ据わったようになった。半間が体の中から血の気が引いたように思えた。あの柔和な刑事の内にある、芯のようなものが見えた気がした。
「いやいや、山坂議員についての話が長くなりましたね。事件の事をお聞きしたかったんです」
仙石が僅かに狼狽したのを無視するように笹倉は続ける。
「今日はどうしてこちらへ?」
笹倉は元通りの雰囲気になった。
「あ、ええ。今朝の事なんですが、先生が第二常磐の方に行きたいとおっしゃられまして」
仙石は気圧された様になって言った。
「今朝ですか。議員さんともなると、毎日スケジュールがしっかり決まっているのではないですか?」
寿が言った。
「はい。それを先延ばしにしても今日行きたいとおっしゃりました。これまでもサービスエリアなどの施設が完成した際には、確認するためにご自身で脚を運ばれておりましたので、今回もそうだと思いました」
「今日の様にその日に行こうとすることもあったのですか?」
仙石はすこし考える素振りをした。
「それは・・・私が先生についてからは初めてです。前任の方でもなかったと思います」
「それは確かですか?」
「引継ぎの際には言われませんでした」
寿は頷く。
「なので、先生を連れてここまで来ました」
「お二人だけでいらっしゃったのですか?」
「はい。そのまま夕方から別の公務があったので、そちらに直接向かう手筈でした」
「神栖に来たのは何故でしょうか?」
「神栖だけではありません。先程も申し上げた様に完成したサービスエリアすべてを回っていました。ですから、今日は朝から鴨川、勝浦、九十九里と尋ねて行って最後が神栖でした」
寿と笹倉は目を合わせる。半間は静かに驚いた。山笠と仙石の二人は半間達が今日訪れたサービスエリアを全て回っていたということになる。
「そうだったんですか。あの・・・今日、ここを含めた四つのサービスエリアで人が亡くなったのはご存知でしたか?」
仙石は身体が僅かに硬直したように半間は見えた。
「いえ・・・そうだったんですか?」
「ええ。ちょっと詳細はまだお話しできませんが」
寿の言葉に、仙石は黙って頷くだけだった。
「神栖に来た時は何時ごろでしたでしょうか?」
寿は質問を続ける。
「そうですね。十時半を回っていたと思います」
笹倉はちょっと失礼と言って、寿の肩を叩き、後ろを振り向く。再び笹倉は仙石の方を向くと、寿はどこかに走っていった。
「寿さん、どこに行くんでしょう?」
半間は蘭に尋ねる。
「防犯カメラでしょう。これまでの現場の防犯カメラの映像を見返すのよ」
半間は黙って頷いた。
「では、神栖に来てからの事を教えてください」笹倉が代わりに手帳を片手に尋ねる。
「はい。まず、神栖は海側にもサービスエリアがあるのですが、先生はこちら側だけで良いとおっしゃったので店舗の入っている建物とこのホテルを見て回ることになりました」
仙石の話の最中、蘭は首を傾げて聞いていた。
「二十分ほど店舗の方を見て回って、医者が常駐しているところも訪問しながら次にホテルの方を見て回ろうということになりました。その時に先生はお腹が空いたと仰って、中のレストランを提案したのですが、簡単なもので良いと仰いました」
仙石は冷静さを取り戻したように淡々と話す、先程、笹倉に詰め寄られて時のほうに狼狽してはなかった。
「なので、建物内のフードコートに行って食べることを提案しましたが、先生は外で天気の良いところで食べようと仰いました。だからテイクアウトできるものをお願いされたのです」
山笠の気持ちも半間には良く判った。今日は芝生の上などで木漏れ日を浴びながら食べるのに適している日だった。
「だから、私は中のフードコートでテイクアウトできる食べ物を購入しました」
「山笠議員も一緒に買われたのですか?」
「いえ、先生は外で一番気持ちの良い場所を探すと仰ったので、一人にするのは心配だとお伝えしましたが、問題ないと仰いました。私も気が抜けていたのだと後悔しておりますが・・・先生をお一人にしてしまいました」
「食べ物の購入にはどれくらい時間がかかりましたか?」
笹倉が淡々と聞き続ける。
「お昼時ということもあり、家族連れの方々いましたから・・・そうですね、二十分ほどだったと思います。結局ハンバーガーを購入しました。時折、公務がお忙しい時に町のハンバーガーショップに行かれることありましたから」
「山笠議員とはどこかで待ち合わせをしていたのですか?」
「気の利いた場所が見つかったら、ホテルの前に戻ってくると仰ったので言われた通り、そこで待っておりました」
仙石の声のトーンが僅かに低くなったのが半間には分かった。
笹倉は黙ったままだった。先程とは違い、本人のタイミングで話をしてもらおうと感gなえているのかもしれないと半間は思った。
「私が先にホテルの前に着きました。十分、いや、二十分待ちましたが、先生は戻ってきませんでした。でも、その時に、自分が立っている場所の脇にある掃除用具が入れてあるカートから声がしているのに気が付いたんです」
仙石は声を震わせながら言った。
「掃除用具入れのカートですか?」笹倉は確認するように言った。
「はい。あの、体育館でバレーボールを入れるようなワゴン状と言いますか、鉄のフレームに車輪がついていて、布が張ってあるようなタイプのものです」
半間は仙石の言葉から掃除用具のカートは想像しやすかった。体育館等で見たことがあるからかもしれないと思った。
「いつからそこにあるのかわかりませんでした。少なくとも私がホテルの前に立った時には無かったと思います。私は急いで近寄って、中に入っていた掃除用具やゴミ袋を取り出しました。そうしましたらカートの底の方に先生の顔が・・・見えたんです」
仙石の証言に笹倉は短く頷いた。しかし、急かすことなく、黙ったままだった。
「私は先生を担ぎ出して声をかけました。まだ息があったからです。でも・・・胸の方にナイフが刺さっていました。左の胸でした。血も滲んでいたと思います」
仙石はそこで言葉を切った。堪えるような表情をしていた。半間は仙石にとってはつらい証言だろうと思った。半間は蘭を見ると、目は仙石を見据えるようだったが、僅かに口元に笑みを浮かべていた。
「お察しいたします」
仙石はそう言うと、すぐに次の質問に移った。
「仙石さんはどうされましたか?」
「すぐに大声を上げて医者を呼んでもらうように呼びかけました。何人かに気が付いていただきまして、医者を呼びに行ってもらいました」
「確かに、駆け付けた警察官が言うには、ここの外科の医者が来ていたらしいですね」
「はい。それから警察にも連絡をしていただいた方もいらっしゃいました。先生は、医者が来るまでまだ息がありました。私は先生の手を握りながら声をかけておりましたが、先生は口元を動かして何か仰りたいように思えましたので、耳を近づけました」
笹倉は黙って頷いた。
半間は初めて、被害者自身の証言を聞けるのかと思った。
「先生は、『犯人は、のぼり』と仰いました」
「のぼり、ですか?それ以外には何か?」
笹倉がさらに尋ねる。
「いえ、それ以外には何も、薄目を開いた状態で私を見ながら言われたので、間違いなく私に伝えたかったのだと思います。それから、目を閉じて・・・身体が重くなりました」
はあ、と笹倉は声を漏らすと頭を掻いた。
「わかりました。ありがとうございます。こんな時に大変申し訳ありませんが、まだしばらくここにいていただきます。申し訳ありません」
笹倉はそう言うと、警察官を呼び、仙石をどこかに連れて行った。
笹倉は蘭と半間の方を振り返るとおどけるようなポーズを見せた。
「だとさ。今日はなんちゅう日なんだろうなぁ」
「今日は諦めた方が良さそうですね。私たちも諦めました」蘭は微笑んで言った。
笹倉は、間違いないな、と言ってゆっくりと歩いて来た。
「あいつの証言はどうだった?」
笹倉は蘭をじっと見て言った。
「どう・・・と言われても」
蘭はにっこりと笑った。
「笹倉さん」
寿が戻ってきた。笹倉は戻ってきた寿に仙石からの事情聴取で判明したことを共有した。
その間、蘭はスマートフォンを操作して何か調べていた、それが終わると、蘭はホテルの入り口脇に視線を向ける。そちらにカートが置いてあることを確認し、そちらに歩いて行く。半間もそれを追った。
山笠が入れられていたカートは直方体のスチール製のフレームに仙石の言う通り、バレーボースやバスケットボールを入れておくような硬めの水色の布地が張られた構造だった。上辺のいっぺんに取っ手が付けられており、カートを押す時にそこを手に持つようだった。
今は鑑識が指紋や残留物が無いか見ているところだった。
蘭は鑑識の仕事の邪魔にならない地点に立ってカートをじっくりと見ていた。
「これに山笠さんは入るんですかね?」
半間は蘭に問いかけた。内容はどんなことでも良かった。蘭が何を考えているか知りたかったのである。
「入るんじゃないかしら」
半間はカートを見る。カートの断面は一辺が一メートル程度の正方形である。布地部分の長さは一メートル三十センチ程度である。そこにゴミと人間が入ることが出来たのかと半間は思ったのであった。
蘭はスマートフォンを半間に見せた。そこには山笠議員の写真が映し出されていた。第二常磐自動車道の開通式に出席した山岸の写真だった。五人ほどのスーツの人間が紅白のテープをハサミで切っているところだった。
「ああ、確かに他の人たちと比べると背が低いですね」
半間は言った。テープカットに参加している山笠の背丈は他の四人の参加者と比べれば低かった。
「多分カートに足を折りたたまれた状態で押し込まれていたんでしょうね」
「なるほど」半間は頷く。
「それにしても、死にかけている自分の上にゴミ袋が置かれているっていう状況は想像しても嫌ね。死んでも嫌だわ」
蘭は苦い顔をした。
「ごめんなさいね」
蘭と半間は同時に声のする方を見る。遠くにある立入禁止のテープの外に立っていた一般客の家族連れの横を清掃係の年配の女性がライトグリーンのカートを押して通り過ぎようとしていた。
横切る際に丁度カートの幅が当たるかもしれないと判断して声をかけた様に半間には見えた。
半間はすぐに向き直ったが、蘭はそちらに向かって走っていた。半間もすぐに後を追う。
建物の中に入ったところで二人は女性に追いついた。
「あの、ごめんなさい、少し良いでしょうか?」
蘭が声をかける。
「あ、はい」年配の女性は顔にある皺は隠せないものの、上品な振る舞いだった。
「ちょっとお聞きしたいことがあるのですが」
蘭は普段見せない笑顔で年配女性に問いかける。
「何でしょうか?」
怪訝な顔で見られているが、蘭は全く気にしていなかった。
「あの、今押してこられたそのカートなのですけれど、布地の色がライトグリーン、緑色ですよね?とってもきれいな色をしているなって思ったんですけれど、他にも色のついたカートはあるんですか?」
蘭は小首を傾げる。
「ああ、これね」
年配の婦人は笑顔になった。
「私も気に入っているのよ。発色が素敵でしょう?」
「ええ。とっても。他に色はあるんですか?」
「ええ。あっちの橋を渡った海側の方のカートは水色で統一なのよ。素敵でしょう?こっちは翠なの。他にも色を増やしてほしいなって思っていたところなのよぉ。ご意見カードがあそこにあるから、あなた、そうやって書いて入れておいてくれないかしら?」
蘭はそうですね、あとで書いておきます、と言ってお礼をして振り返る。
「行きましょう」
半間も女性に頭を下げると蘭の後を追う。
「どういうことですか?そんなに良い色でした?」
「本気でその質問をしたの?」
いつもの蘭の口調に戻っていたので、半間は委縮する。
「あ、いえ、ごめんなさい」
蘭は軽く溜息を吐く。
「つまりね、ホテルの横に置かれていたカートは海側のサービスエリアでしか使われていないカートっていうことよ。こっちの陸地側のエリアのカートはライトグリーンなのよ」
「ああ、じゃあ、こっちにあの水色のカートがあることはおかしいっていうことですね?」
「まあ、橋で繋がっているだけだし、それだけでおかしいっていうことは無いと思うわ。業務上の事情もあるかもしれないからね。でもね、あれに死体が入れられていたっていう事象の上では特別なことよ」
「向こうで殺害された可能性があるっていうことですか」
「そうね・・・まだ可能性だけれどね」
蘭は慎重に言った。
笹倉と寿のもとに戻った二人は、今の事実を伝えた。
「よし、じゃあ、向こうにも捜査員を向かわせよう」
笹倉は早速近くにいた警察官を呼び出した。
「笹倉さん、防犯カメラもチェックした方が良いと思います」
蘭は笹倉に言った。
「そっちは俺から連絡します」寿がスマートフォンを取り出す。
「これで何かわかれば良いですね」
半間は蘭に行った。
「何か、は分かるわよ。いずれにしてもね」
笹倉も寿も忙しくなってしまったので、二人は別の場所に移動することにした。寿にそれだけ伝えると二人は黄色いテープの外に出る。
「守屋さんの所に戻りますか?」
「いいえ、まだ泳がせておきましょう。そうね・・・一線くらい超えちゃえば良いのよ」
「ランランさん、あっさりと凄いこと言っていますよ?」
二人は建物の中に入って行った。
笹倉からの事情聴取を終えた仙石は警官からホテルの一室を待機部屋にしたのでそこで待機していてほしいと伝えられた。
一緒にカードキーを貰った仙石は掛かれた部屋番号を確認するとエレベータの上昇ボタンを押した。
降りてきたエレベータの中に乗り込むと行先の回数ボタンを眺める。景観にも考慮してか、このホテルは最上階が四階までである。その上は屋上を示す『R』の文字が印字されていた。
仙石はすぐに行先を最上階に決めた。ボタンを押すと下向きの加速度が体に加わる。一瞬だけ僅かに背が縮んだような感覚を覚えながら仙石はエレベータで最上階に到着する。扉が開くと、簡素なエレベータホールだった。左手にはガラス戸があり、ホテルの屋上に行くことができる。
仙石は迷うことなく、屋上へと続く扉を開ける。そもそも最上階には屋上意外に行くところが無い。
仙石はコンクリート製の床に足を降ろす。革靴と床との衝突音が小気味よく仙石の鼓膜を揺らす。一階より十メートルほど高いだけなのに日差しが暑いと仙石は感じていた。おもむろにスーツの前ボタンを外す。
左手の柵から外を見れば駐車スペースがあるはずだが、仙石はそちらには行かなかった。右手の内陸側の柵に向かって寄りかかる。
眼下には田畑、遠くには町が見えた。仙石は一階から見れば十メートルほどの高さだが、地上から見ればもっと高い位置に立っていることになる。日差しが強くなることは当たり前だった。
柵に寄りかかる様にしてその風景を眺めた。右手に視線を移すと、第二常磐自動車道のカーブと、町の風景が混じり合って、一つの風景を作り出していた。
その光景を見ながら、仙石は土木構造物と自然は共存できると思った。
仙石はその光景に集中していたからか、ただ気が付かなかっただけなのかわからなかった。その人物は仙石の後方、ちょうど屋上の中心に立っていた。
「悠長だなぁ」
仙石は身体を硬直させる。仙石の後方、頭の真後ろの方角からの声だった。
仙石は黙ったままだった。姿勢も先程と変わらず、柵に寄りかかったような体勢である。
しかし、仙石の意識は常に後方にあった。
「風景を見る暇なんてお前にはない」
抑揚のない、澄み切った声だと仙石は思った。
仙石はすぐに動けるようにシミュレーションを頭の中で行う。意識は後方に向けたまま、相手の出方によって、七パターンの動きを決めた。
「別に余裕でも、暇でもないさ。そんな風に見えるのか?」
仙石は前方を見て言った。山笠のもとでは絶対にしない話し方だった。
「そうだな。怖がっているように見えるぞ」
声の主は男性だった。
一瞬の静寂。
屋上の細かな砂利と男の履物が擦れる音が仙石に聞こえた。
仙石は頭の中ですべてのパターンを再生可能な状態にしておいた。
そのうちの一つを選択して振り返る。
迎撃するパターンだった。
振り向いた仙石の目前にあったのは、草履が履かれた踵だった。
仙石のすべてのパターンを超えていた。
すぐに両手を顔の前まで動かす。シミュレーションを超えた以上は被害を差低減に抑える必要があった。
男の足と仙石の手が衝突する。僅かに仙石の防御が遅れたため、頭頂部に踵が微かに入る。
仙石の視界がブラックアウトする。しかし、視界はすぐに明るくなった。仙石は自分が膝をついていることを確認する。
仙石は横に転がりながら距離を取る。
男の追撃はなかった。
仙石は顔を上げて男の方を見た。
男は頭に黒いタオルを頭巾の様に被り、その上からゴーグルを掛けていた。そして上下を黒の半袖の作務衣に身を包んでいた。そして足元は草履だった。
仙石はその格好をした人物を知っていた。
「お前、塗師明宏だな」
仙石は掛けていた眼鏡を外す。眼鏡のグラスには度が入っていなかった、
塗師は黙って口角を上げた。仙石は肯定の意味に受け取った。
仙石はしゃがんだ状態から塗師に向かって跳びこむ。塗師の手前、一メートルの場所に左脚から着地すると、そのまま着地した左脚で踏み切って飛び上がり、塗師の左側頭部に蹴りを打ち込んだ。
塗師は左手に右手を添えるようにして防御する。
塗師は左腕で仙石の足を抱えるようにすると、右の肘で脛辺りに打込む動作に入った。
しかし、仙石は着地していた左脚で飛び上がって、塗師の腹に蹴りを入れた。
塗師と仙石はお互い吹き飛んで屋上の地面に落ちた。
二人共すぐに立ち上がって構える。
仙石は腰を落として両手を上げるようにして構える。
塗師は腰を低く落として、右手を左の腰の後ろに回すように置いて、左手は掌を広げて前に突き出した。
仙石は塗師の構えが不思議だった。まるで居合抜きの抜刀のような体勢に思えた。
お互い、間合いよりも離れていたために、すり足で近づく。
すぐにお互いの間合いに入った。
最初に手を出したのは仙石だった。
左のストレートを塗師の顔面に打込む。
塗師は右脚を引いて体をほんの僅かに半身にさせると、突き出した左手でその突きを払った。
仙石はすぐに右の突きを繰り出す。しかし、それも塗師の左手で大きく払われた。
次の瞬間、塗師は深く仙石の方に踏み込み、引いていた右手で薙ぐようにして仙石のわき腹に打撃を打ち込んだ。
仙石は身体に鈍い音が響いたことを感じた。耳ではなく、身体を走る衝撃音でそれを感じていた。
それは塗師も同じだった。
「わき腹イッたぞ。苦しいだろう?」
目と鼻の先で塗師が言う。その言葉は蔑むものでもなく、勝ち誇るものでもなく、どんな感情も込められたものではなかった。
仙石は前蹴りを打ち込んだ。塗師には当たらなかったが、塗師との距離を取りたかったことが仙石の目的だった。
離れた塗師は右手を再び同じ位置に置く。
仙石は自分の後方を確認する。エレベータのボタンを押して待つ時間を考えると、奥の階段室から階下へ降りた方が早いと結論付ける。
「組織の人間がここで何をしようとしている?」
塗師は何時でも跳びこめるという体勢で仙石に尋ねた。
「何の事だろうな」
努めて冷静に答える。
「わざわざ、一年前から山笠に取り入って、何をしようとしていた?」
塗師は疑問を投げかけた。
「理想も何もない人間には想像もできないか?」
仙石は脇腹の痛みが響いていたが、いつも通りに会話した。
塗師は走りながら仙石に向かってきた。
仙石は迎え討つ準備をする。
塗師は一撃目から右の薙ぎ払いを打ち込んできた。
仙石はそれを躱す。一度見ていたから簡単だった。
塗師の右手は大きく空振りに終わる。
仙石はがら空きになった塗師の腹に前蹴りを打ち込んだ。
塗師が大きく後方に吹き飛んだ。
次の瞬間、仙石はエレベータホールへと走り出した。
すぐに扉を開ける。
二基あるエレベータを確認するが、どちらも一階に降りていた。
仙石はそれを確認すると、その奥にある扉を開ける。扉を開けると階段があった。扉を閉める瞬間後ろを振り返るとすでに塗師がエレベータホールに入ってくるところだった。仙石は階段を駆け下りる。一段ずつ降りることは無く、時折、飛び降りることもした。
塗師は階段のほとんどを飛び降りながら進んだ。着地の際は狭い踊り場で身体を回転させるか、壁を蹴って衝撃を逃がすなどした。
見る間に二人の距離は短くなる。
仙石の目前には一階のエレベータホールに繋がる扉が見えた。
その踊り場で仙石は塗師に腕を掴まれる。
仙石はその手を振り払う。体勢を崩してエレベータホールの扉まで階段を落下する。塗師も同じように落下した。
仙石は痛めた脇腹を押さえながらエレベータホールへの扉を開け、転がり出るように外へ出た。
笹倉と寿のもとから離れて二十分後、フードコートで二人はソフトクリームを食べていた。
「ソフトクリームってどこにでもあるわよね」
蘭はストロベリーとバニラのミックスを食べながら言った。
「簡単で利益が良いからじゃないですかね?」
半間はバニラのソフトクリームだった。
フードコートの中は、中央に座席が置かれており、その周りを店舗が囲むような構成だった。
蘭はスマートフォンを取り出して片手で操作する。
「寿さんが、今どこ、だってさ。行きましょうか」
蘭はソフトクリームを食べながら席を立った。半間も後に続く。
ソフトクリームは美味しかったが、半間にとっては釈然としない思いがずっと心の中にあった。
それは一日で四件もの人の死に遭遇したということ、そしてその重要参考人として、孫娘を亡くした一人の老人が関わっている可能性がある。
復讐は悪いことだと半間は思っている。しかし、自分がその状況に置かれたとき、果たして復讐という選択をするだろうかと半間は考えた。
半間は目の前を歩く蘭の背中を見る。蘭はどう考えているのだろうかと半間は思った。
半間だけではなく蘭もこの事件に最初から巻き込まれている。半間と基本的には同じものを見ているはずだが、これまでの事件現場でも、自分とは全く違うものを見ていた。
蘭であれば、天童を掬えるのではないかと半間は密かに期待していた。
フードコートを出た二人は、ホテルの正面出口から外に出る。
蘭はその間にソフトクリームを食べきってしまった。アイスのコーンを包んでいた円錐状の包み紙を捨てる場所を探していた。
「ランランさん、自分が捨てますよ」
半間は蘭から包み紙を受け取る。そして自分も急いでソフトクリームを食べきると包み紙を、蘭に見つからないようにコートのポケットに押し込んだ。
フードコートの入った建物から外に出ると、笹倉と寿はホテル近くに停められたパトカーのトランク付近に立っていた。
半間と蘭が近づくと寿が手を挙げる。
「すまんな。度々」
寿が申し訳なさそうに言う。
「いえ。乗りかかった船ですから」
半間は蘭が本気で言っているのかわからなかった。
「まず報告だが」
寿が言うと、それを制するように蘭が口を開く。
「ここに円ですか?」
蘭は自分の腹に円を描いた。半間は蘭の臍がその中心にあるのかと思った。
「そう・・・だけどよくわかったな」
「ここまで続けば山笠さんだけついていないっていうのも変だと思っただけです。描かれていなければ、ああそうですかって思うだけですから」
寿は短く溜息を吐いた。そして、スマートフォンを取り出して画像ファイルを二人に見せる。そこには、臍を中心にこれまでと全く同じような円が描かれていた。僅かに乱れてはいるものの、臍を中心に右側が掠れているのは変わりなかった。
「まず、監視カメラの映像だが、まず天童だ。天童はここには立ち寄っていない」
「立ち寄っていない?」
半間は尋ねる。
「ああ。そうだ。九十九里以降は、Nシステムと料金所の記録に寄れば、第二常磐道路を終点まで行って北関東自動車道に入ってからすぐに降りている」
半間はなぜか安心していた。少なくともここに天童が立ち寄っていなければ山笠を殺害することもできない。
「そもそも、殺害されたと考えられる時刻にここにいることは出来ませんよね?」
蘭は言った。
「そう・・・だな。少なくとも山笠議員の殺害は午前十一時から十二時までの間だ。その間に天童に殺害することは出来ない」
笹倉も蘭に同意する。
「なぜですか?」半間は言った。
「半間君、ちゃんと覚えている?九十九里の監視カメラに十二時半の時点で天童が映っているのよ?」
半間は思い出した。確かに蘭の言う通りだった。
「勝手にこっちが怪しい動きをしている天童を犯人として見ているからそうなるのよ」
半間は蘭に諭された。半間は肩を落として脱力した。
それは笹倉と寿も同じだったようで二人共無言で俯いていた。
「あえて、言えば、天童さんは山笠さんを殺害してはいないっていうことかしらね」
「つまり、他の三件に関してはまだ可能性はあると?」
半間は顔を上げて言った。
「否定できる材料は無いわね。実際にその時刻に殺害場所にいるからね」
蘭は腕組みをしていった。
「山笠さんの方はどうですか?」
蘭は話を変える。天童がいなかったことについては驚く様子もなかった。
「山笠は仙石と別れてからすぐに海側のサービスエリアに向かって行った。時刻は十時五十分だ。それ以降、こちら側に戻ってきていない」
寿は手帳を見ながら言った。
「それから二十分経った後、十一時十分に仙石がハンバーガの紙袋を持ってホテルの横に立った。これも証言通りだ」
寿は真直ぐ蘭を見て言った。
「それでは山笠さんは仙石さんと別れて海側のサービスエリアに行ってからこちら戻ってきてないのですね?」
「そうなる」
「では海側のサービスエリアで殺害されたということになりますよね?」
「やはりそうとしか考えられないよな。そう思って我々も海側のサービスエリアを現在進行形で捜索しているんだが、今現在、そんな痕跡は見つかっていない」
寿は困ったような表情で言った。
「海側の監視カメラはいかがでしたか?」
「橋を渡り切ってからの山笠は監視カメラに一切映っていないんだ」
蘭は何度も頷く。半間はそんなことできるのかと思った。しかし、天童が他の現場で同じようにほとんど映っていないことを思い出した。
「ホテルの監視カメラはどうでした?」
「ここには受付周辺しかなかったんだ。ホテルの規模を考えての事だろうな。ちなみにその監視カメラにも映っていない」
蘭は顔を上に向けるとすぐに笹倉の顔を見た。
「カートの方はどうでしたか?」
「やはり海側の方で使われていたようだ。向こうの清掃部門の管理者に確認を取った。それと一台無くなっていたということも分かった」
「そうですか。監視カメラの方ではどうでしたか?」
蘭は寿に尋ねる。
「まず、海側と行き来できるあの橋を映している監視カメラだが、午前十時にカートが映っている」
「押していた人物は映っていましたか?」
「いや、マスクと帽子を着床して、うつむき加減で歩いて来た。顔は全く映っていない。ああ、あとカートからも殺害に使われたナイフからも指紋は出ていない。カートを押していた人物は手袋をつけていたからな」
笹倉は苦々しい表情になった。
次に寿が口を開く。
「カートのその後は堂々と陸地側のサービスエリアに渡って、ゆっくりとホテルまで近づいた。仙石が立っていた場所とは反対側から近づいていたから仙石は気が付かなかったのだろうと思う。それからカートはホテルの中に入っていって、数分してからまたホテルから出てきた。カートを押していた人物は仙石から少し離れたところでカートを止めてその場を離れた」
「その人物は監視カメラに映っていなかったんですか?」
「その人物はまたホテルに入って行ったんだ」
「では、ホテルの従業員は違う色のカートを持っていたことを不思議に思わなかったんですか?」
「特におかしいと思わなかったそうだ。そもそも覚えてもいなかった。清掃の格好をしていたからか、お客ではないという考えで認識されていなかったんだろうな」
蘭は小刻みに頷く。
「それ以降、同じ格好の人物は出てきていない」
寿の話を聞き終わると、蘭は首を傾けて、腕を組んだ。
寿と笹倉は蘭に判明したことを伝え終わると、顔を見合わせる。
「ここからは我々の見解だが、山笠議員は海側のサービスエリアで殺害されたと考えている。方法は、何らかの方法で海側のサービスエリアまでおびき出された山笠議員は犯人にナイフで刺される」
笹倉は右手で拳を作って自分の胸に当てた。ナイフで刺されたという真似だろうと半間は思った。
「その状態の山笠議員をカートに詰め込んでゴミ袋などのカモフラージュをしてからホテルのところまで運んだっていう流れだと考えている」
「では、その人物についても検討がついているのですか?」
二人の刑事は暫く黙ったが、笹倉が口を開く。
「天童だろう」
「天童さんは、ここのサービスエリアにいなかったのでは?」
「直接手は下していないと思うんだ」
寿は蘭の目を真直ぐ見て言った。
「お金で雇うことも可能だろう。そういった裏の仕事をしている人間だって世の中にいる。それに、山笠には天童の顔が割れているだろうから、その方がやりやすかったんだろう」
寿は早口で言った。
「その殺人者はどこの誰で、どこに逃げたんですか?」
蘭は落ち着いて質問した。
「山笠議員が最後に言った『のぼり』だと思う」
笹倉が代わりに答えた。
「つまり上り線に逃げたと言ったんじゃないかと考えた。ここには店などに置かれているいわゆる幟は見当たらない。つまり高速道路の上下線のことだろう。この場合、東京に近いのは、このまま北関東自動車道に接続する方向、つまり大洗方向に逃げたということだ」
笹倉は落ち着いた様子で言った。
「それは・・・そうですか・・・わかりました」
蘭は鋭い目で笹倉と寿を見て言った。
「何もお手伝いできずに申し訳ないです」
内容は恐縮しているが、口調は一切の感情を排除していると半間は感じた。
「いや、こっちも連れ回してしまって。貴重なフィールドワークの時間に、すまなかったね」
笹倉は心から謝罪してくれたと半間は思った。
蘭は何もしゃべらなくなった。
「寿、もう一度詳しく山笠議員の殺害時の状況について聞いてみよう。ちょっと読んできてくれるか」
笹倉に言われた寿は頷いてホテルに向かって入って行った。
笹倉は蘭と半間に片手を挙げて挨拶すると、海側に向かう橋の方に向かった。
取り残された蘭と半間は立ち尽くしていた。
半間は横目で蘭を見る。蘭は足元を見ながら舌打ちをしていた。
「半間君、二人を迎えに行くわよ。帰りましょう。どこかで夕飯、ご馳走するわ」
「あ、うっす。そうっすね。お腹空きましたよ」
半間は蘭の提案に心から乗った。
二人はホテルの入り口の前を通って医務室のある建物に向かうことにした。
ホテルの前に差し掛かったその時、ホテルの方から悲鳴が聞こえた。
蘭と半間は咄嗟に声のする方を見る。
エレベータホールの横から、頭から血を流した仙石が飛び出してきた。
「仙石さん?」
半間は声を出していた。
仙石は眼鏡をしておらず、頭から血を流していた。
そして、その後ろから、全身黒ずくめの男が仙石を追うように飛び出てきた。
黒ずくめの男は頭から衣服まで黒く、頭に巻いている黒いタオルにはゴーグルが掛けてあった。そして足元は裸足に草履という異様な格好だった。
入り口側に走ろうとする仙石の足を男は足払いで倒すと、馬乗りになろうとしていた。仙石はその男の腹を蹴り、後方に吹き飛ばすと、軽やかに立ち上がって入り口に向かって走ってきた。
悲鳴を上げる一般客を無視して、仙石は外に飛び出ると、真直ぐ駐車場へと向かう。途中、横から来た車のボンネットに仙石の身体が乗り上げる。
半間は思わず、あっ、と声を出してしまった。周りにいた女性客も悲鳴を上げたが、仙石はすぐに立ち上がると駐車場の中を走り出した。
仙石が乗ってきた黒塗りの車に乗り込むと、すぐさまエンジンを掛けて出発した。
歩行者に当たらないか心配するほどの速度だったが、幸いに被害はなかった。
蘭はその車を凝視していた。
そして、黒ずくめの男がホテルから飛び出してくる。蘭の横を通過しようとしたその時、蘭は車のナンバーを読み上げるようにして言った。
丁度、黒ずくめの男が横を通り過ぎようとする瞬間だった。
黒づくめの男は草履とは思えない速さで走ると、自動二輪車が駐車しているスペースへ飛び込むようにして向かった。
その内一台にまたがると、ヘルメット装着して、キーを回す。
ギアを変えると、重低音でエンジンを鳴らすと出口から外へと走らせた。
その二人を見届けた後、蘭も走った。半間は狼狽えながらもその後を追う。
蘭は守屋の車の運転席に入ると、半間もすぐに助手席に乗った。半間がドアを閉めるのを確認する前に、車を発進させた。
半間は落ちそうになりながら助手席のドアを閉める。
「ちょっ、ランランさん、なんすか?」
シートベルトも刺していない状態だった半間はシートベルトを装着してから言った。
蘭はシートベルトすらつけていなかった。
半間の質問に答えることなく、蘭はサイドブレーキを解除し、ギアをドライブに入れたと同時にアクセルを踏み込んだ。
加速度を体に感じながら半間はシートに押さえつけられる。
ここに来るまでに運転した蘭とはまるで別人のように半間は感じた。
サービスエリアの出口に警察の検問は置かれていなかった。仙石と黒づくめの男が簡単にここから出られた理由が半間には分かった。
警察車両が駐車場内には数台停まっていたはずだったが、半間達がサービスエリアを後にするまでに、動き出している車はいなかった。
本線に入ると蘭はさらにアクセルを踏みつける。
半間の前方にはすでに二人の車とバイクは見えない。
「ランランさん、何しているんですか?」
正面に集中している蘭には何も聞こえないようだった。
「あれ、仙石さん、それを追っているバイクの男は誰なんですか?」
半間は叫ぶようにして蘭に尋ねる。
「半間君、ちゃんと前見て。仙石さんの車か、バイクを見つけたら教えてね」
蘭はそれだけしか言わなかった。今の蘭は必要な情報以外は喋らない、という状態なのだろうと半間は理解した。半間が聞きたかったことは後回しにして、蘭が必要だと考えていることに集中することにした。
幸いなことに、車の流れは順調でかつ、数もほとんどいなかった。そんな中を蘭はハンドルを切りながら進んで行く。
暫く走ると、半間の視界にバイクが見えた。
「ランランさん、バイクです」
半間は車内で指を指す。
「捕らえたわ。ありがとう」
蘭はさらにスピードを上げていく。半間はオービスが無いことを祈った。
半間の見つけたバイクの前に仙石が乗っていた黒塗りの車も見えた。
「仙石さんの車です」
半間は蘭に声をかけた。見つけている可能性もあったが、気にしなかった。
「了解」
蘭はそれだけ言った。
「ああ、あのバイク・・・」
半間は思ったまま口に出した。
「どうしたの?」
蘭は半間に声をかけた。
「いえ・・・欲しかった奴です。ハーレーダビッドソンのナイトロッドスペシャルっていうタイプです」
蘭は何も言わなかった。
蘭の運転する車はバイクにゆっくりと近づく。
しかし、一定の距離を保ったまま、それ以上近づくことは無かった。
半間は黙っていたが、蘭が何をしたいのかわからなかった。
半間は前方を走っている車と黒ずくめの男のバイクを交互に見ていた。
バイクに乗っている方の男は黒い作務衣だと分かった。草履でギアやブレーキを操作するのは難しいのではないかと考えたが、巧みに操作している。
他の車が多くなってきたため、仙石の運転する車は速度を落として車線変更するために減速し、その後に加速する、ということを繰り返す。
対して黒作務衣はバイクの扱いに慣れているのか、半間の目には減速することなく車の間を抜けていく。
周囲の車が見えなくなる頃には仙石の車とバイクはほとんど並列に並んでいた。
蘭の車も、バイクには離されたものの、一定の距離は保っている。
ほとんど車が見えなくなったことを確認したかのように、黒作務衣が仕掛け始めた。
バイクを操りながら、仙石の車に蹴りを入れる。
半間は果たして意味があるのかわからなかった。
「あんなの意味あるのかよ」半間は思わず口に出ていた。
「挑発でしょう」
蘭はバックミラーやサイドミラーを確認しながら言った。
黒作務衣の挑発が成功したのか、仙石の車がバイクの方に幅寄せを始めた。
バイクは上手く躱しながら、今度はバイクの前輪の方に右手を伸ばした。
何か棒状のものを掴むと、右手を振りかぶって下に振り下ろす。同時に手に持っていたものが伸びた。
「ランランさん、特殊警棒ですよ」
半間は蘭を見ながら言った。
「特殊警棒なんて珍しくないでしょう。そこらへんにあるわよ」
「無いっすよ!あのバイク、仙石さんを攻撃しようとしていますよ」
半間は焦っていた。
黒作務衣は特殊警棒を下に向けたまま、再び仙石の車に近づくと、後方の窓に特殊警棒を振りかざす。
何度か打撃を加えて左後方の窓が破壊された。
「すげー」半間は映画でしか見たことのない光景だった。
黒作務衣は一旦離れる。
しかし、仙石の車は離れずにバイクを幅寄せするかのようについて行く。
黒作務衣は減速していたが、仙石の車が幅寄せしてきたことを確認すると、すぐに加速して横をすり抜けるように前に出た。
その際に、左前方、助手席の窓に特殊警棒を振りかざしながらすり抜けた。
「なんだ・・・あの作務衣・・・」
半間は呟いた。
黒作務衣の運転するハーレーは仙石の車の前方に躍り出た。
すかさず、仙石はアクセルを踏んで、バイクの後方から煽る形になった。
黒作務衣と仙石の立場が逆転した。
蘭は、後方を確認しながら、左車線に入って加速する。仙石の車の左斜め後ろで、速度を保つようにした。
仙石の車の助手席の窓は左後方の窓のように全壊してはいなかったが、もう機能はしないだろうと半間は思った。
バイクと仙石の車の位置が良く判るところまで来たため、今の状況が半間には良く判った。
バイクの後輪に仙石が車のバンパーを当てようとしている状況だった。
半間は、あれは嫌だなと呑気に思った。
黒作務衣の男は何度も後方を確認していた。仙石に当てられないように速度を調整しているのだろうと半間は思った。
仙石はアクセルを踏み込んだままバイクの後輪に当てようとしている。バイクは、何度か後輪に当てられてはいるが、すぐに距離を取るということを繰り返していた。
そして、何度目かの仙石の後輪へのアタックと同時に、黒作務衣は仕掛けた。バイクの座席に両足で立つと、振り向きざまに仙石の車のボンネットに飛び乗った。
主を失ったハーレーは蘭の車の前を倒れながら横切り、道路の側壁にぶつかった。半間はそれを助手席側のバックミラー越しに確認した。
半間は内心、勿体ないと思っていた。
半間は仙石の車に顔を向けると、黒作務衣がボンネットにしがみついたまま車を走らせていた。黒作務衣と仙石は向かい合っていることになる。半間はその時に気が付いたが、黒作務衣は太陽光カットのゴーグルをして口元を黒いタオルのようなもので隠していた。まるで銀行強盗だと思った。
仙石は車を左右に振りながら黒作務衣を振り落とそうとしていた。
黒作務衣は耐えながら、仙石の車の天井に上がった。そして、仙石と同じ方向に身体を変えると、天井にしがみついたまま、手に持った特殊警棒でフロントガラスを叩き始めた。
黒作務衣がフロントガラスを叩く速さは、走行中の車の天井にしがみついている人間が叩いている速さではなかった。仙石の車のフロントガラスは瞬く間にひびが入り、割れていった。黒作務衣は割れてからもなおも叩き突けていた。
仙石はハンドルを切って、蘭達の車の方に移動した。蘭は減速して、それを躱す。
仙石の車は速度を落とさずに左の側壁に車をぶつけた状態のまま走行した。側溝に僅かな段差があるために車の左側が持ち上がった状態になった。
黒作務衣は特殊警棒を落とす。金属音がして瞬く間に半間の視界から消えて行く。
蘭はアクセルを踏み込んで仙石の車に近づいた。
仙石の車が、再びハンドルを切って、今度は右手の中央分離帯に車をぶつけようと移動する。
仙石の車が蘭の車の丁度前方を通り過ぎようとした瞬間、黒作務衣が蘭の車に飛び乗った。
鈍い音がして蘭の運転する車のボンネットに黒作務衣が貼りつく。
「ちょっ、ランランさん、あいつ来ましたよ」
半間が驚いているが、蘭は無表情だった。黒作務衣と蘭は顔を見合わせる。
半間には蘭が微かに頷いた気がした。
蘭は車を加速させると、追い越し車線を走っている仙石の車の前に出る。蘭はバックミラーを見ながら距離を測っていた。
仙石の車は加速して、蘭の車に衝突する。その衝撃で黒作務衣が体勢を崩し、ボンネットの前方へとずれ落ちる。
半間は声にならない叫びを上げる。黒作務衣はかろうじて体勢をキープしている状態である。
仙石は第二撃を当てようとしていた。半間はなぜ仙石がこのようなことをするのか理解できなかった。
蘭は僅かに焦っているようだった。
「半間君、シートベルト、着けているわよね?」蘭は口元に笑みを浮かべている。
半間は頷くしかなかった。
蘭は片手でシートベルトを装着すると、アクセルを思い切り踏み込む。仙石の車から大きく離れていく。仙石の車もそれを追うように加速する。
半間は身体に掛かる加速度で、シートに押されていた。
仙石の車から、ある程度距離を取った状態で、蘭はブレーキを踏んだ。ほぼ同時にサイドブレーキを引き上げる。そしてハンドルを九十度に切った。
蘭の車は後輪がロックされた状態で、回転し始めた。
前方に仙石の車が見えた段階で、蘭はサイドブレーキを下げ、同時にギアをバックに入れてアクセルを踏んだ。仙石の車と向かい合いながら走っている状態になった。
ボンネットにいた黒作務衣は少し体勢を戻すと、守屋の車のボンネットを思い切り踏み込んで仙石の車のボンネットに飛び乗る。
さらに黒作務衣はそのままの勢いで、フロントガラスの上部に手をかけ、身体を折りたたんで両足でフロントガラス越しに仙石の顔にドロップキックを放った。
蘭は再び同じ方法で、車を正規の方向に直す。
半間の心臓はもう動かなくなるのではないかと思うほど鼓動していた。
蘭はすぐに車を加速させて仙石の車から離れた。
仙石が気絶したためか、車が左右に動いていたが、しばらくして安定した。
黒作務衣が腕をフロントガラスから入れてハンドル操作していた。
黒作務衣は左車線に車を誘導していた。
蘭はバックミラーで確認すると、速度を落として、仙石の車に横付けする。そしてぴたりと車に接触させると側壁に仙石の車を押し付けた。
仙石が気絶しているため、ブレーキペダルが踏めないからである。
黒作務衣は守屋の車の天井に移動した。
蘭はそれを確認するとさらにハンドルを左に切って仙石の車を停止させた。
半間の方の扉のサイドミラーがいつの間にか取れていた。
蘭と半間は脱力していた。あまりにも上手くいったからだった。命が無くなっていてもおかしくはなかったと半間は思う。天井からボンボンという音がして、運転席側から黒い作務衣が降りてきた。
黙って後方に向かうと後部の扉を開けて、何か探している。
蘭は気にしていない様子だったが、半間は後ろを振り返って見ていた。
黒作務衣は発炎筒と三角停止表示板を取り出すと、手際よくそれを設置し始めた。
「ランランさん・・・あれ」
蘭は目を閉じて黙っていた。
再び振り向いた半間の目にはもう黒作務衣の姿は無かった。
発炎筒の鮮やかな色と煙は、半間を現実の世界に戻すような光景だった。
一時間後、回収された蘭と半間は、神栖サービスエリアにいた。
その場で動かずに待っていると、警察がやってきたさらに道幅を制限されて、『事故』の後処理が始まった。この間、仙石は起きてこなかった。
救急車がすぐに到着すると仙石がすぐに搬送されて行った。
蘭と半間も神栖から連れてこられた医師に診察を受けた。半間の左右の掌から血が滴っていたためにこれの治療を受けた。あまりに強く握りしめていたためだろうと半間は思った。それに気が付いた今でも半間は痛みを感じなかった。
守屋の車は動いたが、サイドミラーが破壊していたため、レッカー車で牽引され、戻ることになった。蘭と半間は警察車両に乗せられ、その後ろを無残な姿になった守屋の車がレッカーされている形である。
一度、第二常磐を降りて、再び富浦方面へと乗り直して、海側の神栖サービスエリアへと入って行った。
警察官に引率されて、橋を渡り、陸地側の敷地に戻ると笹倉と寿が待っていた。
二人は笹倉から厳しく叱られることになった。
半間だけ落ち込んでいたが、蘭は俯いて、反省しているように外からは見えた。
しかし、半間は蘭が平然とした顔をしているのを知っていた。
笹倉があまりにも機嫌を悪くしてその場を離れたのを見送ると二人が叱られている間に黙っていた寿が口を開いた。
「笹倉さんね、とても心配していたんだよ。僕らは君たちの保護者じゃないんだけど、友達くらいには思っているんだ。あまり心配させないでくれよ」
「本当に、申し訳ありませんでした」蘭はゆっくりと頭を下げる。
半間も、自分が涙目になっているのだろうとは思ったが、気にせずに頭を下げた。
しかし、素直に命があっただけでも儲けものだろうと半間は思う。
あの状況で生きて帰ってこられたことは奇跡なのではないかと半間は考えた。
そして、蘭にも聞きたいことが山ほどあった。
あの黒作務衣は何者なのか、なぜ仙石を狙っていたのか、そして、蘭はどこまでわかっているのか。
しかし、今は帰って寝たいと思った。身に覚えのない擦り傷があったり、関節が痛かったり、散々な一日だったのだ。
その前に、守屋に車の現状を報告しなければならないことが何よりも憂鬱だった。
同日、十八時二十分、常磐自動車道。
空は漆黒の闇なのだろうが、地上には光にあふれていた。都会は星が見えないと言われているが、それは地上が明るすぎるためである。相対的な問題に過ぎない。地上が明るくても暗くても、同じように星は天空にちりばめられている。
蘭達は寿の運転する車でC県警から帰っていた。
蘭達は神栖サービスエリアからC県警まで詳しい話をするために向かった。
静養していた守屋と看病していた美野島は蘭の想像していたような展開にはならず、二人共、非常に健全な、正当な病人と介護者だっただけだった。
蘭はここでも舌打ちをしていたが、半間は蘭が何をしたいのかわからなかった。
守屋と美野島は病室で蘭から、簡単に何が起こったかを説明された。
守屋は蘭からカーチェイスで車が少し傷ついたと謝罪された。守屋自身は非常に残念がり、今度は俺も載せてやってくれとまで言い放つほど、度量の広さを垣間見せたが、実際に車を見た守屋は仰け反って倒れてしまった。
今は再び痛めた背中を労わるために横にならなければならず、健全な介護者の膝枕の上に頭を乗せている。結果として蘭の思惑通りに進んでいるのではないか、まさかあのカーチェイスもそうだっだのではと邪推してしまうほど、半間は疲れていた。
守屋の車はそのままレッカーに連れていかれ、保険で修理をすると落ち着いた守屋から半間は聞かされた。
C県警では蘭と半間が聴取を受けた。二人同時に、会議室のような部屋で笹倉と寿から質問と説明を求められた。
基本的に蘭が説明した。半間も質問に答えてはいたが、二人の刑事は蘭からの説明に注目していた。
半間にはその説明に補足はあるかどうか聞かれることがメインだった。
蘭の説明は詳細だった。黒作務衣の事も話していた。寿は黒作務衣の事は特に入念に聞いていた。
蘭の説明が終わった段階で、半間は蘭が意図して説明を省略している点に気が付いた。
それは、黒作務衣がホテルから出てきて蘭の横を駆け抜ける時、蘭は仙石の車のナンバーを伝えていた。その説明が省かれていた。半間は今にして思えば、蘭は黒作務衣が横切る瞬間、ホテル側を見ていたことに気が付く。
これは監視カメラを意識していたのではないかと考えた。口の動きを悟られないように、黒作務衣に情報を伝えたことがばれないように。
そして、守屋の車で追いかけた理由についてである。
実際は予定されていたかの如く車まで走って行ったと半間は感じていた。
しかし、蘭は黒作務衣に仙石さんが襲われそうになったので勝手に身体が動いたと説明をしていた。
さらに、最後のスタントめいた蘭の行動も説明していなかった。
笹倉と寿の方からも捜査で判明したことの情報提供があった。仙石の車にはドライブレコーダが取り付けられていたということだった。バックミラーとフロントガラスの間に取り付けるタイプのもので、山笠が仙石に取り付けさせたということが判明した。
フロントガラスの大破によって破壊されたものの、カメラ自体は車内に落ちており、さらに映像データは無事だったということだった。
映像の最期は車の天井から黒作務衣が特殊警棒でフロントガラスを破壊している映像で終わっている、という説明だった。
音声が録音されるタイプではなかったので、意識が戻ったら仙石に詳しく話を聞かせてもらう、と笹倉は言った。
半間は考える。
あの黒作務衣は顔を完全に隠した状態で仙石を追跡していた。そして、ボンネットに飛び乗ってからフロントガラスを一心不乱に割ろうとしていた。あの攻撃が、車内の仙石に向けての攻撃ならば、運転席側の窓を割った方がその後、ダメージを与えやすいのではないかと半間は思った。
つまり、フロントガラスを割る行為は、仙石への攻撃ではなく、ドライブレコーダを破壊するためではないのだろうかと考えた。蘭の運転する車が何かあっても記録に残らないようにするために。
半間は顔を上げてこのことを伝えようと思ったが、少し考えて止めることにした。
蘭がやることには理由がある。それは刑事にも伝えられないことである。
蘭自身の口から話してもらうまで待っていようと半間は思った。
C県警から大学まで蘭ら四人は寿に送ってもらうことになった。
車内は寿と半間が喋り、時折美野島も入ってきて喋っていた。
守屋は、あー、とか、うー、とか唸っていたが、元気だと半間は思った。
蘭は何も喋らなかった。
大学が見えてくると、寿は守屋の家まで送ると提案して、守屋もその提案にのることにした。
守屋と美野島がそこで降りて、家の中に入るまで付き添った。美野島は家が歩ける距離だったらしく、その場で分かれた。
車内には寿と蘭と半間が残った。
寿は大学の前まで移動して車を停める。
「よし、着いたぞぉ」寿は疲労が溜まっているからか、喋り方が変わっていた。
「ありがとうございました」
半間は明るく言った。
半間が降りようとすると蘭が声を上げた。
「寿さん」
「ん?」寿が助手席の蘭の方を向いた。
「お願いがあるんですけれど。良いですか?」
「内容に寄るかなぁ」
「四つの事件の防犯カメラの映像を貸してください」
「え?なんで?」
「ちょっともう一度見たいんです。駄目ですか?」
「駄目」
「今日、結構手伝いましたよね?」
蘭は間髪入れずに言った。
寿は頭を掻きながら、あー、と言った。そして、後部座席の鞄からノートPCを取り出すと蘭に渡す。
「君にPCを貸していたことにするから。それで良いか?あと、返却は明日だ」
「ありがとうございます。あと・・・」
「まだあるの?」
「いや、聞きたいことがあるんです」
「どうぞー」寿はハンドルに両手を組んで乗せてその上に顎を乗せた。
「栗田さんって登山が趣味とかありましたか?」
「ん?」寿は一瞬怪訝そうな顔をしたが、手帳を取り抱いて捲る。
「ロッククライミングを部活でやったみたいだな。大学で」
「ありがとうございます」
「それは何か関係あるのか?」
「あと」
「え?無視?」
「三枝さんの検死結果って見せてもらっても良いですか?」
「変わりないよ。首にロープの跡がくっきり残っている。あと、僅かに両足首に青あざがあったって言っていたな。靴下で隠れていたみたいだけれど。それ以外は・・・特に無しっ」
「寿さんも今日は早くお帰りになった方が良いですね。しっかり寝てください。お疲れですよ」
蘭は最後に寿に笑顔を見せて言った。
蘭は鞄にノートPCを入れると、車を降りる。半間も降りて、二人で寿にお礼を言うと、疲れた目をした寿は片手を挙げて挨拶した。
大学の周りは電灯も多くなく、街中を走るよりは星空が良く見えた。半間の吐く息は白く、でもすぐに大気に拡散していった。
半間はいつ切り出すべきか迷っていた。
しかし、タイミングとしてはこれ以上は無い。
「ランランさん」
蘭は振り向く。腰まである長い髪が首の回転に合わせて動いた。
半間はその動作がとてもきれいに思えた。
「今日巻き込まれた事件は、天童さんが犯人なのですか?」
半間の声だけが響き渡っているようだった。
蘭は何も言わずに微笑んだ。
「捜査は警察の仕事よ。それに笹倉さんたちは天童さんを重要参考人に認定したわ。それで御終いでしょう?」
「俺はそんなこと聞きたいんじゃありません。ランランさんはどう考えているのかっていうことが聞きたいんです」
半間自身、ここまで通る声が発声できるのかと驚いた。何も知らない人間がこの状況を見たら、告白しているとみられるかもしれないと半間は思った。
蘭はコートに手を入れて、暫く空を見ていた。そして視線を半間に合わせると真顔になる。
「きっと半間君自身が納得したいのかしらね?」
半間は頷く。
「じゃあ良いわ。ただし、真実かどうかは保証しないわよ」
再び頷いた。
「今回の四件の事件はね、自殺よ」
夜風が半間の頬をすり抜けていく。自分の後方へ抜けて言った風は渦を巻くのだろうか、と半間は考える。それくらいに混沌としていた。
「自・・・殺?四件とも?」
「ええ」
「いや、ありえないですよ」
「なぜ?」
「鴨川と勝浦はまだ納得できますけれど、九十九里と神栖はどう考えても違うでしょう?」
「どうしてそう思うのかしら?」
半間は息が詰まったように感じた。
「え?あ・・・えっと、九十九里は首を切られていましたよね?自殺で首を切断するってどれだけアグレッシブなんですか?無理でしょう?それに神栖だってそうです。カートの中で山笠さんはナイフで刺されていたんですよ?いや・・・でもナイフで刺すくらいなら勢いで何とかできるか・・・違う。カート、そう、カートは誰が押して行ったんですか?ナイフが刺さったままカートを押して行ったんですか?」
半間は一気に捲し立てた。半間自身も息を切らしているのがわかった。
二人の間に沈黙が訪れる。
「じゃあ、少なくとも今半間君が言ったことが解決されれば良いのね?」
蘭の言葉は半間が今まで聞いたことが無いほど冷たかった。
半間は黙っている。
「九十九里の栗田さんが殺害された場所を思い出して」
蘭は微笑みながら言った。
「栗田さんの腕時計の風貌が櫓の下で見つかったでしょう?」
半間は頷く。
「あの時、半間君も言及したけれど、栗田さんは櫓の下で襲われた可能性があるわ」
半間は自分が言ったことだった。
「それは言い換えれば、櫓の下であれば、自殺はできるっていうことよね?」
半間は蘭の言葉を反芻する。櫓の上で首を切断されて死んでいた栗田は櫓の下で腕時計の風防が見つかったことから、櫓の下で襲われて、櫓の上で首を切断されたという可能性がある。
蘭は、櫓の下であれば自殺だってできると言っていた。
「それは、櫓の上でも同じでしょう?下だろうが上だろうが、自殺は出来ますよ。でも首の切断は櫓の上で行われたっていう事実がありますよ」
「ああ、ごめんね、分かり辛かったわね。私が言いたかったのは、栗田さんは櫓の下で自殺して、その栗田さんの遺体を櫓に上げてから別の人間が首を切ったっていうことよ」
半間は息を飲んだ。
「つまり、栗田さんは自殺してから誰かに首を切られた?」
「ええ。そうよ。首を切って自殺するっていう話よりはまだ現実的でしょう?」
「いや・・・まあ・・・それだったら、出来ますが。なぜ・・・誰が首を切ったんですか?」
蘭は何も言わなかった。
「・・・天童さんですか?」
蘭は何も言わなかった。
「天童さんが首を切り取って持ち帰ったんですね?孫娘の復讐のために」
半間の言葉に蘭は何も言わなかった。
「だから栗田さんの死亡推定時刻と防犯カメラの天童さんの映っていた時刻が会わなかったのか」
半間は短く頷く。
「じゃあ、山笠さんは?」
蘭は目を細くし地面を見ていた。
「山笠さんはカートに自分で入って行って、金で雇っていた人間に変装させてカートを押させたのね」
「ナイフの指紋は?」
「心臓を刺していなかったのがポイントね。すぐに死ななかった。つまり刺してから時間があったのよ。カートの中で山笠さんは手に薄手の、手術で使うような手袋を嵌めていたのね。その手でナイフを胸に突き刺した。山笠さんがカートの中で死んでいた時に上にゴミ袋が置かれていたでしょう?そのうちの一つにゴム手袋を押し込んだのよ。あのゴミ袋は山笠さんを隠す他にそういう意味があったのね」
半間は想像する。乱雑に入れられたゴミ袋の中の一つを自分の方に結び目を向けておけば、その隙間からでもゴミを中に入れることが出来るだろうと思った。
半間は実家で母親がすでに縛ったゴミ袋の中にゴミを無理やり押し込んだ記憶があった。
「雇った人間には、ルートまで指示して、終わったら、トイレで清掃員の服装を脱ぐか捨てるか指示してこっそりと帰る様にと言っておけば良いわ」
半間は頷いた。
「でも、なぜ四人も同じ日に自殺なんてしたんですか?」
蘭は、それは本当に警察の仕事だろうけれど、と言って話始める。
「勝手に想像するならば、天童さんでしょうね」
蘭は寒そうにコートのポケットに手を入れる。肩に掛けているトートバックはベージュのパイル地のものだった。
「孫娘の・・・優衣さんだっけ?優衣さんが過労死したっていう証拠を手にすることが出来たのかもしれないわね。その証拠で山笠さんをはじめ、鏑木さん、三枝さん、栗田さんの四人が主犯格だっていうことがわかって脅したんじゃないかしら?」
「脅しただけで自殺をしますか?」
「自分の家族が人質になっていたらどうでしょうね?」
「え?誘拐までしているんですか?」
「そういうことじゃないわ。いつでも危害を加えられる状況にあるぞっていうことを伝えられればそれで成立するわよ」
半間は、天童という男の復讐にかける信念を感じた。
半間が同じ立場であれば、天童と同じことをしただろうかと再び自問自答する。
答えは出なかった。
それでも、半間は納得する答えが得られたことに満足だった。
蘭の方を見ると、スマートフォンを取り出して電話をしていた。
「ええ。そうです。海側の。はい。運転者不在のレンタカーがあると思うので、連絡して撤去してもらった方が良いと・・・はい、思います。はい。では失礼します」
蘭は電話を切る。
そしてさらに電話をかけ始め、同じような内容を伝えた。
「どこにかけていたんですか?」
「え?ああ、勝浦と九十九里よ」
小首を傾げた半間に、帰ろっか、と蘭は笑顔で言った。
その笑顔は安堵の表情に包まれていた。
翌日、午前七時、C県山中。
笹倉と寿は、国道に車を停車させて、歩き出した。国道から入ったところにある、路肩で、国道には十分車が通るスペースがある。
二人は革靴で大丈夫だろうかと懸念していたが、山道と言っても、二人が想像していたほどではなかった。
落ち葉が溜まっているために滑りやすくなっていることに気を付けていれば、十分革靴でも歩くことができた。
坂道の途中、左手に脇道が現れた。
二人はその脇道に入る。国道に続いている道は無舗装で砂利道だが人が歩いている、使っていると判る状態だが、脇道は草も生い茂り、よく見なければ道だとはわからなかった。
それでも二人は歩みを止めずに歩いて行く。
しばらく歩くと、突然、目の前が開ける。その一角に、ログハウスのような家が建っている。
その家が二人の目的である天童の家である。
それが分かったのは、家の前の広くはないが整地された空間に、天童本人が立っており、薪を割っていたからだった。
二人はさらに歩を進める。
天童と三メートルほど離れたところで笹倉が歩みを止めた。
天童はちょうど割る前の薪を台座に置いたところだった。天童はふと顔を上げると、ゆっくりと値踏みするように笹倉と寿を見る。
「時間通りだな」
天童は右手の腕時計を確認すると、台座の上の薪を横蹴りで落とした。そして手に持っていた斧を台座に投げる。
乾いた音をして斧が台座に刺さって止まった。
「天童辰夫さんですね?」笹倉は言った。
「それがどうした?」天童が喋ると空気が震えるように寿は感じた。
「第二常磐道路で発生した事件について、話を聞かせてもらいたいのですが、お願いできますか?」
「はぁ、刑事っていうのは、本当にそんなこと言うんだなぁ」
そう言うと、煙草を取り出して火を点けた。
「周りが森ですから、火事に気を付けて下さい」
寿が言うと、天童はわざとらしく煙を吐き出してログハウスの方に歩くとアルミのバケツのミニチュアを持ってきて斧の横に置く。そのバケツには蓋があり、いくつもの穴が開いていた。寿はそれが灰皿だとわかった。
「可愛らしいだろう?孫娘が買ってくれたんだ」
そう言うとバケツに灰を落とす。
「で?何を聞きたいんだ?冬用の薪をさっさと割らなきゃいけないんだがなぁ」
天童はログハウスの扉の下にある階段に腰を掛ける。
「第二常磐自動車道の事件はご存知ですよね?」寿は言う。
「ああ、知っとるよ。ニュースでもやっていたからな」
「事件が起こった四つの休憩所の内、三つの休憩所の防犯カメラにあなたが映っていました」
天童は煙を吐く。
「はぁ。そんなこともあるんですなぁ」
天童は笑顔を浮かべた。
「どれもあなたが現場近くをうろついている映像が残っています」笹倉が穏やかな声で言った。
はぁ、と天童は煙を吐く。
双方が数秒間何も話さなかった。
「それで?」
天童がさらに低い声で言った。
「私たちはあなたがこの事件に深いレベルで関わっていると考えています」
寿は冷静に言った。
「単刀直入に言ったらどうだ?俺が殺したって言いたいんだろう?」
天童も冷静に言った。
「どういった理由で俺が殺したと思うんだ?」
天童は心から疑問に思っていると寿は感じた。
「あと、四つの場所って言ってたが、ニュースで聞いただけの話だと、神栖のサービスエリアでも死んだ奴がいるみたいじゃないか。でも俺は神栖には行ってないぞ?」
「他の三つは言ったことを認めるんですか?」
笹倉は間髪入れずに言った。
「俺はその言い方は好きじゃねぇなぁ」
「失礼しました。改めてお聞きしても良いですか?」
「ああ。行ったよ。俺が行っちゃ駄目なのか?」
そんなことはありません、と笹倉は断った。
「ちなみに、昨日はどこに行かれる予定だったんですか?」笹倉は天童に尋ねた。
天童は黙って先ほどまで割っていた薪を指差す。
「これを買いに行っていたんだよ。I県の方までな。懇意にしているところがあってよ。それに優衣が、孫娘が命を削って作った道路が完成したんだ。通ってやらないとあの世で怒られちまう」
天童は口角を上げて笑った。
「では、これを見ていただきたいんです。防犯カメラの映像です」
寿は蘭から回収済みのノートPCで防犯カメラの映像を再生させる。
最初の映像は鴨川サービスエリアの映像だった。
「被害者が入る五分ほど前にあなたはトイレに入っていますね。そして被害者の鏑木さんが入って二分後あなたは出てきています」
天童は目を細くして映像を見ていた。
「この間に、被害者を殺したものと考えています」
笹倉と寿は鏑木が毒殺したということは隠していた。
天童は煙草をもみ消しながら、トイレに行っただけだよ、と言った。
「それだけで人を殺したって言われるのか?俺は人を殺したことが無いから良く判らないが、七分、死んだ奴が入って二分で殺せるのか?教えてくれよ」
笹倉も寿も何も答えなかった。
勝浦や九十九里の映像を見ても天童はのらりくらりとした対応だった。
「どれも、俺が映っているのは間違いないけどなぁ。勝浦では景色を取ろうと思って動いていただけだし、九十九里では昼寝でもできっかなと思って森に入って行っただけだからな。それを証明しろっていうのは難しいな。誰もいなかったしな」
天童は再び煙草に火を点けた。
「そもそもさ、あんたらなんで俺が怪しいって考えたんだ?流石に警察だってこんな証拠だけで決めたわけじゃないだろう?」
笹倉も寿も黙っていた。それを見ていた天童は、ああぁ、と声を上げる。
「あれか、死んだ人間たちが孫娘の死に関係している人物だからか?」
笹倉も寿もいつもであれば顔色にださないようなことだったが、なぜか天童の発言には顔に出してしまっていた。
「杜撰だねぇ。そんなことで。あの頃と何も変わってないな」
天童は目を細くした。悲しみの感情が宿っていた。
「じゃあ、神栖はどうなんだ?俺はそもそもそこに行ってないぞ?」
天童の口調は、笹倉と寿を試すように聞こえた。
笹倉は、人を雇って殺害を行ったという説を天童に伝えた。
笹倉が話し終わると、天童は暫く黙っていたが、無言で立ち上がった。
ゆっくりと二人の方に歩いて行く。
「じゃあ、その証拠を出せよ」
笹倉の目を睨み付けるように言った。
「その証拠はこの家にあるかもしれません」
「なら気の済むまで探せよ。ほれ」
天童は鍵を笹倉の手に握らせる。寿と笹倉は顔を見合わせる。
「では」
笹倉と寿は天童の横をすり抜けるようにログハウスへと入って行った。
天童はその後ろ姿を悲しげな目で見つめた。
視線を地面に落とした後、斧を手に取り、台座に新しい薪を乗せた。
同日、午後十五時、可士和市。
蘭は時間通りに呼び出された喫茶店に到着した。
ドアが開くと共に、カウベルが鳴り、店内に来客を告げる。
この喫茶店はいつ来ても客がいなかった。どのように利益を上げているのか蘭には不思議だった。
蘭が待ち合わせた人間は、そんな店だから選んだのかもしれないと蘭は考える。
蘭が入店しても、カウンターにいるマスターは、いらっしゃいませ、の一言もなかった。
蘭の方に、視線を移すと、軽く会釈をする。そして、マスターから見て二時の方向に顔を向ける。
つられて蘭も顔をそちらに向けると、古見澤が座っていた。
テーブル席を区切っているパーティションから顔を出さずに手だけ上げている。溺れた人間が助けを求めているようだと蘭は思った。
マスターに軽く会釈をして古見澤の席の正面に座る。
「時間通りだね」
古見澤はノートPCを使って作業をしていた。
「レポート?」
「いや、違うよ」
それ以上、ノートPCについて古見澤は何も言わなかった。蘭も何も聞かなかった。
「マスター、ホット二つ」
マスターの顔も見ずに古見澤はVサインを作った手を挙げた。マスターは、かしこまりました、も言わずにサイフォンを準備し始めた。
蘭は着ていたコートを脱いで自分の横に畳んで置いた。
そして、昨日あった出来事を簡単に報告した。
「お疲れ様でした」
ノートPCを閉じた古見澤が蘭を労うのと、ホットが二つ運ばれてくるのは同時だった。
「本当に、これっきりにしてほしいわ。もう生きてきた中で一番疲れたかもしれない」
蘭は目を閉じて頬に手を当てた。
古見澤は微笑んでコーヒーを一口飲んだ。
「うん。もうこれっきり、とは言えないかもしれない」
古見澤は申し訳ないという顔もせずに言った。
「でも、あの子に話し過ぎたと思うんだよね」
古見澤はカップをソーサーに置く。
蘭は一瞬、目を見開いたがすぐに元の顔に戻る。
「でも、しょうがないじゃない?私も知らないし、本当のこと言ったら、約束を破るし」
「あの時にはもうわかっていたでしょう?」
「話しながらね。まとまった感じ。だから、あの子に話した内容は少し当たっているかな。相関係数は六割くらい?」
「えっと、半間君だっけ?大丈夫かな?」
「大丈夫じゃないかな」
蘭はカップに注がれた黒い液体を見ながら言った。
「自分が納得するだけのために聞いていたから。自分が聞きたいものだけ聞くし、見たいものだけ見るのよ。人間って」
「穴だらけの説でも?」
「そうね。正常な判断を失っているわけじゃないのに、人間って不思議ね。あっという間に原点がずれるし、それに気が付かない」
「そんなものかもしれないね」
古見澤はまたコーヒーを一口飲んだ。蘭はソファに大きく背中を預ける。
「ねぇ雄也、なんで詳細を話してくれなかったの?」
蘭は古見澤の目を見て言った。
「もう少し話してくれたら、上手く立ち回れたかもしれないのに」
「それはね。さっきランランが言った通りだよ。バイアスは少ない方が良い」
古見澤はもう湯気が立たなくなったコーヒーをソーサーに置いた。
「私が気付いてしまったらどうしていたの?」
「ランランはそれを素直に話すやつじゃないだろう?」
「呆れたわ」
「よく言われるよ」
ああ、と古見澤が思い出したように言った。
「寿さんが、天童さんの所に行ったらしいよ」
「本当に言ったのね」
「署に連れていって聞き出したのに、全く何も出なかったって言っていたよ」
「当たり前よ」
蘭は笑う。
「ランランの言う通りかもしれないね。見たいものしか見ない」
古見澤も微笑んだ。
「それで?天童さんは?」
「もちろん、無罪放免、というか悪いことしてないんだけどね。今は家にいるんじゃないかな」
蘭は頷く。
「じゃあ、全部終りね?」
古見澤は時計を見る。
「そう・・・だね。今日中には終わるかな」
蘭は溜息を吐く。
「ランランはさ」
古見澤もソファにゆったりと座る。
「わかった?」
「何が?三人を殺したのが栗田さんだっていうこと?」
古見澤は目を見開いて両手を挙げた。
マスターがやってきて、古見澤の顔を見た。古見澤は、すみません、なんでもないです、と言った。
「さすが・・・どこでわかったの?」
「さっきも言ったけど、本当に分かったのは半間君に話した時、ちょっと気になることがあったのはC県警から寿さんの車で帰る時かな」
「寿さん、ランランから変な事聞かれたって言っていたな」
古見澤は座り直す。
「じゃあ、聞いてみようかな。まず、鴨川は?」
「その前にね、すべての監視カメラの映像を貰ったから見直したのよ。夜通しね」
「大変だったね」
「そうでもなかったわ。袈裟丸を呼び出して、ほら、卒論で作った監視カメラの映像から特定の人物を探し出すっていうプログラムあったでしょう?」
袈裟丸耕平は二人と同じ、R大学の土木工学科大学院の修士一年生でリモートセンシングや画像解析の研究をしている。
「それ使ったのか・・・」
「うん、苛立ちながら家に来てくれて、画像解析したのよ。そしたら、すべての防犯カメラの事件前後に同じ人物が映っていわ」
「山笠議員と仙石さんもすべてのサービスエリアに立ち寄っていたんじゃなかったっけ?」
「その二人は顔を知っているから。私が顔を知らない人間が一人いたのよ。服装との比較から栗田さんだろうって思ったわ」
「なるほどね」
蘭は古見澤を真直ぐ見た。
「鴨川の時は、栗田さんは鏑木さんよりも前にトイレに入って行ったわ。それから鏑木さんが入って行って、天童さん、そして黒作務衣」
黒作務衣のところで蘭は含み笑いをした。
「確か鏑木さんは毒を飲んだのだったよね?」
「ええ。そうね」
「どうやって飲ませたの?」
「鏑木さんはトイレに入る前に手に持った何かに目を落としていたのよ」
「スマホみたいな?」
「それよりも小さいわ。私は手紙だと思う」
「この時代に手紙か」古見澤は僅かに微笑む。
「デジタルは証拠が残りやすいからかしらね?良く判らないけれど。いずれにしても鏑木さんはその手紙に書いてある指示通りに動いたのよ」
「どんな?」
「トイレのある個室に入って隠してある薬を飲め、かしらね」
「そんな指示に従うかな?」
「それまでに入念に脅してきたんじゃないかしらね。良く判らないけれど。とりあえず鏑木さんはその指示に従って薬を飲んだの。もちろん、毒ね」
「栗田さんは?」
「あのトイレは私も女子側に入ったけれど、もし、構造が同じであれば、入り口からコの字になっているわね。男子側だから、外側に小便器、内側に個室があって、個室は背中合わせで二列あったはず。栗田さんは鏑木さんが入る予定だった個室の向かい側でスタンバイしておく。鏑木さんが指示通りにして、事切れたタイミングで背中合わせになっている方の壁をよじ登って鏑木さん側の個室に入って行ったのよ」
「確かに個室の天井は開いているし、サービスエリアなんかの大き目なトイレだと天井も高いからそんなこともできるけれど、並んでいる人や小便器を使っている人にばれるんじゃない?」
「こんなに人生で小便器っていうとは思わなかったな」蘭は呟く。
「そんな人生もあるよ」
「まあ良いわ。小便器って壁に設置されているでしょう?その場合個室とは背中を合わせになるから、そっちは問題ないわ。並んでいる人がいた場合でも、天井を見上げる人はなかなかいないだろうし、隣の個室に移動するなら見つかりやすいけれど、奥の個室に移動するなら見つかりにくいんじゃないかな?そもそも、映像を見る限り男子トイレは並んでいる人も少なかった見たいだしね」
古見澤は頷く。
「個室に潜入した栗田さんは手紙を回収して、お腹に円を描いてまた元の個室に戻ったのね」
蘭は微笑む。
「天童さんは?」
「これは、すべてのカメラ映像に言えるけれど、天童さん、疑われやすいように動いているわ。そもそもあの優衣さんの件もあるから、栗田さんから注意を逸らせようと動いていたように思うわね」
古見澤は、微笑みながら冷たくなったコーヒーを飲み干してマスターにお替りを要求した、
マスターは足音を出さずに近寄ると、お代わりを古見澤のカップに注ぐ。
「勝浦の三枝さんの方は?」
「鴨川を出た栗田さんは勝浦に着くと、自販機の裏側に潜んでいたのよ。もちろん防犯カメラから避けるように移動してね」
「自販機が並んでいる左側の端から映っていないんだったよね?」
蘭は頷く。
「そこで、ロープをポールに結んでおいて準備しておいたの。そして、栗田さんは自販機が置かれているスペースの屋根にロープを持って上ったのよ」
「防犯カメラには映らないからね」
蘭は頷く。
「そこで待ち伏せしておいて、自販機の裏に三枝さんが来たら、輪にしておいたロープを上から三枝さんの首に引っ掛ける。硬貨を探すために下を向いていたでしょうから引っ掛けやすかったでしょうね」
「硬貨を落としていなかったらどうしていたんだ?」
「鏑木さんと同じように呼び出していたはずだから、三枝さんの方から理由を付けて動いていたんじゃないかしら?」
古見澤は香りを嗅ぐようにしてコーヒーを飲んだ。
「つまり、三枝さんは上から吊り上げられたっていうことか」
「後ろから首を絞めたわけではないから、一瞬で気を失ったでしょうね。栗田さんは一度屋根に上げると、すぐにお腹に円を描いて、次に足に長いロープを結んだ」
「ロープ?」
「そう。栗田さんはね、そのロープを伝って高速道路の下に降りたの」
「どういうこと?」
「栗田さんは三枝さんの遺体に細工を施した後、自販機と塀との間に降ろしてから、三枝さんを塀の外に投げ込む。それから三枝さんの身体を伝って、足元のロープを急降下して高速道路下の国道まで降りていったのよ」
「ロープの回収はどうするの?」
「登山用のロープの結び方で簡単に外れる結び方があるでしょう?その結び方で結んでいたのよ。降りてから、ロープを操作して、三枝さんの足からロープを外したけれど、痣は残った、っていう感じかしらね?」
「栗田さんの車は?」
「国道近くにレンタカーを駐車しておけば良いわ。勝浦に来るための車も、レンタカーだろうけれど、そっちは放置ね」
「迷惑だなぁ」
「昨日の夜に匿名で電話しておいたわ」
「ホスピタリティが抜群だね」
「アフターサービスって言って欲しいわ」
蘭は頬杖を突く。
「普通にポールとかに結んで降りれば良かったんじゃない?」
「三枝さんの首に巻いていたロープと混在するのが嫌だったんじゃないかしら?」
古見澤は、ふーん、と言ってコーヒーを飲む、すでに冷めきっているようだった。
「じゃあ、次は九十九里だね。自分を殺さなきゃいけない」
「いえ、違うわ」蘭は言った。
古見澤はわざとらしく驚く。
「ええ!どういうことだいランラン?」
蘭は冷めた目をしていたが、短く溜息を吐く。
「栗田さんは九十九里を通り越して、神栖に向かったの」
「なるほど。そう言う行動をとったっていう証拠は?」
「防犯カメラの映像を見ればわかるわ。山笠さんの死亡推定時刻は午前十一時から十二時までの間、栗田さんは十二時から十三時までの間よ。そもそも最初に山笠さんが死んでいるの」
古見澤は微笑む。
「山笠さんの殺害について、栗田さんが最初にやったのは海側のサービスエリアに山笠さんを呼び出したこと。その際に、表に出せない話だから、とでも言って防犯カメラに映らないように海側に呼び出して、そこで殺害する。栗田さんは少し山笠さんと話をしたでしょうね。それからナイフを胸に突き立てた」
蘭は自分の胸にナイフを突き刺す仕草をする。
「清掃員の格好に着替えた栗田さんはカートに山笠さんを入れて陸地側に運ぶ。後は・・・まあ、防犯カメラに映し出されている通りね」
「仙石さんに言い残したメッセージがあったでしょう?」
「ああ、あの『犯人は、のぼり』ってやつね」
「あの意味は?」
「そのままの意味よ」
古見澤は首を傾げる。
「犯人は高速道路を上り方面に逃げたっていうこと」
「ほう。上りっていうと、東京に近い方向だから神栖より先の大洗方面っていうこと?」
「いえ、違うわ」
「そうなの?東京を中心にして、上りとか下りとか決めているんじゃないの?」
「そうやって決めているところもあるけれどね。そうならない場合もあるわ。外房線のようにね」
古見澤は頭の中で想像している。
「高速道路には必ず起点と終点があるの。外房線のような場合、起点に向かう方向を上り、終点に向かう方向を下りと決められているのよ。つまり外房線の場合、富浦を起点、大洗を終点としているから、上りと言ったら、富浦側に向かう方向よ」
「なるほど」
「だから、山笠さんは犯人が上り方面に逃げたって言いたかったのだと思う」
「山笠さんは良く知っていたよなぁ」
「もともとあの人は旧道路公団の出身でしょう?そういった感覚が身についていたんじゃないかしら?」
「確かにそうだね」
「栗田さんが山笠さんに漏らしたのかも知れないわね。あなたを殺して自分も死ぬ、みたいに」
古見澤は短く頷く。
「栗田さんとしては、海側に駐車していたレンタカーで九十九里に戻って、さらに内陸側に橋を渡って戻ると、アスレチック場の奥に向かう」
蘭はテーブルに手を組んで肘をつく。
「櫓の所まで来たら、櫓から伸びているロープの端に重り、砲丸みたいなものかしらね、それを取り付けて、砲丸を手に持って、櫓と反対側に投げるの。そうすると、ロープに繋がった重りで、振り子運動になって戻ってくる。その到着地点に頭を置いたのね」
「壮絶な死に方だな。僕は勘弁だ」
蘭は古見澤に向かって微笑む。
「その時に風防が落ちたのね。ここで初めて天童さんが役割を持つことになる」
「ほう」
「首の切断と重りの回収、それとお腹の円を描くことね」
「栗田さんが描いたものではないの?」
蘭は古見澤をじっと見る。
「少なくとも、栗田さん自身に描いてあった円は栗田さんが描いたものではないわ」
「自分で描くこともできるじゃない?」
「いえ、これは天童さんが描いた円よ。鏑木さん、三枝さん、山笠さんのお腹に描かれた円は、どれも臍を中心に見た時に右側が掠れるように傷つけられているのに、栗田さんだけは左側、つまり右わき腹の方が掠れているの。これは、左利きの人間が描いているわ。栗田さんは時計を左手にしていたから右利き、天童さんは防犯カメラの映像を見る限りは右手に腕時計をしていたわ。だから左利き」
古見澤は笑みを浮かべている。
「まあ、映像を見ても、時間的にも、お腹に円を描ける人間は天童さんしかいないでしょうね」
古見澤は手を組んで机の上に置いた。
「それにしても、首を切断することの意味が分からない」
蘭は目を細くして、頬杖を突いた。
「そんなことする必要があったかしら」
古見澤は、そんな蘭を黙って見ていた。
古見澤は軽く息を吐くと、眼鏡の位置を直す。
「さすがだね。でも、ちょっと惜しい」
「あら?何か間違っていたところあった?」
「いや、首の切断以外に関しては何も問題ないよ」古見澤はコーヒーを飲み干す。
「ところでさ、話変えてごめんね。雄也はいったいどこまで関わっているの?」
「僕は依頼を受けて君に話を付けただけ。それと計画は聞いている感じかな。でも栗田さんと直接話をしているわけではない」
「つまり、間にいるっていうことね」
古見澤は頷く。
「わかった。それ以上は聞かない。それで、首の切断は何が間違っているの?」
他にお客がいれば小声で話している内容だろうな、と蘭は思った。
「天童さんは、九十九里で起こったことに多分驚いただろうと思う」
「そうなんだ」
「うん。天童さんは、櫓まで歩いて、重りを回収してもらって、櫓の上で栗田さんに円を描いて戻ってきてもらっただけ。その時には櫓の上に首なしの死体が転がっていた」
「つまり、首の切断は別の人がやったっていうことなのね?」
「そういうことだよ」
「そうかぁ。少し安心したな」古見澤は不思議そうな顔をした。
「天童さんは一切危害を加えていないんだね」
蘭は笑顔で言った。
古見澤は少し悲しい目をした。
「栗田さんの腹に円を刻んだくらいだね」蘭は微笑んで頷く。
「でも、なんで栗田さんはこんなことしたんだろう。動機がわからない。どちらかと言えば優衣さんが死んだ原因を作った方と言っても良いでしょう?それにお腹の円も良く判らない」
蘭は古見澤のカップを見ながら言った。
「それは・・・贖罪だよ」
「贖罪・・・でも、あんな形の贖罪ってあるかしら?」
「そうかな?死んで詫びなければならないくらいの事をしたっていうことじゃないか?」
蘭は想像もできなかった。
天童の気持ちを改めて想像すると蘭は胸が痛んだ。
天童優衣がなぜ死んだのか、それは今になっても正確に判明していない。もみ消されたからだった。関係者が四人死んだが、他に関与している人間がいるのかさえ、わかっていない。
「人間って集団にいると周りが見えなくなるものだよ。ましてや置かれている状況が過酷過ぎると尚更そうだろうね。お腹の円については分かった?」
「全く。贖罪が終わりましたよっていう印かとも考えたけれど・・・」
古見澤が蘭のコーヒーカップに目を移す。
「ランラン、コーヒー全く飲んでないじゃないか。遠慮しているの?奢りだよ?」
「あれ?言ってなかったっけ?私、紅茶党よ?」
マスターがゆっくりとこちらを見るのが蘭の視界に映った。
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