第2話 一陽来復

半間優はR大学正門を潜ったのは、朝の九時を回っていた。

半間の所属する計画学研究室は、何時までに部屋に居るように、といったルールは無い。他の研究室ではコアタイムが設定されているところもあり、例えば朝八時半から夕方十七時までは研究室に来ているようにというようなルールがある。もちろん、その間に出歩くのは自由であるから、大学に来ているようにということである。

そういったルールが設定されていない研究室は、学生が研究室を決める段階において、非常に人気がある。誰だって縛られたくはないということである。

しかし、学生を縛るようなルールがないということ、学生にとって楽だという認識しかないが、自分で生活や課題を管理できなければ年が明ける頃には最悪な事態になっている。

半間は正門から道なりに進むと見える二号館の一階を通り抜けた。二号館の裏手は中庭になっており、その中庭を取り囲むようにして研究棟が並んでいるレイアウトになっている。

半間は二号館を抜けてすぐに左に折れる。右手に中庭が位置する形になっている。

一昨日から曇りがちだったが、今日は雲一つない晴れだった。それでもモッズコートを着た半間は首を竦めて僅かに早歩きで進んだ。半間のブーツがアスファルトを叩く音だけが響いている。

暫く歩くと、下り坂になる。そこも小走りに降りると、通りを右手に折れる。この道を真直ぐに進めば左手に目的の五号館がある

半間がいる場所からでも五号館は目に入るが、今の半間にはそれよりも自分の先を歩く人影に関心があった。

「お?」

半間は小走りで人影に近づく。前方二十メートルほど先を歩いていたその背中に声をかける。

「おっはー。早いねぇ」

半間は回り込むようにして言った。その人物の顔をしたから覗き込むような形になる。

「半間君・・・おはよう。随分時代遅れな挨拶ね」

美野島杏奈は、立ち止まって半間を一瞥すると歩みを再開する。

「ちょっと杏奈ちゃん、朝から厳しすぎない?」

半間は先に進んでいる美野島の背中に言った。

「そうかな?半間君は朝から楽しそうね」

美野島は横に並んだ半間に言った。

「そう。ちょっと朝から面白いことに遭遇してね」

「自分で話のハードルを上げるタイプなのね」

「今日さ、朝食を可士和駅のコーヒーショップで食べたんだけれどね」

半間は美野島の発言を無視して続ける。

「そうなんだ。一人暮らしを始めて自炊頑張るって言ってなかった?」

「たまにはね。今日は花金だからさ」

「いちいち発言が古いよね」

美野島は笑った。

「ほら。俺、おじいちゃん子だからさ」

半間は笑ったが美野島はその発言の意味が分からなかった。

「それでさ、自分の席の隣の人がスマホ見ながらサンドウィッチ食べていたんだけどね。途中から順番わからなくなったのか、サンドウィッチ見ながらスマホを口に運んでいたんだよ。ウケるよね」

半間は会話の途中から笑い始めていたので美野島は聞きづらく感じていた。

「それは素敵な瞬間に遭遇したわね」

美野島の精一杯のコメントだった。

二人は五号館に到着する。五号館の入り口の左右の柱には一枚板でそれぞれ『五号館』と『土木工学科』と達筆な字で書かれていた。これはOBからの贈り物だと半間たちは聞かされていた。

「でしょー。俺、笑いを堪えるのが必死だったんだぜ」

半間はそう言うと、一瞬右方に視線を移す。そちらには建物の端にある喫煙所が見えた。そこに置かれているソファに二人の人物が向かい合って座っているのが見えた。

半間はその内の一人は見覚えがあった。地球環境工学科の修士一年生の袈裟丸耕平だった。半間にとってはサークルの先輩である。袈裟丸は喫煙者である。今も片手から煙が出ているのが見えたので今も煙草を吸っているのだろうと半間は思った。袈裟丸の向かいにいる人物の顔は見覚えがあったが名前は思い出せなかった。

「どうしたの?早く行こうよ。ランランさん待ってるよ?」

入り口で立ち止まった半間に美野島は声をかけた。半間は黙って頷くと美野島の後に続く。

半間と美野島は五号館に入ると廊下を右に折れる。その途中にあるエレベータに乗り込むと三階に向かった。

二人が所属する計画学研究室は、夏に学内で発生した一躍有名になった。大学付属のセミナーハウスで、泊まり込みの測量学実習をしていた際に、二人の大学院生が殺害されたのである。犯人は暫くして逮捕されたがその人物も同じ研究室の大学院生だったことから世間で注目を浴びたのである。

事件に巻き込まれたのは大学院生以上だったため、半間や美野島ら四年生は直接巻き込まれなかった。しかし、警察からの事情聴取などがあったため、程度の差はあるが研究室全体で巻き込まれたということになる。

教授らは責任を取るという話を大学側に伝えたのだが、その事件についての処分ということはなかった。しかし、教授と助教の二人が別件で減俸になったと半間らは聞いたが、誰もその理由を教えてはくれなかった。

半間らも誰も聞こうとはしなかったというのが正しい。

エレベータを降りた二人は廊下を進んで研究室に入る。室内には四年生が四人ほどいた。大学院生は全員揃っているようだった。

二人は朝の挨拶をしながら自分の席に向かう。それぞれが鞄を自席に置くと同時に二人を呼ぶ声が聞こえた。

「半間、美野島、ちょっとゼミ室に来てくれる?」

半間と美野島が声のする方を見ると、四年生と大学院生の机群を分けているパーティションの上から、修士一年の守屋太陽が顔を出していた。両手をパーティションに掛けるようにしていた。

「あ、はい。説教っすか?」

半間の発言を守屋は無視した。美野島は短く、はい、とだけ返した。

部屋を出る守屋の後に続くように美野島が出ると、半間もそれに続く。

美野島の後に続きながら、今日は蘭に呼ばれていたことを半間は思い出した。守屋からの招集はそういうことなのだろうと半間は推察した。

無言の守屋の後に続いて半間と美野島は廊下の突き当りの階段を降りる。そのまま一階まで降りると、守屋はすぐ右手の部屋の扉を開ける。

ゼミ室の中には一人だけしかいなかった。

「おはよう」

黒板の前にスクリーンが置かれており、その脇にはノートPCが開いて置かれている。その前に座っていた蘭蘭が半間と美野島に短い挨拶をした。

「おはようございます」美野島は笑顔で返事をする。

「おはようございます」半間も遅れて挨拶をする。

黒板の前のスクリーンは天井に設置されているもので、床に向かって引き出されたものである。このゼミ室の備品である。また、部屋の天井中央にはプロジェクタも設置されており、その低い稼働音が部屋に微かに響いていた。

「適当に座ってくれる?」蘭はPCの画面を見ながら言った。

先に部屋に入った守屋は窓際の前方から三列目の長机を選択して、収納されているパイプ椅子を引いて着席した。

基本的に計画学研究室では、四年生が先輩の後ろに座るということは御法度である。これは暗黙の了解のような取り決めである。

その取り決めがすっかりしみ込んでいた二人は部屋の中央、守屋よりも前の席に並んで着席した。

「朝早いのに、ごめんね」

蘭はPCから顔を上げると二人に言った。

「いえ。とんでもないです」

半間が率先して言った。

蘭は半間を一瞥すると、守屋の方を見る。守屋は首を横に振った。

守屋と蘭は同じ修士一年生である。

「じゃあ、最初から説明するわね。スクリーンのスライドを見てくれる?」

蘭は視線をスクリーンに向けた。一瞬、守屋を見たのは、今からする話を二人にどれだけしたのかという確認だったのだろうと半間は思った。

「端的に言ってしまえば、調査のお手伝いね」

蘭はスクリーンのスライドを見て言った。

二人が見ているスライドには高速道路の写真と研究タイトルが書かれていた。

「本当は、ペーパーで説明しても良かったんだけれど、そうするとスカスカになってね」

蘭は口元に手を当てて笑う。

蘭からの説明によると、高速道路で行われる調査の補助を二人にお願いしたい、といった内容だった。

対象となる高速道路は今から一週間前に完成した、第二常磐自動車道である。これはC県の外房を臨むように建設された高速道路であり、富浦を起点、大洗を終点として、大洗から北関東自動車道へと接続できるようになっている。その立地の為、通称、外房線と呼ばれるようになっていた。

「私のテーマっていう訳ではないんだけれどね。研究室全体の仕事って言ったら良いかな」

蘭は守屋の方を見た。

「持ち回りで院生が担当することに決まったんだよ。中村先生が高速道路の建設計画に関わっているからさ。まあ、避けられないし。データ蓄積しておけば、誰かの卒論や修論になれば一石二鳥くらいに先生は思ってるんじゃない?」

パイプ椅子に浅く座った守屋が言った。守屋は小柄な体格である。蘭と並ぶと蘭の方が僅かに背が高い。室内だがニット帽を着用して大きめのジャンバーを緩く着ている。半間らもコートを脱いではいないので同じだが、暖房がまだ完全に効いていないのでちょうど良いと半間は感じた。その点では蘭の方がこの部屋の四人の中では異質である。薄手の白いシャツにジーンズ、足元は足全体を包み込むようなフォルムのサンダルである。

半間は素直に寒くないのだろうかと心配になった。

「調査補助って大々的に言っているけれど、大した調査ではないわ。さっきは調査内容について説明したけれど、この高速道路って一週間前の開通時にはまだサービスエリアがすべて完成していない状態だったのよ。一昨日、すべてのサービスエリアが完成したっていうことらしいから、そういった施設を踏まえてのデータが取れる状態になったわけ」

余程、開通を急いでいたのか、SAやPAが未完成なところもあるという説明が蘭からあった。半間はそんな状態で高速道路を開通することなどあるのだろうかと思ったが、開通を急ぐ理由があったのだろうと考えた。

「そもそもの話、新しく高速道路を作るっている話が極めて珍しいわ」

蘭はスクリーンを見ながら言った。

「だからっていうこともあるのでしょうけれど、関東近辺の大学の交通系、計画系の研究室が一緒になって研究プロジェクトを組んでいるわ。開通から交通量をはじめとした各種データを追跡調査できるっていうことはそうそうあるものじゃないからね」

先程、守屋の発言にあった、指導教官の中村教授がこのプロジェクトに関わっているということの理由もその点にあるのかもしれないと半間は思った。

「調査は不定期。まず、明日の土曜日、全部のサービスエリアとパーキングエリアが開通してから初めての土曜日だから、人の出入りや施設内の混雑状況を見に行きましょう」

ここで美野島が挙手する。

「あの。ちょっと良いですか?」

蘭は笑顔で左手を美野島に差し出した。話を促したのである。

「調査研究の意義やある程度の事は分かったのですけれど」

半間は横目に美野島を見るとすでにダッフルコートを脱いでいる。ニットのワンピースを着ている美野島のメリハリのきいた体形が半間の目に入る。

半間は居心地が悪くなり視線をすぐに蘭の方に向けた。同級生をそう言った目では見ることができないからだった。

「そもそも私たち四年生全員が手伝いをするのですか?私や半間君みたいに交通計画や道路工学がテーマになっていない学生もいると思うんですけれど・・・」

美野島は補助をするのが不服、と言うわけではなく、素直に疑問を持っていると言った言い方だった。

「あまり、自分の研究テーマで限定しない方が良いと思うけれども・・・。四年生は実は全員に手伝ってもらうわけではないの。まず主体として修士一年の私たちがメイン、四年生は主に大学院進学者に手伝ってもらうことになるわね」

「ああ・・・だから私たちなんですね」

美野島は納得したように頷いた。半間も美野島も大学院への進学が決まっている。半間は夏に実施された大学院入学試験に合格していたからである。美野島はそれ以前に学内推薦試験に合格していた。

半間は大学院へは研究をしたいために行くわけではなく、ましてや、教授から是非と言われたわけでもなかった。ただ、遊ぶ時間が欲しかったからだけである。こういうと眉を顰める人も半間の周りにはいるが、半間としては楽観的に決めているわけではなかった。半間自身も大学院に進めば、蘭や守屋を見るまでもなく、忙しいことは分かっている。しかし、自分のやるべきことやタスクをこなしていれば、何をしても文句は言われないはずである。だから、そのためには努力を惜しまない。つまり、遊ぶ時間を作るために、自分がやらなければならないことを手早く終わらそうとしているわけである。それに文句を言う人間は、半間自身が何をやっていても文句を言う人間だろうと考えていた。

「今後も土曜とか日曜に調査するかわからんけど、少なくとも毎回四年生に出てきてもらうことは無いようにしようと思っているから、心配すんな」

守屋が細い目をさらに細くして言った。美野島はそんな守屋に作ったような笑いを投げかけた。

半間はその二人のやり取りを見ながら。タイミングを窺って挙手した。

「質問、いいっすか?」

「どうぞ」

蘭は僅かに微笑む。

「あ、いや、大した質問じゃないんですけれど」

「構わないわ」

「サービスエリアとパーキングエリアの違いって何ですか?」

場の空気が止まった。

「え?そんなおかしな質問?」

半間は三人を見渡す。

「美野島さん、知ってるの?」

半間は美野島の顔を見る。

「・・・当たり前でしょう?」美野島は半間と反対側を見る。

「知らないでしょう。その感じ。守屋さん!」

「説明は蘭に任せているから」

守屋は頬杖をついて言った。

「その二つの違いはね」

半間は反射的に蘭の方を見る。蘭は半間の目の前に移動していた。

「大きさよ」

蘭の顔を間近で見たことのなかった半間は息が止まりそうになった。

蘭が顔を離すと同時に、深く息を吐いた半間は、鼓動が早くなっていることに気が付いた。それだけ近くで見た蘭の顔はまるで人形の様に生きている人間の雰囲気が感じられなかった。

「お、大きさだけ、ですか?」

何とか発言を返した半間は首筋に汗が流れるのを感じた。暖房が効きすぎているのかもしれないと思った。

「一点目としては、ね。駐車場、トイレ、自動販売機あたりがあるのはパーキングエリアも共通だけれどね。サービスエリアでは食事が摂れたり、ガソリン入れられたり、お土産屋さんとか子供の遊べる遊具があったりもするわね。あ、あと高速道路の交通情報も確認することができることも特徴ね」

蘭はゆっくり歩いてPCの前に戻る。

「最近は、風呂やシャワーがあったり、宿泊できるところもあるって聞くな」

守屋は蘭の方を向いて言った。蘭も頷く。

「大きさって言ったけれど、とってもアバウトな分類でもあるわ」

「大きくてもパーキングエリアって呼ばれているところもあるんですか?」

美野島が言った

「そうね。例えば東京湾アクアラインの途中にある海ほたるパーキングエリアなんかは分かりやすい例ね」

蘭は即座に答える。

「ああ、あれはパーキングエリアなんですね」美野島は口元に手を当てて驚いた。

「言われるまで気が付かなかったっす」半間も感想を口にした。

蘭は二人の反応を確認すると口を開いた。

「二点目としては距離ね」

蘭は指でVサインを作る。

「距離って・・・間隔ってことですか?」

「そういうことね。サービスエリアは大体五十キロメートルおきに設置されているの。対してパーキングエリアは十五メートルおきね」

「全国的に決まっているんですか?」美野島が前のめりで尋ねる。

「ほぼ、そうなっているわね。北海道ではもう少し間隔が伸びるみたいだけれど」

蘭は顎に手を当てて言った。

「じゃあ、今回、僕らが調査補助をするのは四つ分のサービスエリアなり、パーキングエリアなんですね?」

半間は蘭に向けて言った。

「そう。新しく工事が終わった、鴨川、勝浦、九十九里、神栖の四地点に行く予定よ」

蘭は二人に向かって言った。

「鴨川、九十九里、神栖の三つがサービスエリアで、勝浦だけがパーキングエリアね」

「必然的に車ってことになりますよね?」

美野島は蘭に尋ねる。

「ええ。そうよ。あ、車酔いするとか?」

「いえ、そういう訳ではなくて、やっぱり後輩が車出す必要があるのかなって思って」

「それは心配ないよ」

守屋が横から発言する。

「車は俺が出すから」

半間と美野島は二人で守屋を見た。

「ご自身の車ですか?」

「うん。買ったやつ。型落ちだけれど、四駆だぜ。馬力あるよ」

「そういうのって、学生の車使って大丈夫なんですか?一応、学術目的ですよね?」

「本当は駄目」守屋はあっさりと言った。

「乗る機会がないから、動かしたいのよね?」蘭が見下すように言った。

「あ、はい・・・」守屋はなぜか大人しくなった。

「ガソリン代は先生に請求するから大丈夫でしょう」

蘭はうんざりとした表情で言った。

「ということで、明日はよろしくね」

守屋は満面の笑みで言った。



集合は土曜日の朝七時だった。

自宅が大学近辺にある美野島はきっかり時間通りに集合場所のグラウンド裏手の駐車場に到着した。

可士和に下宿がある半間は十分ほど過ぎたものの、走ってきたことで、一生懸命さが認められたのか、蘭からの叱責はなかった。もともと、蘭は叱責などするタイプではなく、淡々と指摘するタイプの叱り方をする。

蘭は怒鳴るようなレベルの怒り方をしたことがあるのだろうかと美野島は思ったことがあった。

一度、研究室の飲み会の時に蘭にそのことを話してみたことがある。蘭が言うにはそんなことは覚えている限りは無い、ということだった。

美野島はそんな人間などいるのだろうかと思い、その点を蘭に言うと、伝えなければいけないことに感情を乗せると、感情が勝ってしまうということだった。だから、本当に伝えたいことがあるのならば、少なくとも相手も感情的になっていなければ、淡々と伝えることにしているということだった。

R大学のグラウンドは大学の裏手、国道に面している。そのため、車移動がメインとなる本日の集合場所として最適だった。

グラウンドは大学の正門からキャンパス内を通って歩くと三十分以上かかる場所にある。美野島の家からは逆に近くなるので時間の調整が可能だったが、半間にとっては普段よりも歩かされた形になる。

グラウンドの駐車場が集合場所となったのは、その他にも理由がある。

そもそも、キャンパス内には学生の車の持ち込みは禁止されているからである。グラウンドにある駐車場は唯一、学生が車やバイクが駐車可能である。

すでに到着していた守屋が車の側に立っていてくれたので美野島はすぐに守屋の車がわかった。蘭は車の中でナビを操作していた。二人と挨拶を交わし、雑談をしていたところに半間がやってきたのである。

「お。おはようございまっす。遅れて申し訳ありません」

息を切らしながら言った。

「しっかり、遅れてきたな。感心だ」

蘭と違って守屋は僅かに臨戦態勢に移行した。

「これ。あの。車の中で食べようと思って」

半間はすかさず、手に持っていたビニル袋を差し出す。美野島が受け取って、守屋と中身を確認する。スナック菓子や片手で食べられるケーキ、ガムなどが入っていた。

「遠足ね」蘭が三人の方を見ずに言った。

「よし、車乗れ」

「あ、草餅ある」美野島は笑顔になった。

「守屋君、半間君の半分出してあげてね。半分は遅刻した罰ってことで」

蘭が助手席から顔を出して言った。

そして美野島がもつ袋の中身を確認する。

「ふんわり名人、買ってきた点は評価に値するわね」

蘭は半間に笑顔を見せた。



守屋の運転で出発した一行は、国道を走って一旦、都内に向かう方向に走る。

第二常磐道は館山から乗ることになる。

途中から常磐道に入ると、三郷まで進んだ。三郷インターチェンジから東京外環自動車道に移動、国道を経由して、松戸市を経由して、京葉自動車道へと車は移動した。

そしてC県の内房周って、富津館山道路を館山まで移動する。

大学から三時間ほどかかって、館山まで到着した一行は、第二常磐自動車道の入り口近くのコンビニで休憩を取っていた。

「このまま高速、乗ってしまえば良いんじゃないっすか?」

半間は隣で煙草を吸っている守屋に言った。二時間、休憩を入れずにここまで来た守屋もしばらくは惚けたような表情をしている。

守屋はすぐには答えずに、スマートフォンを確認してから半間の方を向いた。

「遊びに行くんであれば、それでも良いけどな。一応、調査だからさ」

半間は、だからなんなのだろうかと思ったが、黙っていることにした。車内では喫煙家の守屋にしては全く煙草の臭いがしなかった。今日は、煙草を吸わない二人が乗車していても、気にしている様子が無かったからである。

日常的に使っている車で煙草に臭いがしていないのは、臭いが付着するのを嫌っているからだろうと半間は考えた。今は、大切な喫煙時間ということなのだろうと半間は考え、自分もその時間を楽しむことにした。

蘭と美野島はコンビニでトイレを借りながら、飲み物を調達している。

十分なニコチンを摂取し終えると、ちょうど店内から二人が出てきた。

「お待たせ。行きましょうか」蘭は片手にカップのコーヒーを持って出てきた。

「随分時間かかったな」

守屋は吸殻を灰皿に投げ込むと蘭に言った。

「あっ。その発言、セクハラですよっ」

美野島が後ろから捲し立てる。

「あのな」

守屋はゆっくりと美野島に近づく。

「言われた方が、どう思うか、でセクハラかどうかが決まるんだよ。日常から俺らはこんな会話しているんだから、問題ないの」

ほぼ同じ背の守屋と美野島が向かい合っている。

「それは、私がどう思っているかっていうことに依存する問題ね。二人が議論しても意味ないことだわ。さあ、行きましょう」

蘭は守屋の発言に対してどう思っているかを言わずに車に乗り込む。

「あまり良くないですよ?」美野島は冷静になってはいるが、守屋に言った。

「ちょっと、ランランの気持ちをちゃんと考えてなかったかもしれんわ」

二人共車に乗り込んだ。

半間も一抹の不安を抱きながらそれに続いた。

守屋が引き続きハンドルを担当する。コンビニから出た守屋の四駆は五百メートルほど進んだところにある、第二常磐自動車道の入口へと進んだ。

上り坂になっている道を進むと、目前に、『ETC』と『一般』と書かれた二つのゲートが現れた。

守屋はハンドルの下を確認するように見ると、『ETC』と書かれた方に向かった。

「まだ、二つに分かれているんですね」

半間が後部座席から前方に向かって言った。

「料金所のこと?」美野島がお茶のペットボトルを両手で回転させながら言った。

「そう。ETCを普及させたいのにさ、料金所の看板がETC(エトセトラ)っていうのは滑稽だな」

面白いわね、と蘭が前から半間に声をかける。

「でもね。ETCの普及率は九割近くあるのよ?」

「え?そんなに?」

「意外かしら?実際はETCのセットアップの割合は日本全体の車の数よりもはるかに少ないわ」

美野島と半間は首を傾けた。

「ETCのセットアップっていうのはな。新しくETCを買った時には、車のナンバープレートの情報とかを登録するんだ。盗用されないようにな」

守屋が付け加える。美野島と半間はバック三ら五指に守屋を見た。

蘭は、それがわからなかったのね、と言った。

「だからつまりね。ETCを設置している車よりもはるかに多く、ETC未設置の車があるのよ」

「ああ、そういうことなんですね」

美野島は納得したようだった。

道路事情は、まだ開通一週間とあって、良好だった。また、守屋の運転は極めて安全運転で半間も美野島も乗っていて心地が良かった。

「ほどほどの交通量って感じですね」

半間は運転席と助手席の間から顔を出して言った。

そんな半間の口に、蘭はお菓子を放り込んだ。半間は僅かに口内に入った蘭の指の感触に思考が引っ張られてしまった。

「土曜っていうことも考えてみても、そこまでじゃないな」

守屋がほとんどハンドルを動かさずに言った。

「それにしても、何故、第二常磐自動車道なんて名前を付けたのかしらね?」

蘭はストローでコーヒーを一口飲むと言った。

「どういうことですか?」

美野島が尋ねる。

「名前おかしくない?」

蘭は語尾だけ強めに言った。

「名前っすか?」

「うん。ロケーションを踏まえれば外房自動車道とかそんな名前の方がぴったりだと思うのよね」

「ああ、まあ、そうっすねぇ」半間は後部座席に身体を預ける。

「この道路、結構急ピッチで作られたみたいだからな。名前まで詰めるような余裕がなかったんじゃないか?」

守屋は抑揚のない声で言った。

「だからってねぇ。名前って地図にも残るのよ?もっと考えて欲しいくらいだわ」

蘭は納得していないように半間は思った。

「ご立腹ですね」

「守屋さん、そんなに開通まで早かったですか?」

半間は話題を変えようと守屋にい尋ねた。

「ああ、なんかそうだって言ってたな。道路の施工した建設会社にサークルの先輩が行っていて、工期が短くて大変だったって言ってた」

「へー。なんでそんなに工期が短かったんですかね」

「さぁ、詳しくは話してくれなかったけれどな」

車は緩やかなカーブを曲がる。右手には先程から海が視界に入っていた。

「高速道路のカーブも、景色が良いと気持ちいいっすね」

半間は何とか蘭が自分の会話に参加して来ないだろうかと画策していた。

「こう。直線と半円との組み合わせが何とも素敵な」

「ねぇ、さっきから何言っているの?半間君」

美野島が呆れ切った表情で言う。

「まあまあ、杏奈ちゃん、落ち着いて」

「私は落ち着いているわよ?どっちかっていうとあなたでしょう?」

自分の前に座っている守屋が鼻で笑っているのが半間には聞こえてきた。

車は太陽を浴びながら、直線道路を進んでいる。

「違うわ」

蘭が一言発した。

「ランランさん、そうですよねぇ。この人なんか違いますよね」

「杏奈ちゃん、そうじゃないの。半間君の発言が違うの?」

発言を訂正された美野島は何度も瞬きした。

「発言?」

「直線と半円の組み合わせがっていうところよ」

「えっと・・・それがどういう・・・」

半間は何が間違っていたのかわからなかった。

「高速道路のカーブはね。厳密にいえば、直線と半円、正確には円弧だけじゃないの」

「はぁ。そう・・・なんですか?」

「そう。もう一つ、曲線が直線と円弧の間に入るの。クロソイド曲線っていうんだけれどね」

「走っているだけじゃわかりませんね」

半間は先程のカーブを思い出していた。

「もしね、直線の道路に円弧が直接接続されていたとするでしょう?そうすると、その接合地点で曲率半径の変化に不連続が生じるのよ。そうなると、自動車だったら、急なハンドル操作を行わなければ円周上を走行できなくなるの」

半間は蘭が行っていることは理解できるが、感覚的には理解できなかった。

「クロソイド曲線っていうのは、曲率を一定割合で変化させたときの軌跡として描かれるわ。自動車の運転だと、運転者が一定の走行速度で、ハンドルを一定の角速度で回していった場合に自動車が走行した軌跡がクロソイド曲線になることがわかっているの」

蘭は空中でハンドルを持つように手を挙げると、ゆっくりと右に回転させた。

「つまりね、単純に直線と円弧が接続されている場合は、急激な加速度の変化が起こってしまうのよ」

「走り難そうですね」美野島が想像しながら言った。

「それに貨物や積み荷、乗っている人にも危険な状況になるわね」

半間と美野島は頷く。

「だから、直線部分と円弧部分の間に緩和曲線としてクロソイド曲線を入れるのよ。そうすると運転者にとっても適切な、ハンドルを滑らかに回転させるような操作を行えるのよ」

「確か、実際にその方が最短距離なんだよな?」

運転席の守屋が言った。

「そうね」

「なるほど」半間は素直に頷いた。そして、半間の思惑通りになったことを内心喜んでいた。

「ずっと、緩和曲線って使われていたんですか?」

美野島がさらに質問をする。

「世界で最初に使われたのは、ドイツのアウトバーンだっていう話ね。日本では国道十七号の三国峠付近で使われたのが初めてって聞いたことがあるわね」

蘭はすっかり氷の解けたアイスコーヒーを一口飲んだ。

「クロソイド曲線は道路の他には鉄道なんかにも使われているわね。どちらにしても円滑に車両が進むことに役立っていると言っても良いわ」

半間は黙って頷いた。こうして蘭から話を聞くと、普通に通っていた道も違った顔が見えることは確かだった。

簡単に伸びているように見える道でも、理屈と技術が組み合わさってできているのだと改めて思った。

右手の海側と反対を見ると、畑や民家が並んでいる。これまでにいくつかのサービスエリアやパーキングエリアが通り過ぎていった。

半間は前方に向き直ると、行先表示に鴨川サービスエリアの表示が現れた。あと、十キロという表示だった。

「そろそろ到着でーす」

おどけた調子で守屋が言うのと、美野島が草餅を口に運ぶのはほぼ同時だった。

「ほうぇ?ほう、ほうひゃくへふは?」

「杏奈ちゃん?口の中のもの、飲み込んでから喋りましょうね」

蘭が諭すように言った。

「なんか・・・」

守屋はそう言うと黙った。蘭も美野島も気にしていないのか、耳に入ってなかったのか、二人して草餅派か桜餅派かの議論をしていた。

半間は興味が無かったので、守屋の発言を聞いていた。

「どうしたんすか?」

守屋の後ろに座っていた半間は身を乗り出すと、守屋の耳元に顔を近づけて言った。

「ちょっ、やめて。俺、耳弱いんだ」

半間は一瞬申し訳ない気持ちになった。

「あ、すんません・・・いや、違うでしょ。何かあったんですか?」

半間は守屋から少し距離を取って言った。

「何か警察車両が多い気がしてんだよね」

半間は首を動かして確認すると、前方、遠くに一台、守屋の車の前にもう一台、そして後方にも一台見えた。

「確かに多いわね」

草餅桜餅論争が終わったのか、蘭も首を前後に動かして言った。

「だろ?」

「この先で事故かしらね」

「事故かよ。面倒くせぇな」

「まだわかりませんよね」半間は言った。

「車の流れは良好だけどな」

この先は分からんさ、と守屋は言うとハンドルを強く握った。

「事故がこの先に起こっているならば、鴨川サービスエリアで情報があるでしょう」

蘭は冷静に言う。

またしばらく進むと、目前に鴨川サービスエリアの入り口が見えてきた。

「あれ?パトカー、サービスエリアに入って行くぜ」

「サービスエリアで事件ってことっすか?」

守屋は半間の発言には何も答えなかった。

「かもしれないわね」

代わりに蘭が答えた。

すぐ前を走っていたパトカーに続くように守屋の車も鴨川サービスエリアに入って行く。半間はその状況に緊張していた。

「はとふぁーほ、ひっほでふか?」

「杏奈ちゃん、同じ轍を踏むのは阿呆よ」

蘭は冷静に言った。

パトカーは駐車場に入ると直進したが、守屋の車は左折し、駐車場を流しながら、空いているスペースを探した。

空いているスペースを発見した守屋は車を停車させる。

四人は降車すると、ひんやりとした空気が辺りを包んだ。

鴨川サービスエリアの規模は、いわゆる一般的なサービスエリアと同じように半間には感じた。しかし、一般的なサービスエリアでは感じない、異様な雰囲気を半間は感じた。

「あれだなぁ」

守屋が視線を向ける先はトイレの方だった。

サービスエリアのトイレは必然と人が集中するものだが、今は別の意味で人が集まっている。トイレに入るわけでもなく、その周囲に人が集まってトイレの方を見ている。

守屋の発言は、その光景に対しては何も言及することなく、先程見たパトカーがなぜこのサービスエリアに入ってきたのか、その理由に対しての発言だった。

半間もそちらを見るが、確かに制服を着た警察官がトイレの入り口辺りに張られたブルーシートから出入りしているのが確認できた。先程と同じパトカーなのかはわからなかったが、数台のパトカーがトイレを中心に数台停車している。

「何かあったんですかね?」

「これじゃあ、ちょっと調査どころじゃないわね」

蘭が少し苛立ったように言った。

「どうしますか?」美野島も心配そうに話しかける。

「先生に連絡しておきましょう。一応、着いたっていう報告を兼ねて」

蘭はそう言うとスマートフォンを取り出して電話を始めた。

その間、三人は何もすることが無い。

「ちょっと野次馬してきて良いですか?何があったのか気になりますし」

半間は守屋に言った。

「私もトイレ行きたかったんだけどなぁ」

美野島もトイレの方を見て言った。

守屋は蘭の方を見る。今は背中を見せて何度か頷いている。

「まだ電話終わらないみたいだから行ってみるか」

守屋も了承し、三人でトイレの方に向かっていった。

トイレに近づくにつれて、人の密度の多くなり、ブルーシートが目前に見える所まで来ると、人垣でそれ以上行けなくなっていた。

人の立っている隙間から、微かに黄色いテープのようなものが見えた。それが、『立入禁止』と書いてあることがわかると、半間の緊張感が高まった。

「守屋さん、立ち入り禁止って書いてありますよ」

「だろうなぁ」

守屋はつま先立ちで人垣の上から覗く校とするが、何度もバランスを崩していた。

半間が見る限り、男子トイレの方にブルーシートが張られており、トイレを使用したい男性が制服警官に詰め寄っている声が聞こえた。

「守屋さん、トイレ行っても良いと思いますかぁ?」

「俺はお前の親じゃねぇんだから、勝手に行けよ」

美野島は不貞腐れた態度を取りながら、ゆっくりと女子トイレの方に近づいて行った。

五分ほど守屋と半間はその場に立っていたが、ブルーシートから制服警官が出入りするだけで何も変化はなかった。

そもそも、二人共中で何が起こっているか知らなかった。

半間は右隣にいた男性に話を聞こうと思った。少なくとも自分たちがここに来る前からここに立っていたはずだった。

「あのー。すいません。ちょっと聞いても良いですか?」

半間は申し訳なさそうに隣の男性に声をかけた。隣に立っている男性は半間よりもわずかに背が高く、がっしりとした体格だった。上下紺色の作業着を着ており、その上から灰色のドカジャンを羽織っていた。髪は短く刈り上げ、浅黒い顔には皺が目立っている。

男は半間が声をかけてもまだトイレの方を見ていた。半間は下から見上げるようにその目を覗き込んだ。

男の目は全くの感情が籠っていなかった。他の人々と同じように何が起こったか見極めようと周囲を見渡すこともしていなかった。ただ、トイレのブルーシートの方向だけをじっと見つめていた。

半間は声をかける人物を間違えてしまったと思った。断って別の人に声をかけ直そうとした時に、男は半間の方を見た。

「何かね?」

感情の起伏もなく、淡々とした声で半間に答えた。

半間はどこかで聞いた覚えがあった。それは蘭の喋り方だった。

「あ、えっと、その、これ、何が起こったんですか?」

半間は一瞬戸惑ったが、本来の目的を尋ねた。

「人がね。死んでいたそうだよ」

男は再びトイレに視線を移して言った。

「え?人が死んでいたんですか?トイレで?」

半間はトイレと男を交互に見た。

「そうらしいね」男は半間を見ることなく言った。

「病気・・・ではないですよね?警察が来ているし」

半間は口元に握り拳を当てて言った。

「半間、おい、そろそろ行こう。ランランがこっち来るから」

守屋が後方を見て言った。

「あ、はい。分かりました」

半間が守屋の方を向いて返事をする。再び男の方に向き直ると、すでに男は消えていた。

「先生と連絡取れたわ。とりあえず、ここはまた今度で良いって」

蘭と守屋が会話を始めたので、半間もそちらに向かう。トイレの方から美野島も戻ってきた。

「女子トイレの前にも警察官がいたぁ」

美野島が泣きそうな表情で言った。実際に泣いているわけではなかった。自分は悲惨な目に遭ったということを訴えているのだろうと半間は思った。

「マジか。男?」

「いや、流石に女性でしたけれど・・・所持品も検査されましたよ。鞄の中身を見られている人もいました」

「徹底しているな」

「で、これは何なの?」

蘭がしびれを切らしたように言った。

「何か、人が死んでいるみたいです」半間は先程の男との短い会話を思い出して言った。

「え?人死んでるの?」

美野島はひきつった顔で言った。

「本当か?」守屋は懐疑的だった。

「いや、野次馬のおっちゃんに聞いたんですけれど。自分より先に並んでた人だから」

「何か嫌な予感すんな」守屋は顎を掻きながら言った。

半間と美野島は首を傾げる。守屋が言っている意味が良く判らなかったからである。

「守屋君」

蘭は守屋が自分の方を向いているか確認せずに言った。蘭の視線は前方、ブルーシートの方を向いている。

半間もつられてそちらを見ると、ブルーシートの前に立っている二人の背広の人物がおり、その内一人がこちらに向けて手を挙げていた。

「知り合いっすか?」

半間は蘭の顔を見る。

「そうね。おめでたい名前の人よ」

「不謹慎な名前の人の間違いだろう」

守屋は呟くように言ったのを半間は聞き逃さなかった。

蘭と守屋は言っていることは違うが共通の認識があるようだった。

「そんな変な名前の人なんですか?」美野島が恐る恐る言った。

「ま、本人に聞いてみれば」

守屋は腕を組みながら顎で前方を示した。

半間が視線を移すと、『立入禁止』の黄色いテープを潜る様にスーツ姿の男性二人がこちらに向かって歩いて来た。

境界線のこちら側にいた人々がバラバラと二手に分かれた。その間をすんなりと男二人は歩いて来た。

「やあ。しばらくぶりだね」

年配の男性が蘭と守屋に声をかける。蘭は律儀に頭を下げた。つられて半間たちも頭を下げる。とりあえず、自分が知らなくても先輩が頭を下げているから頭を下げただけである。その方が後々、都合が良いことを半間は知っていた。

年配の男性はグレーのコートに上下茶色のスーツ、オールバックの頭は白髪も見えるが、まだ黒髪も多く見える。五十代だろうかと半間は思ったが、もしかしたらもっと若い可能性もあった。

「ランランちゃんじゃないか。四か月ぶりくらいかな?」

若い、背の高い方の男性が蘭に馴れ馴れしく話しかけた。蘭はこちらにも律儀に頭を下げる。

「お久しぶりです。三ヶ月ですね」蘭はそう言うとニコリと笑った。男性は守屋にも片手を挙げて挨拶する。

背の高い方の男性は天然パーマの髪に日焼けの肌をしており、上下黒のスーツを着ていた。手には薄いダウンジャケットを掛けていた。半間がダウンジャケットに目がいったのと同時に、男はダウンジャケットを着始めた。

「ああ。そうだっけ。あの時は暑かったよね」

「ええ。夏でしたからね。あ、あの時は紅茶ごちそうさまでした」

いいよ、と男は右手を挙げる。半間はこの男性と蘭がお茶を飲む間柄なのだと思った。

「あ、二人共、こちら、C県警の笹倉警部と、寿警部補です」

蘭が思い出したように半間と美野島に二人を紹介する。オールバックの方が笹倉、天然パーマの方が寿だと半間たちは認識した。

「ことぶきさん、っていうんですか?」美野島は珍しそうに言った。

「刑事さん・・・」半間は二人を観察しながら呟いた。

「最もこの仕事に向いてない名前だよね」

そう言うと寿は苦笑した。

「お前ら、まず自己紹介だろう?」

守屋の指摘を受けて半間と美野島はそれぞれ簡単に自己紹介する。

「夏にセミナーハウスであった事件、あるでしょう?」

蘭は半間と美野島に向かって言った。

半間も美野島も黙って頷く。その事件から三ヶ月経過して、研究室内が落ち着いてきた頃である。

夏に学内の宿泊研修施設であるセミナーハウスで発生した事件に計画学研究室が深くかかわっているのである。

短期集中の実技科目である測量学実習の期間中に発生した事件だった。

「その事件を解決に導いてくれたお二人よ」

蘭はさらに言葉を付け足した。

「解決って、それは君・・・」と笹倉が言うより先に蘭は笹倉を直視した。

その眼力なのか、笹倉はそれ以上何も言わなくなった。

「ああ。それでお知り合いなんですね」

美野島は立っていた角度的に蘭の顔が見えなかった。そのため、笹倉の言葉を聞き流した。

「お仕事が大変そうですね。高速道路のサービスエリアまでいらっしゃるんですね」

蘭が他人事の様に言った。

「そうなんだよ。管轄ではあるからなぁ」

笹倉が頭を摩りながら言った。

「君たちは?」

寿は蘭に言った。

蘭がサービスエリア来訪の目的を告げる。

「学生さんは大変だねぇ」笹倉が心の底から言った。

「いえ、そんなことないですよ。知りたいものがあるからです」

蘭はあっさりと言った。

「ところで、私たちと話していても良いんですか?まだお仕事中では?」

「まあそうだね。初動は大体終わったから、多少は話しても大丈夫」

寿はそう言っているが、果たして本当だろうかと思った。

「あの・・・何があったか聞いても良いですか?」

半間は気になっていたことを尋ねる。

「おい、そんなこと聞くなって。簡単に話せないだろう?」

守屋は半間を諭すように言った。

「はい。すんません・・・」半間は素直に謝罪した。

「いや、いいんだよ」

笹倉は微笑んで言った。そして、周囲を見渡す。

「少し場所を変えようか」

笹倉と寿は歩き出す。蘭たちも留まっていてもやれることは無いので、後に続く。

「それじゃあ、この騒ぎだから、ここで調査できないよね」

寿は蘭の横に並んで歩きながら言った。その後ろに半間ら三人、一番前に笹倉が先導する形で歩いている。笹倉が目指すのはトイレと逆の方向である。

徐々に周辺の人口密度が減ってきた。

笹倉が歩みを止めたところはサービスエリアの端、ベンチだけが置かれているような休憩スペースだった。事件が起きているトイレは逆の端、ということになる。

「まぁ、パトカーとか、私らの車の中でも良かったんだろうけれどな。君らが間違われてもイカンからな」

笹倉は、座らせてもらうよ、と言うとそこにあったベンチに腰を下ろした。

「最近、体力がすっかり落ちてね。ちょっと勘弁してくれ」

蘭たちはコメントを言わなかったが、黙って頷いた。

「えっと君の、半間君の質問だけれどね」

笹倉は半間を見た。

半間は緊張した。寿たちが刑事だと知ってから、自分の中の後ろめたい部分が肥大していた。

「結論から言えば、人が死んでいだ。男性だ」

笹倉はゆっくりと言った。その目は一切の感情が籠っていなかった。

あまりにも笹倉があっさりと言ったので、半間と美野島は呆気に取られていた。

「トイレでですか?」

蘭は驚くことはなく、冷静に発言した。

「そうだ。男子トイレの個室で死んでいた」

笹倉はベンチに座って足を組んだ。半間は笹倉の足が意外に長いなと思った。

「鍵を締めた状態ですか?」

守屋も参加する。

「そう言う話だよ。このサービスエリアには個室が二十個あるんだが、そのうちの一つで死んでいた」

「事件性が・・・あるからお二人が来ているんですよねぇ」

美野島が両手を組み合わせながら言った。

「まあまだ詳しくはわからんけどな。亡くなった人が病気を持っていたかもしれんし、急死してしまった可能性もないわけではない」

笹倉は後頭部を軽く叩きながら言った。

「同様に殺された可能性も考えられるってわけだ」寿は腕を組んで言った。

「では、外傷があったわけではないんですね?」

蘭が表情を変えずに言った。

「ああ・・・そうだね。説明が前後してしまったが、被害者に外傷はない。ただ、心臓が停止していたっていうことだ」

半間は今の蘭の質問の意味を考えた。つまり、外傷があれば直ちに殺人だと判明するので、今の刑事二人の発言から、蘭は殺人か病死や事故なのかと言った判断ができないということなのだろうと判断したのだと考えた。

「でも、ただ亡くなっていたっていうならば、刑事さんたちが出てくる必要は無いのでは?」

守屋が刑事二人を見て言った。

「いや、それがな」

笹倉が次の言葉を言うより早く蘭の口が開いた。

「亡くなった男性が下を穿いたまま、便座に座って亡くなっていたんですか?」

「え?」半間は声を上げた。

笹倉は口を開いたまま蘭を見て黙っている。寿も五秒ほど笹倉と同じく、惚けた様に口を開けて黙っていたが、それから含み笑いに移行した。

「さっすがだな。ランラン」

寿は口元に拳を当てながら言った。笹倉は背中をベンチに深く預けて薄ら笑いを浮かべていた。

二人の刑事の態度が蘭の発言の正しさを証明していた。

守屋を含め、学生三人はまだ蘭の思考に辿りついていなかった。

「ランラン、どういうことだ?」守屋が蘭の耳元で言った。

「えっとね。つまり、刑事さんが殺人か事故死あるいは病死の判断がまだできないっていうことだから、死体を確認した段階で殺人の可能性もあるっていう状態だということでしょう?」

半間は納得していた。

「でも、外傷があったわけではないってさっき言っていたから、死体が置かれている状況そのものが殺人あるいは自殺の可能性も示唆される状況だったっていうことだと思ったの」

蘭は刑事二人を見ながら言った。

「殺人の可能性・・・」

「そう。だから普段ならありえない状況っていうこと」

「あ、それでパンツを穿いたまま便座に座っていたっていうことなんですね」

美野島が思いついたように言った。

「そうね。個室に入っているくらいだから、本来の使用目的を果たそうとするのであれば、下は穿いていないのが普通よね?」

急に蘭が半間の方を向いたので、半間は無言で何度も頷いた。

「でも、もし下を穿いてない状態で便座に座って死んでいたらどうかしら。まだ殺人や自殺の線も考えられるっていうことじゃないかな?寿さんたちはそうやって考えたんだと思ったの」

蘭は短く息を吐く。吐く息が僅かに白くなって残った。まるで蘭が言った言葉が形になって天に昇華していくようだと半間は思った。

「だけど、たまたまトイレに入って、扉を閉めた瞬間に持病の発作かなんかに襲われて倒れたっていう可能性もあるんじゃないか?」

守屋が隣から言った。

「もちろん、その可能性もあるっていうことは頭にあるさ」

寿が諭すように言った。

「その可能性、限りなく低いと思います」

蘭は言い切った。

「なぜそう言えるんだ?」

寿は素直に疑問をぶつける。

「自然にその体勢で便座に座ることはまずないでしょう?守屋君の言っている状況ならば前のめりに倒れているはず。便座に座っていたのならば、誰かに座らされたか、自分で座って自殺を試みたかどちらかしかないわ」

蘭が言い終わると、その場に低い唸り声のようなものが聞こえたと半間は思った。実際には聞こえていないのだろうと思った。誰もが蘭の説明に納得したからだと思った。

「君の言っていることは良く判った」

笹倉がまた前のめりになって言った。

「まあ、詳しくは鑑識や司法解剖で分かるだろうから、時間の問題だよ」

「そうですね。わざわざ結論を急ぐ必要は無いですね」

蘭は安心したように言った。

「警部」

トイレの方角からストライプのスーツを着た男性が笹倉の役職を叫びながら走ってきた。

「どうした」

笹倉はベンチから立ち上がってストライプの男性の方に歩いて行った。半間は別の刑事だろうと思った。

「なんかあったのかな」

寿も遅れて二人に近づく。

蘭達四人から離れた場所でストライプの刑事が話しているのを笹倉と寿は黙って聞いていた。寿だけ手帳にメモを取りながら聞いていた。

五分ほど三人の刑事は会話をして、ストライプの刑事がまたトイレの方向に戻っていた。笹倉と寿はゆっくりとした足取りで戻ってきた。

笹倉は後頭部をポンポンと叩きながら歩いて来た。寿は自分でメモを取った手帳をぺらぺらと確認しながら戻ってきた。

「何か緊急事態ですか?」

蘭は尋ねる。

「何か顔が怖い」美野島は二人の顔を交互に見ながら呟いた。

「いや、ちょっとねぇ」

笹倉が寿に目配せをする。

「司法解剖の結果が出てね。身元はまだなんだが、もうすぐ判明する。死因の方が先に判明したよ」

寿は手帳に目を落とす。

「死因は毒物だ。トリカブトの可能性が高いそうだ」

「毒。まだ自殺か他殺かは判明しませんね」蘭が言った。

「そうだね。ただ・・・」

「何かあるんですか?」

「遺体が傷つけられていたんだ」

「傷?」半間は思わず口に出していた。

「ああ。そうだ。ここの部分に」

寿は自分の腹の部分を指差す。

「お腹ですか?」

「現場検証の時は気が付かなかったんだ。衣服が乱れていなかったからね」

寿は言い訳をしたが、その言い方があっさりとしていたからか、半間にはそう聞こえなかった。

「それが何か問題なんですか?傷くらいつくことあると思いますけれど」

守屋が寿に言った。

「そのお腹にできた傷と言うのが、こう」

寿は空中に人差し指を使って円を描いた。

「丸なんだ」

「丸?」半間は聞き返す。

笹倉が何かに気が付いたようにコートのポケットを弄る。

笹倉は折り畳み式の携帯電話を取り出し、何やら会話をした。

「寿、お前のスマホに写真が送られているそうだ」

笹倉の言葉を受けて、寿はスマートフォンを取り出して確認する。

「本来、こういったものは見せないんだけれど」

寿は笹倉を見る。笹倉は軽く頷いた。

「これが傷の写真だ。お腹のアップだからそこまでキツイものじゃないと思うけれど」

寿は周辺を確認してからスマートフォンを見せた。

美野島は目を手で覆っていたが、他の三人は寿のスマートフォンを覗き込むようにした。

「ああ。確かに丸ですね」半間は言った。

そこには被害男性と思われる腹部のアップの写真があった。臍を中心に丸く出血の跡が見られた。

「まあ、円だな。でも中途半端と言うか、下側が閉じてないな」

守屋が言った。半間はもう一度確認すると、確かに円の下側が完全に閉じていなかった。学校の先生がテストの答案に急いで丸を付けた時のようだと思った。円の右下、途切れているところが掠れているところなど、半間が小学校の時に見た経験があった。

「これはどうやってつけたんですかね?」

美野島は覆っている手の間から見ているようだった。

「刃物で傷をつけたらしい」

半間と守屋は短く何度も頷いた。

「その刃物は」

見つかりましたか?と蘭は二人の刑事に言った。

刑事二人は首を横に振る。

「ん?刃物が見つかっていないっていうことは・・・どういうことですか?」

「その他に亡くなった方の持ち物でこの傷をつけられそうな鋭利な物はありましたか?」

半間はやっと蘭の質問の意味が分かった。

「ないんだよなぁ」

笹倉はうんざりとした様子で言った。

「つまり、この人のお腹に傷をつけた刃物を持ち去った人物がいるっていうことですね?」

半間は蘭が予想しているであろう言葉を先回りして言った。

「それは早計ね」

半間は予想していなかった言葉に動揺した。

「その人がトイレに入る前から傷つけていたかもしれないでしょう?」

「ああ・・・まあ、そうかもしれないですけれど」

「分かっているのは、誰かは知らないけれども、明確な意思を持ってその傷をつけたっていうことだけよ」

苦々しい顔をした刑事二人が蘭と半間の会話を見守っていた。


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