土木系女子(ドボジョ)のアンニュイな日常~Favoritism of Person Trip~

八家民人

第1話 プロローグ

「それは・・・私がやらなきゃいけないことなの?」

蘭はグラスに入ったアイスコーヒーに浮いている氷をストローで回転させた。自転と公転をしながら氷が衝突して、音を立てている。

可士和駅から十分ほど歩いて住宅街に入る。住宅街の路地にひっそりと佇む喫茶店、蘭の行きつけである。店内には古見澤と蘭以外の客はいない。

「そうだね。ランランにしかできないと思う。今の所。適任だね」

古見澤は湯気の立ったカップを持ち上げて中身を喉に流し込む。

持ちあげる時と同じ速度でテーブルのソーサにカップを置くと、古見澤は真直ぐに蘭を見た。目元で考えていることがわかると何かの雑誌で読んだ記憶があった蘭だったが、古見澤には全く適用できない。

蘭は表情を変えずに古見澤の顔を見た。

「珍しく、雄也が二人で話したいことがあるって言ったから、期待したんだけれど・・・」

蘭は目線だけグラスに移す。

「期待はするだけ無駄だよ」

古見澤はあっさりと言った。一切感情が籠っていなかった。

蘭はそんな古見澤を見つめる。

いつから古見澤がこうなったのだろうかと蘭は記憶を辿る。間違いなく、あの研究所の事件の後だと蘭は思った。あの事件以降、古見澤は変わったのである。

表面的にはいつも通りに映っている。自分の研究室でもいつも通りに過ごしているはずだと蘭は思った。

蘭が古見澤と出会ったのは入学して間もなくだった。それから袈裟丸や居石、無津呂や合六と出会った。

その時から古見澤は目立たなかった。しかし、その言葉は正確ではないと蘭は思い直す。

古見澤は中央にいる、が正しい認識である。目立つわけでもなく、目立たないということもない。そうした立ち位置に古見澤は意識して存在していた。

「でも、期待するのは勝手じゃない?」

古見澤は笑顔を見せてカップのコーヒーを一口飲んだ。カップを置いても何も言わなかった。

「回答はここで伝えた方が良いのかしら?」

「いや、別に今日じゃなくて良いよ。でもこっちも急ぐんだ」

「そうよね。話からすると時間がなさそうだし」

「決心がつくまで待つよ。決まったら連絡して。明日の午前中までに」

古見澤は席に身体を預ける。

「待ってくれる割に期限があるのね」

「じゃあ」

古見澤笑いながら立ち上がり、店の玄関に向かう。

会計など一切せずに古見澤は店を出て行った。

蘭はアイスコーヒーを飲み干すと自分も席を立った。

しかし、テーブルに伝票が残されていないことに気が付いた。

とりあえず会計を済ませようとレジに近づくと、カウンターの中からマスターがゆっくりとした歩調で出てきた。

「彼からもう貰っているから、大丈夫だよ」マスターは片手を挙げて言った。

蘭は目を丸くしてマスターを見る。

「アイスコーヒー一杯がお駄賃ってことかしら?」

マスターは笑顔で、さぁ、と言った。



男が玄関から外に出ると。肌を刺すような冷気が体を包んだ。

防寒着を着用してはいるものの、あと一ヶ月もすれば年が明ける時期の山奥の気温は男の身体に応えるものがあった。

世間的にはすでに還暦を迎えている男は一年前に山奥に自作の一軒家を建て、一人で生活していた。妻はすでに他界している。子供は娘が一人だけだった。

男は月明りの中、ゆっくりと歩を進める。歩き慣れた道とはいえ、夜は全く景色が異なる。野生動物も通るような道である。亡くなった妻が希望していたように、犬でも飼っておけば良かったのだろうかと男は今になって考えることがあった。

男の子供はすでに結婚して、子供、つまり男にとっての孫もいる。

しかし、それは正確ではない。

男の子供は十年前に他界していた。夫婦そろって事故に巻き込まれたのである。

男の夫婦は残された孫娘を引き取って育て上げた。大学まで行かせたことは夫妻の自慢だった。

男の妻は孫娘の花嫁衣裳を見ることもなく逝ってしまうことを病室で悲しんでいた。

だから男は孫娘を嫁に出すまでは死ぬわけにはいかなかった。

挙式に妻の遺影を持って参加すること、男の人生最後の目的が妻の死によって定まったのである。

男は国道に続く道に出ると、国道とは反対側に折れる。そのまま山を登るような形に道を進む。

歩いて来たためか、寒さに体が慣れてきたように男は感じていた。

そんな男の人生最後の目的も今となってはすっかり意味を持たなくなってしまっていた。

孫娘が死んだからである。仕事上の事故だった。

男は開けた展望台のようなところに出た。そこにはベンチが一脚だけある。男はそこに腰を掛けると防寒着のポケットからスキットルを取り出して中身を煽る。

男の目には太平洋の穏やかな海面が映っている。足元から続く山の斜面が緩やかに海に向かって伸びている。その海と山との境界を線引くように、時折、灯りが左右へと移動していた。

その灯りは同じ道筋で移動している。男は孫娘が死んだ日から、その灯りを眺めるようになっていた。

孫娘の命を奪う原因となった、第二常磐自動車道を走る車の灯りだった。

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