第1話【無垢の罪】



「君は幸せなの?」

「……ああ、とても幸せだよ」

 小春空こはるぞらの下、金網かなあみ越しに首周りがわかやかな声で言う。

「僕にはそうは見えないけれど」

「そうだろうな。幸せの基準はそれぞれだろう」 

 かすれた声の持ち主は金網の奥。木造建ての小屋のすみの方でスノコの上に小さく丸まっているウサギは、お世辞にも可愛いとは言えない。

 ウサギの年季ねんきの入った耳は垂れ下がっていた。伸びきった毛で目がおおわれ、目が付いているのかも疑わしくなる姿であった。ウサギは鼻を上下にヒクヒクと動かすだけで、あとはちっとも動かない。

 すすすなで汚れたものなのか、本来の色なのかわからない灰色をした毛は抜け落ちていた。爪とぎでボロボロになったスノコの上に毛玉が二、三個転がっている。あとは飲み水とからの皿だけで、それ以外には何もなかった。

 

 木造建てとは言ったものの、その大半は人間が飼育するさいの通路のことであって、ウサギからすれば金網で囲まれただけの四角い部屋である。

 小屋は黒や茶色や緑にシルバーが所々、自分の役割を主張するように点在てんざいしているが、元々この小屋自体が何色をしていたのか、これまたわからなかった。

 茶黒いトタンの屋根は、なぜ今までがれなかったのだろう、と思わざるをないものであった。


「君以外のウサギはどうしたの?」

「……皆いなくなった。随分ずいぶんと前のことだがな」

「へぇ」 

 自分から質問した、興味がないような返事をしてしまいと思うが、表情の読めないウサギに気を使うのも馬鹿らしくなった。

「君は外の世界に興味はないの?」

「……外の世界? なんだねそれは」

「このおりそとのことだよ。もしかして考えたこともなかった?」

 カラスは翼を広げてみせた。も、が素晴らしいと、いざなうように言った。

 

 ウサギは少しの沈黙の後に口を開いた。

「そうだな……考えなかったよ。物心ものごころついたときから、ここが私のだ。それに、私はこのに居られて幸せだとも思う」

 そう言ったウサギはまた鼻をヒクヒクさせるだけで、あとは全く動かなかった。

 カラスは到底とうてい理解できない、という表情でウサギを見た。ウサギの表情はやはりはかり知れなかった。

「また明日、話に来るよ。もう暗くなりそうだし」

「……またかい。何度同じ質問をする気だね」  

 みじかさを感じる夕日ゆうひはカラスをオレンジ色にふちった。

 同じくいろどられたウサギに向かってカラスは言った。

「僕の気が済むまで……かな」

 

 車が往来おうらいする大通りから少し離れた所。大通りを大木たいぼくとすると、その路地ろじ小枝こえだが分かれたかのように細かった。

 路地の両側には家が建っており、何だか分からない植物がはちに植えられじかに道端に置かれている。

 

 路地を抜けると畑が広がっていた。右手の畑はひざほど盛り上がった土で、売り物にならなかったのかカボチャや冬瓜とうがんキャベツなどが転がっていた。

 たがやす途中なのかくわが土に刺さりながら横に倒れていた。

 反対側の畑は逆にひざほど盛り下がっていて、こちらにはパンジーとネギが植えられていた。

 畑のふちには夏に咲いていたであろう向日葵ひまわりが、れたバナナのような色をして捨ててあった。

 そのすぐ横には簡易的かんいてきなラックがあり、ぶりなカボチャがふたつと竹をくりぬいて作った貯金箱がチェーンで繋がれていた。カボチャの前にはダンボールの切れはしが置いてあり、『1個100円』と書かれていた。

 

 なだらかなS字の坂道を少し行くと、センスの良い喫茶店が一軒いっけん現れた。  

 煉瓦調れんがちょう煙突えんとつのある家で、手入れされた庭には鮮やかな花が規則性をもって並んでいた。

 庭にあるソファ式のブランコは風で揺れている。玄関に伸びる申し訳程度の煉瓦れんが絨毯じゅうたん

 それを進むと『いなり珈琲店』と書いてある看板があり、玄関には【Close】とプレートが掛けられていた。


「へぇ? ウサギはそんなことを」

「そう」

 玄関から奥、薄暗い部屋にサイフォンの火が淡くカウンターで向かい合うを照している。

 奥の棚にはカップとソーサーが綺麗に飾られていた。

 部屋のすみにはにはまきストーブがあり、その前には靴下を履いたような黒猫が猫用ベッドの上で丸まって寝ている。


「僕には理解できない」

 暗闇くらやみに溶けるようなカラスは首回くびまわりが白く、その模様が薄暗い部屋の中で三日月みかづきのように浮かんでいた。

 椅子には箱が積み上げられ、カラスとテーブルを丁度良い高さに調節している。

 カラスの前に置かれたカップは白地に黄色で縁取ふちどった青のラインが一本、シンプルだがその気無げなさが上品であった。ソーサーも同じであった。

 

 カラスは珈琲にくちばしをつけ、そのままパクパクしながら器用に飲んだ。

「相変わらずよくわからない飲み物だね」

「そうかしら? 香りなんか格別かくべつよ」

生憎あいにく嗅覚きゅうかくは悪いんでね」

「そうだったわね。平等に出来ているわ、世界ってのは」

 ククク、とカウンター越しで笑う彼は不思議な雰囲気をかもし出していた。

 線が細く、すじばった身体には透き通る肌がまとわりついている。端正たんせいな顔には綺麗な黄色のビー玉がまれているようだった。

 白髪はくはつで長く伸びた髪はまとめて結わかれている。

 耳にはシルバーの耳飾りが垂れており、揺れる度に不思議な色気いろけかもし出していた。当然それは耳飾りからではなく、彼の仕草によって動かされた、ということにある。

 はかなげで、どこかうれいをびている彼をカラスは、(これが二枚目にまいめというやつか)と感心と疑問の眼差しで眺めていた。


「ミョウメイはどう思う?」

 ミョウメイと呼ばれた男は逡巡しゅんじゅんする様子をみせ、しばらくして口を開いた。

「幸せと言うならそれで良いんじゃぁない? 私達には奇妙であったとしても」

「私達ってことは、ミョウメイも変だと思ってるってことだよね」

「そうね。私には少し退屈すぎるわ。でも、ベア。興味本位で深く聞きすぎるのはダメよ。行き過ぎた好奇心は時に狂気へ変える。相手も自分自身も」

 ミョウメイは人差し指をベアに向け、たしなめるように言った。

 ベアと呼ばれたカラスはふーんと、これまた興味の無さそうな返事をしながら珈琲をすすった。

 まったく、とため息をつき、ミョウメイはオーロラの炎を眺めながら珈琲を飲んだ。


 翌日、太陽が真上まうえに上がった頃、喫茶店から一羽のカラスが西方に向け飛び立った。

 山を一つ飛び越え、小高い丘の上に森を切り開いて作ったような大きな公園があった。

 その公園の入り口から右手にその小屋はあった。

 カラスは元々白く、神の遣いだったという逸話いつわが本物であるかのように優雅ゆうがに美しく降り立った。


「こんにちは」

「あぁ……君か」

 昨日と全く同じ場所にウサギは居た。違うのは毛玉が一つ増えただけだった。

「ねぇ、聞きたいんだけれど」

「……なんだい」

「あなたの夢は何?」

「……夢?」

 少し驚いたような仕草が見て取れた。ウサギは鼻のヒクヒクを止め、目を見開いた。おかげで初めてウサギの目が見えた。しかし、それはすぐに隠され、次第に肩を震わす仕草に変わった。

「ハハハハ! 夢だって?! ハハハ!!」

 ウサギは大声で笑った。あの老体ろうたいのどこに、こんな声が出せるのかベアは不思議に思った。

「はははは……はっ…………はぁ……」

 息が続かないのか、ウサギは少し苦しげに身体を上下させた。

「どうして笑うの? 可笑おかしな事ではないでしょう?」

「……そうだな。……悪かった」 

 ウヴンと咳払せきばらいをし、ばつが悪そうなウサギは後ろ足で垂れ下がった耳の付け根をポリポリと掻いた。

 そしてブルブルと首を左右に振り、終えると、いつも通り微動びどうだにしないウサギに戻った。


「……前も言ったと通り、私はこのが気に入ってる。飯も出てくれば、天敵に狙われることもない。安息あんそくの地で私は平和に暮らせている。何とも素敵な事だろう? これ以上何を望む? いや、何もないだろう……何もないんだ」

 最後の方は聞き取るのがやっとな声だった。

 前々から感じていた違和感を今回もベアは覚えた。それはウサギの話した内容ではなく、まるで自分に言い聞かせているような話し方に対するものにであった。

「ふーん……。そういうものなのかな」

 沈黙する二羽のあいだを木枯らしが吹く。

 次は何を聞こうか、と考えるベアはふと上に目を向けた。

 昼過ぎの空には嘘のような青が広がっていた。


「……君の夢は?」

「…………へ?」

 初めてのウサギの質問に今度はベアが驚く。そしてすぐ、はっきりした声で言った。

「人間。人間になること」

 ガハハハハ! と、またもや笑い声が響く。

 しかしベアは何も言わず真っ直ぐにウサギを見つめた。それに気付いたウサギは笑うのをやめた。

「…………すまなかった。私には考えられない夢だったんでな」

「大丈夫。そういった反応は慣れてるから」 

「どうやって人間になるつもりだ?」

「それを聞きに回ってるんだ」

 ウサギはまた笑いそうになったが、それをおさえた。

 程なくして何か考えるように少しの憂いを帯びた。

 ベアは見逃さなかった。

「やっぱり幸せにはみえない」

「!」

 今まで固い壁で隠していたを、一部の欠損けっそんから的確にかれたような顔をした。

「……幸せだよ」

「本当に? ほかのウサギ達と暮らすことは考えないの?」

「だから、他のウサギは……」

「違うよ。ここのウサギじゃなくて、他の、山のウサギ達とか」 

 ベアがそう言いかけた途端、ウサギは付いているのか疑わしかった目を今度は飛び出しそうなほど見開いた。


「…………他にウサギがいるのか?」

「……へっ?」

 ベアは噛み合わない会話、今何を聞かれたのか、理解するのにしばらく口を開けたままだった。

 それまで定位置から微動だにしなかったウサギは老いを感じさせないいきおいで金網越しのカラスにせまった。

「ここの以外に、同類がいるのか?!」

 ベアはまた理解するのに時間がかかった。

「えぇ……えっと……割りと沢山……かな?」

 その言葉を聞いた瞬間、ウサギは今度こそ生気せいきを失ったかのようにその場にへたり込み、言った。

「……今までこの世界、この金網の中にしか私達は居ないと思っていた。それもそうだろう、私は産まれてからずっと、ここで生きてきた。外の世界など知らないままな」

 

 呼吸を整えてからウサギは続けた。

「……他の奴らが死んだ後、ずっと孤独だった……寂しかった。もちろん外へ逃げ出すことも考えたさ。だが、知らない世界に飛び込むより、今の世界を受け止めた方がずっと楽だ。幸せだって思い込めば幸せになる。……わかるだろ?」

 下を向きながら、同意を求めるように目だけをベアに向けた。

「…………いえ」

 ベアはそれを断るように視線をらした。しかしそれは恐れからくる反射的な行動にすぎなかった。

 ウサギはだろうな、と言わんばかりに自嘲じちょうした。

「幸せだったんだ。幸せだたったよ。……君が来るまでは」

 その時、下を向いていたウサギは何かひらめいたような顔でベアを見た。

 ベアは嫌な予感がした。

「な、なぁ……不幸だと言ったらここから出してくれるかい?」 

 期待混じりの声にベアは戸惑う。

 先程初めて見たウサギの目とはあまりにも輝きが違った。

「そ、それは……できません」

 その言葉に今度はウサギが戸惑う。

「な、なぜだ……? あんなに、外に出るよううながしてたじゃないか! その方法があるから私に話してきたんだろう? 違うのか?!」

「べっ別に、促してたわけじゃ……」

「なんだ? だとしたら、ただの冷やかしじゃないか……っ。そんなに面白かったか!? 老人をもてあそぶのが!!」

 弁解べんかいしようにも、ウサギの鬼の形相ぎょうそうを見てベアは口をパクパクさせるのが限界だった。

「……き、君のせいだぞ……どうしてくれるんだ? 私はずっと幸せだと自分に思い込ませてきた! ……そうでないと到底生きていけないから。一度不幸だと気付いてしまったらもうっ……!」

 ああ、とウサギは項垂うなだれる。怒りの表情から一変いっぺんして悲しみへと、感情が忙しかった。

 遂には、おいおいと泣き出してしまった。


「なぁ……ここから出してくれよ。ま、また明日も来てくれるだろ?」

「えぁ……え、はいっ」

体中からだじゅうの液という液を全て出し切ったのか、ウサギの涙は止まっていた。

「何年ぶりか話したんだ。昨日も今日も本当は君が来るのを待ちわびていたんだ。なぁ……お願いだ。ここから出して……。外の世界に行きたい。ここは安息の地なんかじゃない。地獄だ。だから……独りにしないでくれ」

 金網に手を掛け、すがるようにベアを見つめる。

 沈黙の中、はぁはぁと苦しげな息遣いだけが耳に残った。

「き、きっとなんとかなるよ。なにか方法を探してくるから。と、とりあえず今日はそろそろ帰らないとだから、またね」

 ベアはウサギに恐怖を抱き、早口で別れを告げると逃げるように飛び去った。

「まっ待って! 待ってくれ!」

 まだの高い空に向かって飛び立つカラスは、ウサギにとって悪魔にみえた。

「お、お前のせいだぞ! 無責任に私の世界を覗きやがって!!」

 聞こえているのか分からない黒い悪魔に目掛けて、断末魔だんまつまのような声で叫んだ。


「おおお前は私を殺した!! 殺したんだ!!!」


「だから言ったでしょう? 興味本位だけで話を聞いてはいけないって。はぁ~っ、罪なカラスねぇ……」

 ミョウメイはひたいに手をつけ、はぁとため息をついた。

 ベアは翼をカウンターテーブルにペタッと広げ、項垂うなだれていた。

「うん……思い知ったよ……。今度から気を付ける」

「明日ちゃんと謝りに行くべきね」

 ミョウメイは今度はあごに手をあて、ウンウンとうなずく。

「えぇ!? そんなぁ! 無理だよ……うわわ!」

 勢いよく顔を持ち上げたお陰でバランスを崩し、調節で使っていた箱が崩れ落ちた。

「ベア。人間の世界では間違いをおかしたなら謝る。それが」

「わ、わかったよ……!」

 箱をもとの椅子に戻しながら食い気味で答えた。

「だけど、そのウサギの責任転嫁せきにんてんかも酷いものねぇ」

「ホントッ……ああなったのも結局は自分のせいじゃないか」

 ボソッとなげき、最後の箱を積み終えた。


「それで?人間とは会話できたの?」

 ベアと向かい合うカウンターに立ったまま頬杖ほおづえをつき、ミョウメイは言った。

 サイフォンの火に照らされた彼の姿は一枚の絵のようだった。

「いいや。常に声はかけてみるんだけどね。誰も気が付かないんだ」

「そう……。きっと、のね。カラスが喋るなんて普通ありえないですもの」

「なんでそう決めつけちゃうんだろ? この世界はありえない事でちてるのに!」

「……。自分の尺度しゃくどで物事を見ているうちはまだまだ。狭いのよ……が」

 ミョウメイが何か他に言いたげな顔をしているのを、フラスコに反射した自分だけに見られていた。

 

 ドアについてる動物用の扉がパタンと音をたてた。

「あら? レトロ? 集会はもう終わったの?」

 黒くふさふさで靴下を履いたような猫は二人を見向きもせず薪ストーブの前にある猫用ベッドめがけて優雅に歩いている。

「それならどんなに良いことかしらね。……忘れ物よ」

 丸いベッドはドーナツのように穴は空いていないが、真ん中がくぼんでいた。

 長らく使っているようだが、きちんと手入れされているのが見て取れた。

「今日は自分の宝物を持ち会う日らしくてね。はぁ馬鹿馬鹿し」

 そういうとレトロはベッドの窪みの溝に挟まっていたネズミの玩具おもちゃくわえた。押し込むとピコピコ鳴る代物しろものだった。

「レトロの宝物ってそれ?」 

「っ馬鹿、んなわけないでしょ」

 抗議する為に開かれた口は、咥えたネズミをベッドの上に落とした。

 静寂の中、パチパチとなる火の音に加えて小さくピコっと鳴った。

「じゃ、何でそれ持ってくの?」

「はぁ……」 

 心底しんそこ面倒くさいと言わんばかりにレトロは答えた。

「あんたね、聞くばかりじゃなく少しは考えなさいよ。いい? 本当に周りが羨む物を持って行ったらどうなるかわかる?」

「うわぁ! いいなぁ! ……?」 

 レトロは首を垂れ、はぁーっと盛大にため息をつく。

「……あんたみたいな能天気ならそう思うだけかもね」

 レトロは落ちたネズミを拾おうとベアに向いていた視線をベッドに移し、言った。

「だけど、世の中そんな奴らだけじゃないの。むしろ嫉妬したり敵意を向ける奴らの方が多い」

「ふーん……そういうもんかな」

「……馬鹿共のしゃくさわんのよ」

 レトロの苦しげな表情の先にはベッドの溝の奥に埋れた朱色しゅいろの首輪があった。


 翌日、気が進まず公園に着いた頃には日が傾きはじめていた。

「ああ、嫌だなぁ……」

 小屋の遥か上空で円を描いていたカラスは意を決して力強く降下した。


 「……あれ?」

 異変に気付いたのは小屋まであと少しの所だった。

 金網に小さな穴が空いていた。

 それはかじられたように不恰好ぶかっこうな穴で、金網の針先はりさきには毛が絡まっていた。

 いつもとは違う様子の小屋にいてもたってもいられなかった。焦っているのか、いつもの優雅な降り方はなく、急いで中を確認した。

 

 いなかった。金網の中にはいつもの老いぼれウサギは姿を消し、毛玉だけが風でうごめいていた。

 「逃げたんだ……!」

 驚きと喜びが混ざったよくわからない感情だった。

 「でかしたぞ! あのじいさん! 遂に外に出たんだな!」

 確認の為ベアは公園の辺りを見て回ったがウサギはいなかった。

 喫茶店に帰る途中も見回りながら飛んでいたが、それらしきものは見当らなかった。


「なんですって?」

 カウンターで皿を取り出していたミョウメイは動きを止めた。

「あのおじいさん遂にやったんだ! 外に出られたんだ! いやぁ良かったぁ!」

「本当に良かったのかしらねぇ……。外には天敵もいるだろうし……ひょっとして今頃……」

「大丈夫だよ! 辺りを見回ったけど、ウサギの毛玉すら見付からなかった! 逃げ延びたんだよ!」

 ベアは箱の上で翼を少し広げて興奮ぎみに話た。

 それはウサギが外の世界へ出られた喜びよりも、ウサギをにさせてしまった責任からまぬかれた喜びの方がまさっているようであった。

「そう……。それなら良いんだけど。さ、ご飯よ」

 ベアの前にコトッと運ばれたものは青い皿に乗せられ、その青との対比コントラストによりとろとろの卵が際立ってみえるオムライスだった。

「はい! バターで炒めたチキンライスの上に、ふわとろ卵! そしてバターで炒めたシメジとタマネギのデミグラスソース!」

 ミョウメイは皿をおくと、途端に説明を始めた。

「卵はバターをひいたフライパンを傾けて混ぜながら半熟に焼くのよ! その後チキンライスの上に卵を掛ける。そのとき多少卵のかけ方がいびつでも大丈夫! ソースで隠せちゃうから! ね! あーもう聞いてるだけで美味しそう!!」

「……バターの乱用」

「あとはぁ、はいっ! 珈琲!」

 コトっといつものカップが差し出された。

「今日はすんごいわよ! 豪華よ! ゲイシャ! ゲイシャが手に入ったの!」

「……ここでお座敷遊びでもするの?」

「違うわよ! んでもってあんたにはまだ早い! 珈琲の名前よ! な・ま・え!」

「へぇ! ゲイシャって名前の珈琲があるんだね!」

「そうよ。ゲイシャはね華やかな香りに果実のような酸味、まるで紅茶の……」

 ピチャピチャ。説明の最中さなか、水の跳ねる音が響く。

 ベアは説明そっちのけで珈琲を飲んでいた。

「うん、やっぱり僕にはよく分からない」

「あんたねぇ……」

 まぁいいわ、と言うようにミョウメイは自分の珈琲を飲んだ。おいしい、と呟くように言った。


「それにしてもミョウメイ、僕がじゃなくてよかったね」

「ん…?」

 ミョウメイは思考を巡らし、オムライスの皿を見て可笑おかしそうにああ、と納得した。

「あんらぁ! ごめんなさい! 気が付かなかったわ! じゃこれは私がもらうから! ごめんなさいね!」

 そう洒落しゃれのめし、オムライスを取り上げようとするミョウメイをベアは慌てて止めた。

「あ! うそうそ! 冗談だよ! 僕器用だから大丈夫!」

 そう言うとベアは顔を傾けながらオムライスをくちばしでパクパクと食べ始めた。

「いやねぇ……。危うくキツネになるところだったわ」

 白くすらりとした、雪のような指で口を抑えクスクスと笑った。

 

 その時、【close】と掛けてあった扉が開いた。入ってきたのは華奢な可愛らしい少女だった。

 白いブラウスに紺のスカートを履いていて、色白に映える黒髪をツーサイドアップにしている。こちらも緑に光るビー玉の様な綺麗な目だった。


 「あら、おかえりレトロ。遅かったわね。今ミルクティーを淹れるわ」

 レトロと呼ばれた少女はカウンターにいるベアの左隣りに座り、結わいていたリボンを無造作むぞうさに取り払った。

 わさぁっと散る髪の毛から黒いネコの耳が表れた。

「その姿で集会に出たの?」

 ベアは覗き込むように言った。

「んな訳ないでしょ。ちゃんと猫の姿で出たわよ。その後ちょっと用事があったから人間になったの」

「用事って?」

 ベアはオムライスを食べながら、ついでのように聞いた。

「……あのねぇ、聞かれたくないことだってあるの! 少しはつつしみなさいよ」

「はーい」

 レトロの話を軽く流し、ごちそうさまと呟いた。

 しかめっつらのレトロの前には冷たいミルクティーが差し出された。

 ありがと、と一言ひとことそれを一気いっきに半分ほど流し込む。

 猫舌、とベアはレトロを盗み見ながら呟いた。


「そういえばレトロからは話は聞けたのかしら?」

 珈琲を飲みながらミョウメイは尋ねた。

「聞いたんだけどね、『化け猫以外に人間になれる方法なんて知らないわよ』……だってさ」

「ふん、仮に知ってても教えないわよ」

「ケチ」

「なんとでもいいなさい」

 レトロはグラスを眺めながら、頬杖とは反対の手でグラスを回した。

 パチパチと燃える火の音とは対照的にカラカラと氷の涼しげな音が鳴った。


「ミョウ、何か食べ物あるかしら?」

 レトロはベアの空皿に目を移しながら言った。

「あら? 食べてきてないの?」

「うん。集会でご馳走が出たんだけど、私はあんまり好みじゃなかったから。みんなは『今日は豪華だ』って騒いでたけど」

「へぇ。一体どんなご馳走だったのかしら?」

 レトロは最後のミルクティーを飲み終えると、また頬杖をつき、つまらなさそうに答えた。      


「ウサギよ」

 

 焼き焦げた薪が音も立てず静かに終わりを告げた。

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