応接室①


               * * * * *


「三通目には署名がありませんね」

 ミシェル・ロンフルマンは古色蒼然たる紙片をそっとテーブルに置き、白手袋を外すと、巧みに間合いを計って勧められたティーカップの柄を摘んだ。この手稿がしたためられた当時、は紅茶という飲み物を知らなかったのだな……と思いながら。

 鑑定士は紅薔薇をたっぷりと活けた花瓶の傍に立ったまま、

「何かの都合で最後まで綴れなかったのでしょう。あるいは断片しか保存できなかったか」

 ミシェルはに添えられた訳文のペーパーを再び手に取ってザッと目を走らせた。

家政婦長ハウスキーパーアン=マリー・クールは誰に宛てて書いたのか。受け取ったのがジャック・ロンフルマン医師でなければ、手紙が我が家に受け継がれてきたことの説明がつかない。それにしては、彼が文中で重要なキャラクターとして描写されているのが不自然」

 謎だったの正体が判明して、ミシェルはホッとしつつ肩透かしを食った気分を味わっていたが、湧き上がる疑問を解かないうちは帰れないと思った。それでも、鑑定士が卓上の電話と手首のスマートウォッチを交互に睨んでいるのは承知していた。

「すみません。遙か昔に死んだ人だと理解してはいますが、つい数ヶ月前の事件みたいに感じてしまって」

「アン=マリーの運命やいかに……ですかな」

「もっとも、今日こんにちに至るまで、身内には誰もこのミドル英語イングリッシュを現代語に訳そうと試みた者はいませんでした。何しろ、祖母が鍵を失くしたと言うし、無理に開けようとして壊しても困るし……で、紙片が入っているのは音でわかったものの、姿さえ拝めなかったので」

 ミシェルの祖母マーガレットが幼少期から宝物を詰めては出して眺め、戻し、入れ替え――を繰り返していたのは、日記帳の形をした錠前付きのブックストレージボックスだったが、いつしかマーガレットは小さな鍵を紛失してしまい、泣く泣く小箱をクローゼットの奥に押し込めたと語っていた。それを半年ほど前、いよいよ体調を崩して入院という折、不意に思い出し、探し当てて病床の慰めにしていたのだが、何が入っているのか本人も最早はっきり覚えてはいず、ただ、家宝だから自分が死んだ後も大切に守ってほしいと繰り返すばかりだった。

「祖母が生きているうちに開けてもらえば、よかったんでしょうけど。私もしばらく忙しかったし、他の身内はまったく関心を払っていなかったから」

 幸い、付き添っていた伯母が末期まつごの言葉を聞き取ったお陰で、マーガレットの宝箱はミシェルに託された。そこで、業者に合鍵を作らせて解錠したところ、ボロボロになった黄褐色の紙に古い文章が記されていたため、専門家にアンティークとしての鑑定と本文の解読を依頼したのだった。ついでに、もう一つ、子供騙しのおもちゃの中で異彩を放つ指環についても。

「興味深い仕事でした。結論を申しますと、紙片は中世のものと見て間違いないでしょう。製紙技術がヨーロッパ全土に伝わったのは十五世紀とされています。木綿の屑を手で漉いて紙を作っていたのですな。古布をほどいて再利用する場合もあったとか。言語も、おっしゃったとおりミドルイングリッシュ。ベッドフォード公という名称が現れる。ランカスター家の爵位です。つまり、いわゆる薔薇戦争期に、赤い薔薇を記章としたランカスター家にくみする側の何者かが書き残したと考えられます」

「アン=マリーではない?」

「苦悩する家政婦長ハウスキーパーを主人公とした小説の草稿……とは考えられませんか」

 ミシェルはティーカップを持ち上げたが、口をつけずソーサーに戻した。

「最後の紙の端にある汚れのようなものが、どうにも引っ掛かって……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る