第1話【無垢の罪】
「君は幸せなの?」
「……ああ、とても幸せだよ」
「僕にはそうは見えないけれど」
「そうだろうな。幸せの基準はそれぞれだろう」
ウサギの
木造建てとは言ったものの、その大半は人間が飼育する
小屋は黒や茶色や緑にシルバーが所々、自分の役割を主張するように
茶黒いトタンの屋根は、なぜ今まで
「君以外のウサギはどうしたの?」
「……皆いなくなった。
「へぇ」
自分から質問した
「君は外の世界に興味はないの?」
「……外の世界? なんだねそれは」
「この
カラスは翼を広げてみせた。
ウサギは少しの沈黙の後に口を開いた。
「そうだな……考えなかったよ。
そう言ったウサギはまた鼻をヒクヒクさせるだけで、あとは全く動かなかった。
カラスは
「また明日、話に来るよ。もう暗くなりそうだし」
「……またかい。何度同じ質問をする気だね」
同じく
「僕の気が済むまで……かな」
車が
路地の両側には家が建っており、何だか分からない植物が
路地を抜けると畑が広がっていた。右手の畑は
反対側の畑は逆に
畑の
そのすぐ横には
なだらかなS字の坂道を少し行くと、センスの良い喫茶店が
庭にあるソファ式のブランコは風で揺れている。玄関に伸びる申し訳程度の
それを進むと『いなり珈琲店』と書いてある看板があり、玄関には【Close】とプレートが掛けられていた。
「へぇ? ウサギはそんなことを」
「そう」
玄関から奥、薄暗い部屋にサイフォンの火が淡くカウンターで向かい合う二人を照している。
奥の棚にはカップとソーサーが綺麗に飾られていた。
部屋の
「僕には理解できない」
椅子には箱が積み上げられ、カラスとテーブルを丁度良い高さに調節している。
カラスの前に置かれたカップは白地に黄色で
カラスは珈琲に
「相変わらずよくわからない飲み物だね」
「そうかしら? 香りなんか
「
「そうだったわね。平等に出来ているわ、世界ってのは」
ククク、とカウンター越しで笑う彼は不思議な雰囲気を
線が細く、
耳にはシルバーの耳飾りが垂れており、揺れる度に不思議な
「ミョウメイはどう思う?」
ミョウメイと呼ばれた男は
「幸せと言うならそれで良いんじゃぁない? 私達には奇妙であったとしても」
「私達ってことは、ミョウメイも変だと思ってるってことだよね」
「そうね。私には少し退屈すぎるわ。でも、ベア。興味本位で深く聞きすぎるのはダメよ。行き過ぎた好奇心は時に狂気へ変える。相手も自分自身も」
ミョウメイは人差し指をベアに向け、
ベアと呼ばれたカラスはふーんと、これまた興味の無さそうな返事をしながら珈琲を
まったく、とため息をつき、ミョウメイはオーロラの炎を眺めながら珈琲を飲んだ。
翌日、太陽が
山を一つ飛び越え、小高い丘の上に森を切り開いて作ったような大きな公園があった。
その公園の入り口から右手にその小屋はあった。
カラスは元々白く、神の遣いだったという
「こんにちは」
「あぁ……君か」
昨日と全く同じ場所にウサギは居た。違うのは毛玉が一つ増えただけだった。
「ねぇ、聞きたいんだけれど」
「……なんだい」
「あなたの夢は何?」
「……夢?」
少し驚いたような仕草が見て取れた。ウサギは鼻のヒクヒクを止め、目を見開いた。お
「ハハハハ! 夢だって?! ハハハ!!」
ウサギは大声で笑った。あの
「はははは……はっ…………はぁ……」
息が続かないのか、ウサギは少し苦しげに身体を上下させた。
「どうして笑うの?
「……そうだな。……悪かった」
ウヴンと
そしてブルブルと首を左右に振り、終えると、いつも通り
「……前も言ったと通り、私はこの世界が気に入ってる。飯も出てくれば、天敵に狙われることもない。
最後の方は聞き取るのがやっとな声だった。
前々から感じていた違和感を今回もベアは覚えた。それはウサギの話した内容ではなく、まるで自分に言い聞かせているような話し方に対するものにであった。
「ふーん……。そういうものなのかな」
沈黙する二羽の
次は何を聞こうか、と考えるベアはふと上に目を向けた。
昼過ぎの空には嘘のような青が広がっていた。
「……君の夢は?」
「…………へ?」
初めてのウサギの質問に今度はベアが驚く。そしてすぐ、はっきりした声で言った。
「人間。人間になること」
ガハハハハ! と、またもや笑い声が響く。
しかしベアは何も言わず真っ直ぐにウサギを見つめた。それに気付いたウサギは笑うのをやめた。
「…………すまなかった。私には考えられない夢だったんでな」
「大丈夫。そういった反応は慣れてるから」
「どうやって人間になるつもりだ?」
「それを聞きに回ってるんだ」
ウサギはまた笑いそうになったが、それを
程なくして何か考えるように少しの憂いを帯びた。
ベアは見逃さなかった。
「やっぱり幸せにはみえない」
「!」
今まで固い壁で隠していた図星を、一部の
「……幸せだよ」
「本当に?
「だから、他のウサギは……」
「違うよ。ここのウサギじゃなくて、他の、山のウサギ達とか」
ベアがそう言いかけた途端、ウサギは付いているのか疑わしかった目を今度は飛び出しそうなほど見開いた。
「…………他にウサギがいるのか?」
「……へっ?」
ベアは噛み合わない会話、今何を聞かれたのか、理解するのに
それまで定位置から微動だにしなかったウサギは老いを感じさせない
「ここの世界以外に、同類がいるのか?!」
ベアはまた理解するのに時間がかかった。
「えぇ……えっと……割りと沢山……かな?」
その言葉を聞いた瞬間、ウサギは今度こそ
「……今までこの世界、この金網の中にしか私達は居ないと思っていた。それもそうだろう、私は産まれてからずっと、ここで生きてきた。外の世界など知らないままな」
呼吸を整えてからウサギは続けた。
「……他の奴らが死んだ後、ずっと孤独だった……寂しかった。もちろん外へ逃げ出すことも考えたさ。だが、知らない世界に飛び込むより、今の世界を受け止めた方がずっと楽だ。幸せだって思い込めば幸せになる。……わかるだろ?」
下を向きながら、同意を求めるように目だけをベアに向けた。
「…………いえ」
ベアはそれを断るように視線を
ウサギはだろうな、と言わんばかりに
「幸せだったんだ。幸せだたったよ。……君が来るまでは」
その時、下を向いていたウサギは何か
ベアは嫌な予感がした。
「な、なぁ……不幸だと言ったらここから出してくれるかい?」
期待混じりの声にベアは戸惑う。
先程初めて見たウサギの目とはあまりにも輝きが違った。
「そ、それは……できません」
その言葉に今度はウサギが戸惑う。
「な、なぜだ……? あんなに、外に出るよう
「べっ別に、促してたわけじゃ……」
「なんだ? だとしたら、ただの冷やかしじゃないか……っ。そんなに面白かったか!? 老人を
「……き、君のせいだぞ……どうしてくれるんだ? 私はずっと幸せだと自分に思い込ませてきた! ……そうでないと到底生きていけないから。一度不幸だと気付いてしまったらもうっ……!」
ああ、とウサギは
遂には、おいおいと泣き出してしまった。
「なぁ……ここから出してくれよ。ま、また明日も来てくれるだろ?」
「えぁ……え、はいっ」
「何年ぶりか話したんだ。昨日も今日も本当は君が来るのを待ちわびていたんだ。なぁ……お願いだ。ここから出して……。外の世界に行きたい。ここは安息の地なんかじゃない。地獄だ。だから……独りにしないでくれ」
金網に手を掛け、
沈黙の中、はぁはぁと苦しげな息遣いだけが耳に残った。
「き、きっとなんとかなるよ。なにか方法を探してくるから。と、とりあえず今日はそろそろ帰らないとだから、またね」
ベアはウサギに恐怖を抱き、早口で別れを告げると逃げるように飛び去った。
「まっ待って! 待ってくれ!」
まだ
「お、お前のせいだぞ! 無責任に私の世界を覗きやがって!!」
聞こえているのか分からない黒い悪魔に目掛けて、
「おおお前は私を殺した!! 殺したんだ!!!」
「だから言ったでしょう? 興味本位だけで話を聞いてはいけないって。はぁ~っ、罪なカラスねぇ……」
ミョウメイは
ベアは翼をカウンターテーブルにペタッと広げ、
「うん……思い知ったよ……。今度から気を付ける」
「明日ちゃんと謝りに行くべきね」
ミョウメイは今度は
「えぇ!? そんなぁ! 無理だよ……うわわ!」
勢いよく顔を持ち上げたお陰でバランスを崩し、調節で使っていた箱が崩れ落ちた。
「ベア。人間の世界では間違いを
「わ、わかったよ……!」
箱をもとの椅子に戻しながら食い気味で答えた。
「だけど、そのウサギの
「ホントッ……ああなったのも結局は自分のせいじゃないか」
ボソッと
「それで?人間とは会話できたの?」
ベアと向かい合うカウンターに立ったまま
サイフォンの火に照らされた彼の姿は一枚の絵のようだった。
「いいや。常に声はかけてみるんだけどね。誰も気が付かないんだ」
「そう……。きっと、気付けないのね。カラスが喋るなんて普通ありえないですもの」
「なんでそう決めつけちゃうんだろ? この世界はありえない事で
「……。自分の
ミョウメイが何か他に言いたげな顔をしているのを、フラスコに反射した自分だけに見られていた。
ドアについてる動物用の扉がパタンと音をたてた。
「あら? レトロ? 集会はもう終わったの?」
黒くふさふさで靴下を履いたような猫は二人を見向きもせず薪ストーブの前にある猫用ベッドめがけて優雅に歩いている。
「それならどんなに良いことかしらね。……忘れ物よ」
丸いベッドはドーナツの
長らく使っているようだが、きちんと手入れされているのが見て取れた。
「今日は自分の宝物を持ち会う日らしくてね。はぁ馬鹿馬鹿し」
そういうとレトロはベッドの窪みの溝に挟まっていたネズミの
「レトロの宝物ってそれ?」
「っ馬鹿、んなわけないでしょ」
抗議する為に開かれた口は、咥えたネズミをベッドの上に落とした。
静寂の中、パチパチとなる火の音に加えて小さくピコっと鳴った。
「じゃ、何でそれ持ってくの?」
「はぁ……」
「あんたね、聞くばかりじゃなく少しは考えなさいよ。いい? 本当に周りが羨む物を持って行ったらどうなるかわかる?」
「うわぁ! いいなぁ! ……?」
レトロは首を垂れ、はぁーっと盛大にため息をつく。
「……あんたみたいな能天気ならそう思うだけかもね」
レトロは落ちたネズミを拾おうとベアに向いていた視線をベッドに移し、言った。
「だけど、世の中そんな奴らだけじゃないの。
「ふーん……そういうもんかな」
「……馬鹿共の
レトロの苦しげな表情の先にはベッドの溝の奥に埋れた
翌日、気が進まず公園に着いた頃には日が傾きはじめていた。
「ああ、嫌だなぁ……」
小屋の遥か上空で円を描いていたカラスは意を決して力強く降下した。
「……あれ?」
異変に気付いたのは小屋まであと少しの所だった。
金網に小さな穴が空いていた。
それは
いつもとは違う様子の小屋にいてもたってもいられなかった。焦っているのか、いつもの優雅な降り方はなく、急いで中を確認した。
いなかった。金網の中にはいつもの老いぼれウサギは姿を消し、毛玉だけが風で
「逃げたんだ……!」
驚きと喜びが混ざったよくわからない感情だった。
「でかしたぞ! あのじいさん! 遂に外に出たんだな!」
確認の為ベアは公園の辺りを見て回ったがウサギはいなかった。
喫茶店に帰る途中も見回りながら飛んでいたが、それらしきものは見当らなかった。
「なんですって?」
カウンターで皿を取り出していたミョウメイは動きを止めた。
「あのおじいさん遂にやったんだ! 外に出られたんだ! いやぁ良かったぁ!」
「本当に良かったのかしらねぇ……。外には天敵もいるだろうし……ひょっとして今頃……」
「大丈夫だよ! 辺りを見回ったけど、ウサギの毛玉すら見付からなかった! 逃げ延びたんだよ!」
ベアは箱の上で翼を少し広げて興奮ぎみに話た。
それはウサギが外の世界へ出られた喜びよりも、ウサギをあんな風にさせてしまった責任から
「そう……。それなら良いんだけど。さ、ご飯よ」
ベアの前にコトッと運ばれたものは青い皿に乗せられ、その青との
「はい! バターで炒めたチキンライスの上に、ふわとろ卵! そしてバターで炒めたシメジとタマネギのデミグラスソース!」
ミョウメイは皿をおくと、途端に説明を始めた。
「卵はバターをひいたフライパンを傾けて混ぜながら半熟に焼くのよ! その後チキンライスの上に卵を掛ける。そのとき多少卵のかけ方がいびつでも大丈夫! ソースで隠せちゃうから! ね! あーもう聞いてるだけで美味しそう!!」
「……バターの乱用」
「あとはぁ、はいっ! 珈琲!」
コトっといつものカップが差し出された。
「今日はすんごいわよ! 豪華よ! ゲイシャ! ゲイシャが手に入ったの!」
「……ここでお座敷遊びでもするの?」
「違うわよ! んでもってあんたにはまだ早い! 珈琲の名前よ! な・ま・え!」
「へぇ! ゲイシャって名前の珈琲があるんだね!」
「そうよ。ゲイシャはね華やかな香りに果実のような酸味、まるで紅茶の……」
ピチャピチャ。説明の
ベアは説明そっちのけで珈琲を飲んでいた。
「うん、やっぱり僕にはよく分からない」
「あんたねぇ……」
まぁいいわ、と言うようにミョウメイは自分の珈琲を飲んだ。おいしい、と呟くように言った。
「それにしてもミョウメイ、僕が鶴じゃなくてよかったね」
「ん…?」
ミョウメイは思考を巡らし、オムライスの皿を見て
「あんらぁ! ごめんなさい! 気が付かなかったわ! じゃこれは私がもらうから! ごめんなさいね!」
そう
「あ! うそうそ! 冗談だよ! 僕器用だから大丈夫!」
そう言うとベアは顔を傾けながらオムライスを
「いやねぇ……。危うくキツネになるところだったわ」
白くすらりとした、雪のような指で口を抑えクスクスと笑った。
その時、【close】と掛けてあった扉が開いた。入ってきたのは華奢な可愛らしい少女だった。
白いブラウスに紺のスカートを履いていて、色白に映える黒髪をツーサイドアップにしている。こちらも緑に光るビー玉の様な綺麗な目だった。
「あら、おかえりレトロ。遅かったわね。今ミルクティーを淹れるわ」
レトロと呼ばれた少女はカウンターにいるベアの左隣りに座り、結わいていたリボンを
わさぁっと散る髪の毛から黒いネコの耳が表れた。
「その姿で集会に出たの?」
ベアは覗き込むように言った。
「んな訳ないでしょ。ちゃんと猫の姿で出たわよ。その後ちょっと用事があったから人間になったの」
「用事って?」
ベアはオムライスを食べながら、ついでのように聞いた。
「……あのねぇ、聞かれたくないことだってあるの! 少しは
「はーい」
レトロの話を軽く流し、ごちそうさまと呟いた。
しかめっ
ありがと、と
猫舌、とベアはレトロを盗み見ながら呟いた。
「そういえばレトロからは話は聞けたのかしら?」
珈琲を飲みながらミョウメイは尋ねた。
「聞いたんだけどね、『化け猫以外に人間になれる方法なんて知らないわよ』……だってさ」
「ふん、仮に知ってても教えないわよ」
「ケチ」
「なんとでもいいなさい」
レトロはグラスを眺めながら、頬杖とは反対の手でグラスを回した。
パチパチと燃える火の音とは対照的にカラカラと氷の涼しげな音が鳴った。
「ミョウ、何か食べ物あるかしら?」
レトロはベアの空皿に目を移しながら言った。
「あら? 食べてきてないの?」
「うん。集会でご馳走が出たんだけど、私はあんまり好みじゃなかったから。みんなは『今日は豪華だ』って騒いでたけど」
「へぇ。一体どんなご馳走だったのかしら?」
レトロは最後のミルクティーを飲み終えると、また頬杖をつき、つまらなさそうに答えた。
「ウサギよ」
焼き焦げた薪が音も立てず静かに終わりを告げた。
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