13.跳躍と副作用

 光の繭が解けて、まず見えたのは、淡い桃色の髪だった。ゆるやかに波打つ長い髪が、するりと白い肩を滑り落ちる。

 俯いているせいで顔は見えないが、髪の隙間から覗く白磁の頬は滑らかで、すっきりとした輪郭がわかるようだ。

 膝と手を地面に付いてうずくまる手足は細っそりとして華奢に見えるが、頬にかかった横髪をかき揚げる仕草だけでも、しなやかな腕の筋肉が見て取れた。

 目覚めたばかりの濃藍色の瞳が、サチカを見つけて柔らかく笑み蕩ける。

 白い卵の木の木漏れ日の下、輝くような裸体はまるで神話の中の一場面のようーー


(……、……、はだ、)


 か、の最後の一文字を思考に上げる前に、顔の前に案内妖精の翅がサッと差し入れられる。

 透き通る翅はキラキラと光の粉をまぶしていて、その全ては透過させない絶妙な具合でサチカの視界にモザイク効果を与えてくれた。


(裸ー!?)


 サチカらしい速度で訪れた驚愕に目を見開くと、適度に歪む視界の中で、件の人影が立ち上がろうとしていた。

 見えてしまっては、色々まずいことになってしまう。

 サチカは慌てて目を閉じた。


「ミミタマ族の魔人……未分化か」


 ナビィは目を眇めて、急速な進化を成したミミタマ族の魔人を見る。まだ性の象徴が見当たらない未分化の状態だが、小さな魔獣の姿から一気に豊かな力を持つ成年期までに至るのは、あり得ない進化率だった。

 薄桃色の髪をした魔人は、じっとキッチンカーを見た。否、キッチンカーの中にいるサチカだけを見つめている。

 先程試食したクレープが進化の起爆剤に違いなく、狙いはまだ残っているクレープか、作り手のサチカ自身という可能性もあるだろう。

 ナビィは警戒に翅を震わせながら、いつでも護りの魔法を敷けるように力を整えた。


 ミミタマ族の魔人が前へ進もうとして、長い手足を持て余した動きで立ち止まる。

 すらりとした手足を見比べて考えること、しばし。

 両足を揃えると、ぴょこんと跳ねて前へ進んできた。


 ぴょん、ぴょこん。


 それは、小さな卵型の毛玉としてならば愛くるしい仕草だっただろう。

 しかし今は進化を遂げた魔人。長身で均整のとれた身体をしている。さらに言えば、本当の意味の身一つで、跳ね飛び進むのは控え目に言っても特殊な姿だ。


 ナビィは表情を変えずに素早く手を伸ばし、バタンと音を立てて、キッチンカーのカウンターになっている跳ね上げ式の窓を閉めた。


「えっ、この状況で引きこもるのかい?」


 カフェラテ色の魔人の声が壁越しにくぐもって聴こえて、サチカがそおっと目を開けた。

 ナビィはサチカと目を合わせて、頼もしく頷いてみせる。

「大丈夫だ、気にするな」


「でも、……あのミミタマ族の子が大きくなったのは、わたしのクレープのせいだよね? 謝りに行かなきゃ」

「いや、外に出るのは、まだ危険だ」

 ミミタマ族の魔人の目的に加えて、視界的な暴力の影響も懸念された。

「危ないんだったら、助けに行かなきゃ!」

「危ないのはお前だけで、あっちは大丈夫だ」


「おおーい、お嬢さんと案内妖精君? こっちは大丈夫じゃないよ?」


 外から届くカフェラテ色の魔人の声は、ナビィによって黙殺された。


「それに、進化ならば、ミミタマ族側には不都合は少ない」

 進化に要する膨大な年月を大幅に短縮したのだから、むしろ喜ばれているだろうというのが案内妖精の見解だった。

 サチカはほぅと安堵の息をつく。

「そうなの? 共食い的な禁忌とか副作用はないのね?」

「副作用……」


 そこでナビィが考えてしまい、サチカはさあっと蒼ざめた。


(副作用……食中毒みたいなのが出てたらどうしよう!?)


 食中毒、それは世の飲食店が怯える恐怖の事故である。

 まだクレープ屋が始動してもいないこの時期に食中毒事故を起こすなど、経営の資格を問われても仕方がない事案であり、その程度のクレープを女神に届けるなど言語道断だろう。


「謝らなきゃ! それから保健所に通報して、それから立ち入り調査で」


 食中毒を出した飲食店目線の対応を組み立て、まずは何より救護と謝罪のために外に出ようと、カウンターと反対側に作り付けられたドアに齧り付いた。

 サチカの動きを見守っていた案内妖精は、そのままで飛び出しそうな勢いに諦めの嘆息をして、サチカの足元を指差した。


「わかった、とりあえず靴を履け」


 またもや靴を脱いでいたサチカだった。



「どうしてお前はすぐに靴を脱ぎたがるんだろうな?」

 あまりにも警戒心が足りないとナビィに苦言を呈されて、サチカは逆に首を傾げる。

「だって、なー君。この中はキッチンで、食品を扱う場所だよ? 土足はダメでしょ」

「そうなのか?」

「うん、専用のコックシューズが欲しいくらい」

「わかった、手配しとく」

 案内妖精は備品の発注もできるらしい。


 靴を履きながら互いの認識の違いを埋めて、準備が整うなりサチカはパタパタと走り出す。

 キッチンカーに沿ってぐるりとカウンター側へ回り込み、魔人達の影に向かってがばりと頭を下げた。

 正面からの立ち位置ではなかったため、相手の姿をあまり見なくて済んだのは幸運だったのかもしれない。


「すみませんでした、本当にごめんなさい。お身体どうですかっ」


 不用意に近づかなかったのは、案内妖精の指導によるものだ。

 その案内妖精といえば、謝罪会見ばりの最敬礼なお辞儀に驚き、目を丸くして翅を震わせている。


 下草をぽすん……ぽすんと踏む音がした。

 不規則な間隔で踏み締める音は、近づくにつれて早く、等間隔なものになる。


 ぴょん、ぴょこん、ぴょこぴょこ。


 頭を下げたままのサチカの隣で、ナビィは無言で警戒を深め、護りの魔法を備えた。

 ミミタマ族の魔人は、ふわふわの髪を揺らしながら跳ね進み、無言でサチカを狙っている。動きが少しずつ滑らかに、動く度に進化による外殻の変化に適応しているようだった。

 つまりは、一度の跳躍による移動距離が伸び、連続的な動きも速やかに習得されて、近づく速度が早くなっている。


「おやおや、その姿で年頃のお嬢さんに近づくのはいただけないな」


 そう言ったのは、腕組みをして気楽な様子で傍観していたカフェラテ色の魔人だ。右手を滑らせ、空中から掴み取った大判の布をミミタマ族の魔人へ投げ渡す。

 ミミタマ族の魔人は顔面すれすれに飛んできた布を受け止めると、布と周囲の服装を見比べて、首を傾げた。


「人間の文化的には、それ以上近寄るなら、衣類を身に付けた方が良いだろうね。嫌われてしまうかもしれない」

 それはそれで面白いかもしれないがと笑うカフェラテ色の魔人は、長く在るだけあって迷宮の外の文化にも通じているらしい。

 ミミタマ族の魔人は中性的に整った顔を悲しげに歪めて、慌てた手つきで裸身に布を巻きつけた。

 くるくると巻かれた布は、身体にぴたりと吸い付くハイネックのシャツと光沢のある素材のスキニーパンツに変わる。布地の大きさが足りなかったのかそういうデザインなのか、シャツの裾は短くパンツはローライズになっているため、腹部が晒されてしまっていた。


 機動性に優れるが防御力は弱そうだ、と冷静にナビィは分析する。素早い動きで敵を翻弄するタイプである可能性が高い。

「着たとしても、無駄に近づくなよ」

 魔人への忠告の後、油断はするなと前置いてサチカに顔を上げさせる。

 いつでも放てるよう、護りの魔法を手元で待機させた。


 眉を落として困り顔をしたまま頭を上げたサチカが見たのは、目に優しい感じに服装を整えたミミタマ族の魔人の笑顔だった。


(あ、元気そう?)


 見ている方にまで喜びが移りそうな、満面の笑み。

 顔色も良く、少なくとも今の体調は良さそうだ。 サチカはほっと表情を緩め、つられたように淡く微笑んだ。

 けれど、それも長くは続かない。

 なぜなら、サチカの笑顔を見て更に気持ちを上げてきたミミタマ族の魔人が、大きく跳んできたからだった。


 細身の身体を沈めて、溜めた力を一気に跳躍に変える。

 ばびょんと数メートルは高く上がり、一足飛びでサチカに肉迫した。


「無駄に近づくなって忠告したぞ」


 音もなく、ナビィが待機させていた魔法を展開すると、放物線を描いてサチカのすぐ傍へ落ちてきたミミタマ族の魔人が、見えない盾にぶつかり地面に落ちた。続けてキラキラと光る輪が長い手足を拘束してしまう。

 声を発するのは不得手なのか、ミミタマ族の魔人は苦鳴を上げることはなかった。

 案内妖精の圧勝である。


「ふわぁ」


 魔人の跳躍に驚いたサチカが瞬いている間に、それらの全てが終わっていた。

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