第2話【失われた黎明】


 『いなり喫茶店』と書かれた真裏。

 木の枝に、首周りが白いカラスが一羽まっていた。

 その下には靴下を履いたような黒猫が木の根っこにもたれるように寝転んでいた。

 の視線の先にはバルコニーと大きなガラス窓があり、季節外れの暖かさゆえに窓は開かれていた。

 窓際のテーブルには母親らしき人物が二人。髪が短い方の隣にはベビーカーがあり、一歳半ほどの赤ちゃんが眠っていた。

 バルコニーでは四歳くらいの子ども二人がケラケラとそれぞれの世界観で遊んでいた。

「ねぇレトロ? あの人たち一年前にも来たよね」

「そうかしら? 興味がないから覚えてないわ」

 レトロと呼ばれた猫は確かめる素振りもなく言った。

「あの赤ちゃん、もうあんなに大きくなったんだなぁ」

「……なによベア。近所のジジィじゃあるまいし」

 レトロは眠たげな声で言った。

 ベアは今では人間らしくなってきた赤ん坊を感慨かんがい深そうに眺めていた。ベアは赤ん坊の頭が何かに似ていると考え込むがすぐに思い浮かんだ。じゃがいもだった。

 

 母親達は子どもや自分達の話で盛り上がっていた。あれが欲しい、痩せたい、綺麗になりたい、など願望ばかり。あとは子どものあれができない、これが大変、といった内容であった。

 母親達はペチャクチャお喋りをし時々大笑いをしているが、笑っているときでさえ瞳の奥は子どもたちを監視する眼光がんこうするどい。

「…………人間の母親も割りと野性的よね」

 それを見ていたレトロは少し引きつったように笑った。

「……そ、そうだね」

 母親達の鋭い眼光にベアも本能的にたじろいだ。

 

 髪の長い母親が騒がしい子をたしなめたあと近くに置いてある水をひじで倒し、それを見たミョウメイが慌ててがタオルを持ってきた。

「あ、またやった」

「またって何よ」

「前も同じことをしたんだよ。一年前。あのときも水をエルボーしてた」

「エルボーって……。あんたの記憶力には感服かんぷくするわ」

 レトロは皮肉めいて言ったが、ベアには伝わらなかった。


 暖かながなくなり、『いなり喫茶店』には【close】のプレートが掛かっていた。

「でもさ、不思議だよね」

「なにが?」

 カウンターでベアの左隣に座るが尋ねた。

「レトロも見たでしょ? 今日のお客さん」

「?」

「もう覚えてないの!? 信じられない!」

 ベアの椅子の上には高さを調節する為の箱が積み上げられているが、驚くベアの所為せいでグラグラと揺れた。

 レトロと呼ばれた少女は首をかしげながら冷えたミルクティーを飲んだ。

「あー、今日のお子ちゃま達のことかしら?」

「そうそう! さすがミョウメイ」

 ミョウメイと呼ばれた彼はカウンターを挟んだ所にいた。

「子どもは一年であんなに成長するのに、大人は一年かけても何にも変わってない。話の内容だって前とあまり変わらないし、なんでかな?」

「それはそうでしょ。見て取れる成長は子どもの方が大きいわよ」

 レトロは至極当然のことのように言うが、ベアはあまりピンときてなかった。

「んー。そういうことじゃなくて……。人間って生きる時間がたくさんあるのに生きてないなって思ったの」

「はぁ? なにそれ」

 レトロは驚いたような、呆れたような顔でベアを見る。ベアは神妙しんみょう面持おももちをしている。

「僕は限られた時間、色々知りたいし学びたい。やりたいことは全てしたい。だけど人間ってある程度の歳までくると、それが無いようにみえる。あの母親達だけじゃなく、ほとんどの大人がそうみえちゃう。何かあるのかもしれないけど……あとはただ死ぬだけ」

 レトロは面倒くさいのか、ただ黙って聞いているだけだった。ミルクティーに浮かぶ氷を指でつつき沈めようとしている。

「僕はくやしいんだ。必死に生きてるほうが時間が短いのが」

 ベアが言い終わると、カウンター越しに話を聞いていたミョウメイが渋面じゅうめんを作りながら言った。

「ベア。自分が見てる世界が全てじゃないのよ。ベアが必死に生きてるのは知ってる。だけど、貴方は人間の何を知ってるの? 私達のことも生きてないように見える?」

 普段より低い声でミョウメイはカウンター越しにベアに詰め寄る。

「こんなに近くに居る人間ですら貴方は知り得てない。全て見ていない貴方に言われる筋合いはないはずよ」

 珍しくミョウメイが真剣な口調なのでレトロもベアも驚いていた。

「人間からしたら貴方もただのカラス。ただ死ぬだけのカラスよ」

「……そうだね。ミョウメイの言う通りだ。当事者じゃない自分には誰も責められないや。……謝るよ」

 ベアはミョウメイの発言を聞いて態度をあらためた。いつも呑気のんきなミョウメイに真剣に怒られたのでベアは落ち込んでいた。目の前に差し出されている珈琲に溶けて消えてしまいそうなほど萎縮いしゅくしている。

「……焦る気持ちはわかるわ。時間が少ないものね」

 溶けていきそうな黒い物体を見てミョウメイは優しい声色こわいろで声をかける。そして何か閃いたように手を叩いた。

「そうだ! チンパンジーなんかどう?!」

「はぁ?」

 脈絡みゃくらくのない発言に今まで黙っていたレトロは口を開いた。聞き間違えではないかと髪のあいだからのぞいていた猫耳をピクピクとさせた。

「だからチンパンジー! 彼らは一番人間に近いですもの!」

 ミョウメイはカウンターから身を乗りだしながら興奮気味に言った。

「そうか! なんで今まで思い付かなかったんだろ!」

 したベアの顔がぱぁっと明るくなった。今度はその明るさで溶けてしまいそうだった。

「そんな簡単に行くとは思えない」

 ネガティブな発言は顔をひかりかがやかせているベアには届かなかった。


「これはこれは! ようこそ!」

「こんにちは」

 大勢の中から、年老いたチンパンジーが手を広げながら朗らかに話しかけてきた。

 ベアはミョウメイに教えてもらった動物園のチンパンジーのエリアを訪れていた。そこは岩山で、周りには高い壁がそびえ立っていた。その高い壁の上から見物客がこちらを見下ろしている。

 平地に緑はあるが、ゴツゴツとした岩山と無機質な壁の所為せいでどこも殺風景に感じた。

 タイヤのブランコや木材で作られた遊び場のようなものがあり、岩山には削られたように所々ところどころ穴やトンネルが掘られていた。


「あなた達はこの世界で幸せ?」

 唐突とうとつな質問に老いたチンパンジーは少し目を見開いた。そして朗らかに言った。

「それはそれは、とても素晴らしい世界ですよ。ねぇ? みなさん?」

 老いたチンパンジーは後ろを振り返り、周りのチンパンジーに尋ねた。

 周りのチンパンジー達も、ええ、そうとも、そうですわ! と口々に語った。

「なによりもここを治めるおさ、あのお方が偉大でしてね」

「偉大?」

「ええ。こうして争いもなく穏やかに暮らせているのも、あのお方のおかげなのです」

 また周りのチンパンジーはウンウンとうなずいていた。

「そうなんだ。そのお方には会わせてくれるの? ええっと……」

 ベアは老いたチンパンジーを見て、何と呼ぼうか考えた。あらためて見ると、どのチンパンジーもこれといった違いがなく、正直に言って全員同じ顔にみえた。ただ、この老いたチンパンジーについては目が少しにごっているのとシワシワなのでかろうじて見分けがついた。

「ああ、これは失礼。私はルーベルトと申します」

 ベアの胸中きょうちゅうを察し胸に手を当てて軽く会釈えしゃくをする。なんとも紳士的なチンパンジーであった。

「僕はベアです」

「ベアさんですか。素敵なお名前で」

 にっこりと笑う。実に甘ったるい顔。

「先程の申し出ですが、すみません。あのお方……パウロ様に会わせることはできません」

「どうして?」

「パウロ様は部屋から出ることは滅多めったにないのです。それも、昔にった顔の傷で、みなを不快にさせないようにと配慮はいりょのことでして」

 ルーベルトは残念そうな顔を左右に振り、上げている手をだらりと下げる姿は自分の感情をあらわしているようだった。

「へぇ……。え? でも、ご飯とかどうしてるの? さすがに出てこないと食べられないでしょう?」

「そこは側近そっきんである私がお部屋までお持ちしているのですよ」

 今度は胸にポンッと手を当て、誇らしげに言った。

「ふーん……。でも『滅多に』ってことは、会える日もあるってこと?」

「ええ。月に一度、集会があるのです。そのときにはお出になられますよ」

 そう言うとルーベルトは腕を組ながら上を向き、指を折り曲げ何やら数え始めた。

「ああ、そういえば今日でしたね。ベアさん! パウロ様に拝謁はいえつできますよ」

「本当? やったぁ!」

 ベアは喜ぶのもそこそこに、パウロに何を質問するかで頭がいっぱいだった。

 そんなベアをルーベルトは相変わらず笑顔で見ていた。


 夜まで時間があるからと、通された場所は同じく岩と少しばかりの緑だけで代わり映えがなかった。違うのは、沢山の食事がテーブルをした岩に綺麗に盛り付けて並べられていることぐらいだった。ミカンにリンゴにバナナ――それから肉まであった。

「わぁ! すごい! こんなにどうしたの?」

「みんな集会の為にエサを少しとっておくんです。そして当日にこうして食事会をするんですよ」

 声からして若めのチンパンジーが優しい声色こわいろで言った。

 ルーベルトはベアをここに連れてきたあと他にやることがあるからといって、このチンパンジーにベアをたくしていた。

「お祭りみたいな感覚かな」

 綺麗に並べられた果物をよく見てみると、日にちがっているため色味が悪く腐りかけていた。ミョウメイがたまに出してくれる果物とは月とすっぽんだった。綺麗な盛り付けにだまされたベアはガッカリしたが、食べられなくもないのでいただくことにした。

 

 鈍色にびいろの空にはオレンジがいろとして存在し、今が逢魔おうまときなのだとうかがい知ることができた。

 食事も落ち着き、チンパンジー達はそれぞれ会話を楽しんでいる。

「どうやったら人間になれると思う?」

 ベアも近くにいたチンパンジー達と会話をしていた。

「んー、難しい質問だね」

「そう思う心がじつに人間らしい!」

「そんなことは聞いてないのよ。ベアさんは根本的な解決が欲しいの。もっと真剣に考えなさい!」

 周りのチンパンジー達はニコニコとしながらも真剣に話を聞いてくれた。様々な意見が飛び交う。そんな様々な意見にはんしてチンパンジー達の顔はどれも同じだった。

 しばらくしてルーベルトがやってきた。

「楽しくやってますかな?」

「そりゃもう! こんなにもてなされたことなんてないよ!」

「ほぉ? それはそれは良かった」

 ルーベルトはニコニコとしながらベアの隣に座った。よっこいしょ、と吐く息に混ざるように小さく聞こえた。

 ルーベルトはしばらく黙っていた。遠くを見るようなその姿は、郷愁きょうしゅうられているようだった。しかしそこにうれいなどはなくルーベルトは破顔はがんしていた。

「私達は本当に幸せです。代わり映えのない景色ですが、かけがえのない仲間達と仲良く暮らせている。幸せです。……なによりみなさんも同じ思いでいてくれていますしね」

 周りのチンパンジー達を見るとさっきと同じようにウンウンと頷いていた。

「……昔はねれていて喧嘩がえませんでしたよ」

「え? そんな風にみえないけど」

 確認するように辺りを見渡すベアを横目にルーベルトは回顧かいこし始めた。

「昔のおさはエサや女どもを独り占めし、反抗した者はちからでねじ伏せられてきました」

「……とんでもないやつだなぁ」

「そんなある日、パウロ様は立ち上がったのです!」

 ルーベルトそう言うと力強く拳を握り顔を上に向けた。

「最初はおさちからに痛め付けられていましたが、何度でも立ち上がるその姿に感銘かんめいを受けた者が加勢し始めたのです」

 ルーベルトは今度は手の内を見せるようなポーズをしてみせた。

「そして見事に勝利を勝ち取った彼は新たなおさになり、今のような平和な世界をつくったのです!……そんな彼はあの時の大怪我でおもてに出られなくなってしまいましたが……」

 またも感情をあらわすように上げていた手をだらりと下げてしまった。

「へぇ。英雄なんだね」

 ベアは淡々と言う。それを聞いたルーベルトはニコッと幸せそうに笑った。

「ええ。私達にとって存在なのです」


 急ぐように日が落ち、動物園は静寂に包まれた。石同士を叩くようなカチカチと乾いた音が響く。その音につられてチンパンジーが緑の平地にゾロゾロと集まってきた。これといった決まりはなくじゅんに頭上にある突出とっしゅつした岩の下に並んでいった。

 ベアもならうようにチンパンジー達の後ろへ並んだ。

 皆が集ったのを見計らうように、突出した岩の上からルーベルトに支えられながら一匹のチンパンジーが出てきた。

 らしきもの、というのも顔にぬのかぶせられおり暗闇とあいまってチンパンジーだと認識するのに時間がかかったからだった。 

「皆さん、今宵もお集まりいただきありがとう! これから集会を始めます」

 そう言うと、ルーベルトはパウロの顔に耳を近付ける素振りをみせた。ウンウンと頷き、それから下にいる皆に告げた。

 「パウロ様からねぎらいのお言葉を頂きました。そしてこれからも皆、仲良く過ごすようにとのことです」


 集会は短かった。終始ルーベルトが代弁するだけで結局パウロの声は聞くことが出来なかった。それでも、お言葉が終わるとチンパンジー達は拍手をしたり指笛を鳴らしたりしていた。ベアにとってその光景はチンパンジー独自の賛美歌さんびかに聴こえた。

 賛美歌が終わるのと同時に、ベアはパウロのもとへと飛び立った。

 「こんばんは。パウロさま」

 岩穴に帰る途中のパウロを支えていたルーベルトは驚いたように振り返った。

「ベアさん、いけませんよ。パウロ様とお話ししたい者は沢山おられます。いくらお客様でも、ほかの者を差し置いては……」

 ルーベルトの顔に笑顔以外の表情が張り付くのを初めて見た。

 すると、パウロがまた何か言い出したのかルーベルトは耳をパウロの顔に近付けた。良いのですか? などと大袈裟に言うが、暗闇から見ているベアにとってその仕草はもっともらしく見えた。

「パウロ様は寛大かんだいなおかたです。明日、お話しする場をもうけると仰っております。よろしいですね? ベアさん」

「もちろん! ありがとう!」

 そういうと、ルーベルトはパウロを支えながら岩穴に入っていった。

「足も悪いのかなぁ」

 しかしベアはかされなかったそんな情報よりも、鼻を刺すような臭いが漂っていることに気が付いた。

「お風呂もあんまり入れてないのかな」

 残りに包まれる前にと、ベアは後退あとずさるように飛び降りた。


 平地に戻ると大勢いたチンパンジーは姿を消していた。ベア自身もそろそろ帰ろうかと考えていると、寒さとは別の震えをした一匹のチンパンジーが岩の影から覗いているのが見えた。

「どうしたの?」

 ベアは少し近付きうかがうように言った。

「………こ、こ」

「はい?」

 チンパンジーは震えている所為せいか、くちが上手く使えないようだった。

「とりあえず落ち着こ――」

「ここに……いっ、居ちゃいけないっ……」

「えっ?」

 チンパンジーの蚊の鳴くような声は暗闇に溶けていく。ゼンマイが錆び付いた玩具おもちゃのようにカチカチと動く。まばたきもせず大きく見開かれた目は忙しいほど左右に振られ、焦点が一向いっこうに定まらない。そのせいか血が流れてしまいそうなほど目は充血していた。

「どうして?」

 そう言いながら震えるチンパンジーに近付こうと一歩いっぽ踏み出す――そのまえにベアの背後から物音がした。

「おやおや、ここに居ましたか。ロン君」

「!」

 ベアには振り返らずともその声の持ち主が誰なのかわかった。

 ロンと呼ばれたチンパンジーは震えを止めていた。左右に振られていた目も動きを止め、ルーベルトに照準しょうじゅんを合わせていた。

「パウロ様がお呼びですよ」

 ルーベルトが優しく微笑む。甘ったるい笑顔で。

 ロンは震えを再開していた。しかしそれはベアも気付かないほどかすかなものだった。

「ベアさん、すみません。少しお借りしますね」

「……あ、うん……」

 そういうとルーベルトはダンスでも踊るかの如く上品な仕草でロンの手を取った。

「行きましょうか?」

「…………」

 二人には対照的な表情が張り付いていた。そして何もはっさないまま二人は暗闇へと消えていった。


 二人を見送ったあと、近くを通りすぎたチンパンジーに話しかけた。

「僕そろそろ帰るね」

「あら、ベアさん。真っ暗ですけど大丈夫ですか? 明るくなるまでお待ちになったら?」

「大丈夫。カラスは夜目よめくから」

「そう……。でもっ」

 チンパンジーは何としてでも引き留めたい様子だった。離れがたいほど気に入ってくれたのかとベアは自惚うぬぼれた。

「一日くらいどうですか? まだまだ語れることは沢山ありますし」

 送り終えたのか岩の中からルーベルトが出てきて言った。

「あの、さっきのチンパンジーは?」

「先程のチンパンジーですか? 彼ならパウロ様とお話をしておりますよ」

「……そう」

 先程のチンパンジーが気にかかり顔を曇らせるが、ルーベルトは相変あいかわらず笑顔だった。

「あの、僕少し眠くなってきたから」

 帰る――そう伝えようとする前にルーベルトは食い気味に言った。

「おお! そうでしたか! これはこれはすみません。気が付かなくて。今お部屋にご案内しますね!」

「え……ええ?!」

 ルーベルトはベアの羽を引っ張り、強引に岩の中へと連れていく。

 中はアリの巣穴のように枝分かれしていて時々、部屋のような空間も存在した。

「ここ! 丁度良いと思うんですが、どうですか?!」

 ルーベルトは掴んでいた羽を離し、下方かほうを指差した。

 通されたのは一羽丁度の大きさの窪みで、なぜこんな小さな窪みが作られているのかベアは不思議に思った。

「是非ここをお使いください。何かあればすぐ申し付けくださいね!」

 おやすみなさい、と言うと有無を言わさぬ速さでルーベルトは去っていった。

 言われるがまま、ためしに寝てみるが落ち着かない。すきま風がオーオーと不気味な音と共に寒さをもたらす。いつもの喫茶店のありがたみを実感した。


 やはり居心地のよい場所へ帰ろうと、ルーベルトを探しに岩の中を探し歩いた。

 側近そっきんと言っていたので、岩山の頂上付近にでも部屋があるだろうと予測よそくすると、やはりその通りだった。

 入り口には布が垂れ下がっており、中が覗けないようになっていた。

「おじゃましまーす」

 ルーベルトと声をかけようと思ったが、違う部屋の可能性も考慮こうりょし控えた。

 中は暗く、隙間から月明かりがもれている。そして臭い。

 少しばかりの通路を進むと楕円だえんに広がる空間が現れた。そして中央に黒くぼやけた何かがたたずんでいた。

 目をらしてみると一匹のチンパンジーが壁にもたれて座っていた。

「……パウロさま?」

 顔には布が掛けられていて先程同様、暗闇とあいまって認識するのが遅れた。

「あ! ごめんなさい! 間違えて入っちゃった!」

 言葉とは裏腹にベアは落ち着いていた。この際、声をかけられるのなら誰でもよかった。

「…………」

 パウロは何もはっさなかった。

「お、怒ってる?」

 ベアは羽を少し浮かせ、焦った表情をした。怒られるよりも無視されるほうがこたえた。

「…………」

 やはり、何もっさない。

「パウロ……さま?」


 ベアは近付いた。そして気付く。カチカチに固まった物体。その異臭の正体。何も話さない訳を。


「しん……でる……?」


 ベアの体は無意識に震え出した。目の前が歪む。自分の中に流れる血が音を立てて脈を打つ。ベアは動転した。言葉も発せず、飛ぶことも忘れ、逃げ去るように部屋を出た。


 動転しながら平地を走っていたそのとき何か踏んだ。

「……?」

 微かに濡れた感触かんしょくがあり、焦っていたが振り返り見てしまった。

 ぬいぐるみのように横たわるは、かすかに上下していた。

「ヒィッつ!!??」

 声を出してしまった。それがあやまちだったとすぐに気付くことになる。

 ドカドカと足音がこちらに向かっていた。

「に……げて……」

「?!」

 その声に覚えがあった。

 しかし、覚えてるものとは比べ物にならないほどは違っていた。

 彼は確かロンと呼ばれていた。しかしそれは先程までの彼だ。今は何かで殴られたのか顔の半分は陥没かんぼつしていて、血溜まりができていた。指はそれぞれ違う方向を指しており足もねじ曲がっていた。

 呆然ぼうぜんと立ち尽くしそれを観察していると、すぐ直後にルーベルトの声がした。

「どうされましたかー?!」

 ルーベルトの大きな声にビクリとしながらも、目の前のそれを見つめることしかできなかった。

「にげ……げて……ヒュゥ」

 空気の漏れる音、血の混ざる声は恐怖をあおった。

「どうされましたか?」

 ルーベルトがベアのすぐ後ろにやって来ていた。やっとの声をかけられてベアは我に返った。

「たたたたたたいへんなの! この人が……誰かにっ!!」

 使い方を忘れた羽をバタつかせ、懸命に助けを求める。

「! これはこれは、大変ですね!」

 ベアの懸命な訴えによりルーベルトはベアの下に倒れているモノに気付き、慌てた様子で言った。

 ベアは重大さが伝わったことに少しほっとした。


「ちゃんと片付けるよう言い付けたのに」


「…………へ?」

 声が上擦うわずった。聞き間違えたのか。片付けるとは何のことか。身体中からドス黒い不安が押し寄せる。混乱しきった頭で導いたのは、頓狂とんきょうな回答だった。その答えに×を付けて欲しい――そんなすがる思いでルーベルトを見た。

「お見苦しいところをお見せし、申し訳ありませんねぇ。おーい! 誰か出てきておくれ!」

 答え合わせはすぐに終わった。そしてそれはどうやら正解だった。そればかりか◎を付けられてしまいそうなほど彼は笑っていた。

 ルーベルトの声に反応し、ゾロゾロとチンパンジーが出てくる。

「こっ、こんなことしてっ……許されると思ってるの?! だいたい、パウロに見つかったらただじゃっ――」

 そう発した瞬間、先程の光景を思い出す。

「そうだ……パウロはっ……!」

「シーッ」

 ルーベルトは人差し指を口に当てながらベアに近付く。朗らかに笑いながら全てを察しているようだった。

「こんなこと、皆が知ったら……」

「大丈夫ですよ」

「え?」

 大丈夫。その言葉に恐怖を抱いたのは初めてだった。そしてルーベルトはなおも笑いながら言う。


「パウロ様は私なのですから」


 ベアにだけ聞こえるようにささやいた。

 いつもより低くはなたれた声。重低音が体の中で気色きしょく悪くこだまする。それは聞いた者を死に至らしめるのに十分じゅうぶんな囁きに思えた。


「それに、これパウロ様の命令ですから」

「これ……?」

 ルーベルトの視線を辿ると、地面に転がる惨憺さんたんたるチンパンジーの姿があった。

「……パウロが命令したと? 殺せって?」

「ええ。まぁ、正しくはパウロ様が命令したですね」

 ルーベルトは顎をポリポリと掻いた。笑っていた。

「ここは争いをしない世界でしょ?! 皆が承諾するわけ……そもそも、あの部屋にいたパウロは誰だ!?」

 狼狽うろたえているベアは矢継ぎ早に問いただした。こんな状況でさえも真実を知りたいという気持ちが抑えられない。

 ルーベルトは、顎から手を離しやれやれと肩をすくめた。

「口の聞き方もわからない無礼なお客様に一から説明してあげましょう」

 ――消えた。ルーベルトにいつも張り付いていた朗らかな表情は消え去っていた。代わりに新しく張り付いた表情は、見たこともないほどの無だった。表情だけでなく声ですら生気せいきが消え、無という音が具現化した声だった。

「平和というのは、同じ考えの持つもの同士でなくては作りあげられません。考えの違う者は秩序ちつじょと平和を乱す異物なのです。異物は取り除かなければならない。わかりますか?」

「だ、だから殺すって……?」

「ええ、そうですよ。でないと争いは絶えませんから。みんなでなくては。ねぇ?皆さん?」

 最後の方だけ声を大にして周りのチンパンジーに訪ねた。チンパンジーを見渡すと、昼同様ウンウンと頷いていた。

 そのとき気付いた。改めて一人一人の顔を見てみると、皆の目はうつろで死んでいた。みんなが一緒の顔をして、一緒の発言をしていた。

「ですが、皆をまとめるためにも統御とうぎょする絶対的な存在が必要なのですよ。わかりますか?」

 ルーベルトは振り返りまたベアだけに聞こえる声で言った。

「……それがパウロ?」

「ええ。パウロという名のです」

 ルーベルトは至近距離でベアの目を凝視ぎょうししている。開かれたその目は汚く濁っていた。

 硬いくさりで縛られたのか、はたまた呪いなのか見つめられているベアは固まり動けない。嫌な汗をかきながらも働かない頭でメドゥーサは実在したのだと見当けんとう違いな考えをしていた。

「あ、でもパウロ様は本当に実在してましたし逸話は本当です。おさになった直後に殺しましたがね」

 単調に話す。相変わらず顔には無が張り付いている。

「あの部屋にあったのは異物の死体をお借りしているんです。ええと、何て名前だったかな」

 ルーベルトはこめかみに手を当て考える仕草をするが、表情から見て形だけなのだとすぐに気付いた。

「……人間にバレないの?」

「ええ。基本隠していますが、まんいち持っていかれたとしても新しい異物を殺せば良いだけですから」

 まるで当たり前でしょう、と言わんばかりに言った。慈悲じひなどこの世界には存在していなかった。

「そこまでしてっ……! い、いつか皆にバレるぞ」

 恐怖からかいきどおりからなのかベアはガチガチと震えていた。

「気付かれませんよ」

「なっ……どうして……」

「わかりませんか? 馬鹿なのですか? 『こんな世界間違っている!』 『パウロは死んでいる!』なんて言ったらどうなると思いますか? 自分が異物として殺されてしまいますよ。だから何も言えないんです。皆にならうしかない。ねぇ? おかしいでしょ?」

 ルーベルトは笑った。しかしそれは今までのような笑顔ではなく、人を食う――猿を食ったような笑みだった。


なんです。その代わりといってはなんですが、違う考え、違う種族はいたぶって良い決まりなんですよ」

「それって……」

 ベアは察した。そして今回も信じたくないかいを導き出していた。

「争いのない世界、唯一ゆいいつのストレス発散がそれなのです」

 ルーベルトは笑うことで感情が入るのか、大袈裟に手を広げてみせた。

「たまにいるんですよ。ベアさんみたいに。知らずにやってきて、持てはやしてあげてると喜んでねぇ。いやぁたまらないんですよ? 花みたいに綺麗なんです。血って。ベアさんもやってみますか?」

 語っているのは残忍で聞きたくない内容なのに、ルーベルトは夢を語るかのようにキラキラしていて、それが一瞬だけベアにはまぶしくみえてしまった。

「最近はお客様が来なくてねぇ。久しぶりのお客様だったから、みんな浮かれてしまって……ねぇ? ベアさん?」

 鋭い眼光にベアは射貫いぬかれた。逃げるなと言われているのだと気付く。

「おかしい……こんな世界おかしいよっ……」

 先程話を聞いたばかりなのにベアはつい口走ってしまった。

「おかしい? おかしいですか?」

 ルーベルトは待ってましたと言わんばかりに周りに聞こえる大きな声で言った。

 チンパンジー達はその声に反応し長い手を引きずりながらベアにジリジリと近付く。手には石や枝を持っている者もいた。

 飛び立つタイミングを逃したベアに、石を持ったチンパンジーが襲いかかる。


 血が舞い散る。

 しかしそれは花のように綺麗なものではなく、得たいの知れない気色の悪いものだった。

「逃げて!」

「!」

 振り絞られた声を背にしベアは飛び立った。背後から石が弾丸のように飛んでくる。

 石の届かない安全な高さまできてベアはようやく振り返った。

 届かないにも関わらずチンパンジー達はまだこちらに向かって石を投げつけていた。

 そして、何かに群がるチンパンジー達。静かな闇からブチブチと鈍い音が響き恐怖を煽る。

 楽しそうに千切ちぎりはしゃぐチンパンジー達はまるで、粘土遊びを楽しんでいる子どもにみえた。

 どうやって、かばってくれたのか。しかし考えることが恐ろしかった。全てが。助けてくれたあのチンパンジーですらベアは畏怖いふしてしまっていた。


 ――パタン。夜の二時に静かな音が喫茶店に響く。玄関に付いている動物用の扉が閉まる音だった。

「やっと帰ってきた! 帰らないなら連絡くらいちょうだ――」

「あんたね、こんな時間までどこに――」

 同時に放たれた言葉は同じくして同時に言いよどんだ。それはベアがあのときのチンパンジー同様、震えていたからだった。

「ちょ、どうしたのよ」

 レトロが珍しく焦ったように言った。

「と、とりあえず、落ち着きましょうか! えっと、えーこういうときは、そうね、ホットミルクにしましょ!」

 落ち着かない様子のミョウメイがベアをいつもの席に座らせ、しばらくしてホットミルクをれてきた。

 それを飲んで少し落ち着きを取り戻したベアはこれまでの経緯いきさつを話した。

「そんなことが……。ごめんなさいね、私があんなこと言ったから」

「あんたのせいじゃないわよ」

 話を聞き終わったレトロは苛立ちだった。いつもは関心がなさそうなレトロだがチンパンジー達の所業しょぎょうに憤りを感じていた。そしてベアに対しても少なからず苛立ちをつのらせていた。

「あんたね、少しは慎重になりなさいよ。危なっかしくて見てらんないわよ」

「まぁまぁレトロ。今日はお説教はなしにしてあげて? ベアも。こう見えてレトロも心配してくれてるのよ?」

「なっ! 心配なんかしてないわよ!」

 いつも通りの会話も今のベアには苦痛に感じるほど余裕が無かった。油断した隙間から赤黒いうずに心を侵食されそうだった。

「うん。ありがと。……ちょっと疲れちゃったから寝るね」

 そういうとベアは首をちぢめると後ろに回し、体をまくら代わりにした。

「……私もそろそろ寝ようかしら」

「そうね。遅くまでご苦労様」

「別にっ……。眠れなかっただけよ」

 いつのにか猫の姿になっていたレトロは、いつものベッドへと向かった。

 ミョウメイはレトロのあとを追うように薪ストーブへと向かった。

 天板に付いている温度計は【250】辺りを指している。ミョウメイが空気を絞ると、メラメラと燃えていた新しいであろう薪が徐々に炎をしずまらせていった。

 それをしばらく見つめたあと、ミョウメイはカウンター近くの階段を登り二階へ消えていった。

 まだ暖かい部屋の中でベアはかすかに震えていた。それはやはり寒さとは別のものだった。


「あーお腹すいたー」

「もうできるわよーん」

 恐怖の次の日の朝は爽やかだった。大きな窓から光が差し込み、朝日に照らされてキラキラと何か漂っている。妖精が通ったかと勘違いするほど綺麗だが、それはただのほこりだった。

 サティのジュ・トゥ・ヴーが流れる店内にいつも通りの面々めんめんがカウンターには揃っていた。

「あんたねぇ……」

 さっそく人の姿をしたレトロが不機嫌そうに言った。

「昨日の今日でよくそんなにケロっとしてられるわね……なに? 馬鹿なの?」

「失礼な! 思い出さないためにもこうしてるんだよ」

 そう言うとベアはすでに用意してある珈琲にくちばしをつけ飲んだ。

「はいはいそーですか」

 レトロもならうように冷えたミルクティーを口に流し込んだ。

「今日の珈琲も美味しいでしょう? 今日のはコピルアクって言って、これまたすんっごいんだから!」

「んーよくわかんない」

 ベアは味を確かめるように再度すすった。

「これはね、とっても貴重なのよ? ジャコウネコの糞から採れた豆を洗浄して――」

 そう言いかけると、何処からともなく嗚咽おえつが聞こえた。

「うげぇ!? 糞!?」 

「……あんた達なんてもん飲んでんのよ」

 レトロはひきつったような恥ずかしいような表情をしていた。

「もう! れっきとした豆よ! これは!」

 ミョウメイが釈明しゃくめいするも、ベアしばらく口をつけなかった。

 

「レトロももしかして……出るの?」

 ミョウメイの話を聞いて疑問に思ったベアが純粋に尋ねる。それを聞いたレトロは徐々に顔を赤らめていった。

「はぁ!? ばばばかじゃないの?! 出るわけないでしょ?!」

「えー? 珍しいから見てみたかったのになぁ」

 レトロは人を殺せそうな視線でベアをにらんだ。

「ほらほら馬鹿なこと言ってないで。さぁ出来たわよー!」

 ミョウメイは色鮮やかな料理をフライパンから皿に盛り付けていた。

「え! なになに?!」

「どーせたいしたものじゃないわよ」

 そう言いながらも気になる様子のレトロはそっぽを向きながらもはジト目で伺っていた。ベアは昨日からろくなものを食べていないのでとにかく待ち遠しかった。

「ジャジャーン!」

 真っ白なお皿に色がふんだんに乗っていた。ブロッコリーやきのこパプリカそして海鮮の食材。その食材達はあっさり塩味のあんでできた艶々のベールをまとっていた。ベールに沈みいくルビーの宝石はよく見るとクコの実がらしてあるだけだった。


「………………なにこれ」

 ベアはその中から未確認生命体の足のようなものを発見した。

「うっ……気持ち悪っ」

 レトロは嗚咽した。

「えー! そんなこと言わないのぉ! これはタコよ! 見た目はグロテスクだけど本当に美味しいんだから!」

 ミョウメイはそういうと、タコをつまみ食いした。口から少しだけはみ出たタコの足はミョウメイの咀嚼そしゃくと共に動いている。

「…………遠慮します」

「……わ私、猫だからタコ食べれないから」

「それは猫の姿のときだけでしょう? 人の今なら大丈夫よ!」

 ミョウメイはスプーンを取り出し、あーんとベアとレトロの口元に差し出した。

「い、いらないって!」

「ミ、ミョウ! 押し付けは良くないわよ!!」

 二人は焦りながら口をへの字に曲げて断固拒否した。

「あーあ。みんな好きなものが同じなら良いのにねぇ」

 ミョウメイはがっかりしたようにタコを自分の口元に運んだ。

「……そういうところからチンパンジーみたいな異常な世界になるのよ」

「失礼しちゃうわ! 私はそんな野蛮やばんな生き物じゃありません!」

「……ミョウ、何か食べるものは?」

「タコがあるわよ」

 朝の店内は流れるBGMにそぐわず騒々しかった。

 二人の食事のやり取りを見ているとベアはふと、昨日の食事会を思い出した。


「そういえば、あの肉は何の肉だったんだろ?」

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考究のベア 凍ノ絵しらたきを @sirataki3

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