15.大家と出資者とクレープ職人

 創世の女神の腕に包まれると、彼女が纏う甘い香りに引き込まれる。

 微睡みのような柔らかさのそれは花と果実と砂糖菓子に似ていて、幸せばかりの中でサチカは陶然とした。


 一方の女神は、そんな夢見心地の雰囲気とは真逆に、はしゃいだ声を上げている。


「サチカちゃん、来てくれてありがとう!」


(女神さま、いい匂い……それに、すごく軽い?)

 ぎゅうぎゅうと手加減なく抱きつかれているのは確かなのに、その圧はほとんどなく、何故か羽根が触れるくらいの感触だった。


「本物のサチカちゃんだわ、小さいわ、可愛いいー!」

「ティア、少し落ち着こうか」


 カフェラテ色の魔人が苦笑混じりに女神を嗜める。

 創世の女神は今気付いたようにカフェラテ色の魔人を見て、美しい所作で首を傾げた。


「エル、久しいわね。わたくしを喚んだのは貴方だったの。貴方と会うのは何百年ぶりかしら……引退する目処は立った?」

「まぁ、そちらは追々にね。まずは、お嬢さんを放してあげて。苦しそう……でもないけど、そろそろ眠ってしまいそうだ」

「……あら?」


 創世の女神の腕の中、サチカはとろんと目蓋を落として夢の世界に旅立とうとしていた。

 どこまでも沈み込んで身体に沿う極上のクッションを得たように、するりと、そして容赦なく眠りの淵に落ちていく。


「あらあら、サチカちゃん。待って、まだ眠らないで?」

「……むにゃ」

「サチカちゃん、サチカちゃん。起きてちょうだい」


 優しい鈴の音のような創世の女神の声は心地良く、さらに微睡みへ誘われてしまい、サチカの意識は淡い色の夢に染まった。


「サチカちゃん? このまま寝たら、」


 遅刻するわよ、みたいな日常的な雰囲気で、女神は怖ろしい未来を提示した。


「魂が剥がれてしまうわよ」


「えっ!」

 女神の召喚に固まっていたナビィが蒼ざめて、慌ててサチカの耳を掴まえた。


「サチカ、起きろ! 寝るなサチカ!!」


 雪山で遭難したかのようなふたりを見ながら、カフェラテ色の魔人がティーカップを傾ける。

「やはり、転移者か。……魂の定着が、まだ不完全なのかな?」

「えぇ、サチカちゃんは異世界転移して、こちらに来たばかり。だから、わたくしの近くで寝てしまっては危ないわね。夢はわたくしの領域……神域に招いてしまうもの。エルも、不用意なことはだめよ? 気をつけてあげてちょうだい」

「今、お嬢さんを危険に晒してるのは貴女だけれどね……どうぞ」


 カフェラテ色の魔人はティーカップの縁を爪で弾いて、この状態の女神にも触れられるよう転じたお茶をふるまった。

 創世の女神は微笑んで用意された席に戻り、召喚の供物を受け取る。時折、石を投げ込んだ湖面のように揺らいでいた女神の輪郭が、ふわんと整えられていく。


 案内妖精に揺り起こされたサチカが無事に目を開けると、サチカの前には清涼感のあるハーブティーが置かれていた。


「……ふわ、わたし、いま寝てた?」

「……寝てた、じゃ済まない域に達してたぞ」


 大きく息を吐いたナビィは、あくびをこらるサチカにおはようと挨拶されて、一層疲れたように肩を落とした。


「まるで危機感がない……」


 カフェラテ色の魔人が小さな手で頭を抱えてしまった案内妖精にほんのりとした憐憫の視線を送り、創世の女神に向き直る。


「それじゃ早速だけど、女神の祝福が過剰なのをどうにかしてくれ」


「祝福の手かしら。トールのこと? それともハル? またあの子が何かしたの?」

「ハルがいた時代とは離れてるよ、ティア。トールもまた色々やってるようだけど、今はこのお嬢さんだ」


 ふうふうと息を吹きかけ冷ましながらハーブティーを飲んでいるサチカを示され、創世の女神は優美な仕草で首を傾げる。


「サチカちゃん? 何か困ったことがあったのかしら」

「どうぞ、お嬢さん」


 魔人に譲られて、サチカは姿勢を正した。


「実は、女神さまからいただいた祝福の手? が上手く使えなくて、作ったクレープが劇物になっちゃうんです」

「まぁ、困っているのね? わたくしにできることなら、何でもするわ!」

「いや、ティアが何でもしたから、お嬢さんが困ってるんだよ」


「えっ、そうだったの?」

「えっ、そうなんですか?」


 重なる声は、創世の女神とサチカのもの。

 全ての元凶は女神にあると断じたカフェラテ色の魔人は頷いて、サチカの手を女神に見せる。

 サチカの両手は、何の変哲もないただの手でしかないが、そこに在る祝福を見て取ることは、女神にとって造作もない。

 慈愛に満ちた笑顔でサチカの手を撫でた。


「わたくしの祝福は、サチカちゃんと相性が良かったみたい。こんなに定着した子は初めてよ」

「こんなに定着したら、無差別に進化させてしまうだろう」

「あら、そうね……」


 嫋やかな指先を頬に当て考えを巡らす女神が、でも、と魔人を見上げる。


「でも、進化が加速するなら、後進の魔王が育って引退できるんじゃない? エルにはちょうど良いわね」




(……まおう、って……)


 派手目な単語が出てきて、正直なところサチカはついて行けていない。

 理解できる範囲で状況を整理するならば、ティーテーブルを囲んでいるのは魔王と女神と失業中のクレープ職人とその案内妖精の四人。

 魔王と女神は、サチカの両手をそれぞれに握って、その手が宿す女神の祝福の密度を調整しているところだった。


「もういい加減に長いから、魔王を引退しようと後進育成中なんだ。なかなか後継者が決まらなくてね」


 あっさりと言うのは、魔王ことカフェラテ色の魔人、その名はエルネスト。

 この迷宮グランシャリオの最下層に棲む魔王から直々にエルと呼んで良いとの許可があったので、断れるはずもないサチカはエルさんと呼ぶことになった。

 迷宮グランシャリオの主である魔王は、クレープ作りをするための場所を提供するいわゆる大家……な気がする。


 また、そんなやり取りを見ていた女神に、「ずるいわ、わたくし」もと可愛くねだられて、彼女のことはティアと呼ぶことになった。

 ちなみに女神の本名をサチカは聞き取ることができなかった。初めて会った時にも教えてもらった記憶が朧げにあるが、まだこの世界に定着しきっていないサチカにとって、創世の女神の名前は抱えきれない程重すぎる情報となるらしい。

 サチカがここでクレープを作る理由は、彼女の願いだ。キッチンや食材の調達など様々な便宜を図ってくれている創世の女神は、もしかしたら出資者……なのかもしれなかった。


 ということは、ここにいるのは、大家と出資者と失業中のクレープ職人とその案内妖精である。

 大家と出資者は、サチカの両手をそれぞれに握って、その手が宿す女神の祝福の密度を調整ーーという方向で、食の安全性を準備しているところだった。


(あ、それならわかるかも)


 現状を自分の身近な認識にどうにか持ち込んで、サチカは肩の力を少し抜く。

 いくら考えても女神と魔王に囲まれていることには変わりないが、それには持ち前の鈍感力で蓋をした。

 その他にも、会話を聞きながらついうとうとしてしまうことが、状況から目を逸らすために一役買っていた。

 女神と魔王の日常会話には、世界の深い真実がさらりと混ざっていたりするため、そばに居るサチカは、自己防衛としての忘却の眠りに誘われがちなのだ。

 そのため雪山遭難的事故を防ぐ目的の案内妖精が耳元にスタンバイして、ふいに船を漕いで夢の世界に旅立つサチカの意識を得意の耳引きでつないでいる。


「後継者不足ですかー……」


 うつらうつらしながら相槌を打つサチカの耳を、ナビィがぎゅうと引っ張った。

 ふわ、と目を瞬く間にも女神と魔王の世間話が展開されて、サチカの耳は引かれて過ぎてちょっぴりと赤くなる。よく気がつくナビィはそっと癒しの魔法をかけて反対側の耳に移動してくれた。


「しばらく前に、エルが育てていたあの子はどうなったの?」

「いつの時代のことかな」

「五百年前かしら、それとも五十年後? ハルが頑張っていた頃かしら」

「勇者ハルの頃だと、今から八百年前だ。俺の前任者の話で、騙されて育成されてた後継者候補が俺になるね。……ティア、この指の祝福は世を乱すよ」

「まあ、あの子がエルだった? 反抗的な目で睨まれたのを覚えているわ。可愛かったのねえ。……左薬指の祝福は外せないわ、それは恋の祝福だから、乙女には不可欠なの。ねぇ、サチカちゃん」

「え、あの、恋とかそういうのは、まだあんまり……今は安全にクレープを作れるようになりたいです」

「わかったわ。それなら、恋の祝福はこのままでもクレープ作りには支障がないわね」


 にこりと微笑む女神に、飽きれた顔で魔王が首を振る。常に微睡み浮世離れが長い女神に言うのは無駄と切って、当事者になるサチカに判断材料を用意した。


「この祝福が育てば、お嬢さんは傾国になるだろう。どうしたい?」

「けいこく、ですか……?」

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